夜の庭
オリヴィアの告白を聞いた後も、シェイラの気持ちは完全に晴れたわけではなかった。オリヴィアは未来の自分の姿だと、そう思えてならなかったからだ。
いつかこの恋心を捨てなければならない時が来る。そして、それは遠い未来の話ではないのだとシェイラは思った。レオンハルトに大切にされていると思えば思うほど、いつか訪れる別れに恐れを抱く。
舞踏会の事件以降、夕方になると、クリスティーナの部屋に集うことが習慣になりつつあった。事件についての調査結果を報告するためだ。
「ビューロー伯爵ですが、どうも裏でかなりの悪事をしていたようですね。貴族達からの評判は最悪です」
オリヴィアが口を開くと、ヒースが補足する。
「市民に対してもかなり横暴な振る舞いをしていたそうです」
「恨まれる理由があり過ぎる訳か。逆に犯人の特定が難しくなるな」
バーナードが苦々しく言う。
「レオンハルトの方はどうだ?」
「やはり物価が上がっています。酒税や塩税、ざっと調べただけでもアルタニアよりかなり多くの税をとられています。パンまで以前の倍の値段だと市民が不満を零していました」
「やはり戦争の影響か? しかしゴルゴナは半年前かなりの領土を得たはずだが」
三年前、ゴルゴナは隣国で行われている五カ国を巻き込んだ戦争に介入した。兵を送り込み戦況を有利にすすめ、半年前、広大な領土を獲得したとの話がアルタニアまで聞こえてきていた。
「まだ、戦争は完全には終結していませんし、ナヴィド補佐官はカロン宰相の政策を引き継いだようですね。かなりの戦争推進派です」
戦争は人命を消費させ、莫大な金を食う。その皺寄せが市民生活に影響を与えているようだった。
「もう少し、調べてくれるか?」
「わかりました」
険しい顔でバーナードと話すレオンハルトの横顔を、シェイラはそっと見つめた。
どんなに諦めようと思っても、彼の姿を見ればどうしようもなくまた焦がれてしまう。もうどうすればいいのか、シェイラにも分からなかった。
話が終わり、外務局の面々が席を立ちかけたところで、突然、レオンハルトがシェイラの手を掴んだ。自然な動作で、己の右手を彼女の左手に重ねる。
「クリスティーナ殿下、彼女をしばし貸していただきたい」
レオンハルトの言葉に、クリスティーナはぱっと表情を輝かせた。きらきらと純粋な眼差しが二人を見つめている。
シェイラの方は突然のことに動揺し、絶句していた。周りの面々も目を丸くする。この場でクリスティーナだけが、何のてらいもなくレオンハルトの行動を受け入れたようだった。
「ええ、どうぞ。後でちゃんと送り届けてね」
クリスティーナの快諾に、レオンハルトはにっこりと「勿論です」と微笑んだ。さらりと退出の挨拶を口にすると、そのまま部屋を後にする。
シェイラに「おいで」と囁くと、彼女の手を引いて歩き出した。
「あの、レオンハルト様どこへ」
シェイラの問いに目線だけを寄越して答えず、レオンハルトは歩を進めていく。シェイラもそれ以上質問するのをやめ、そっとレオンハルトの手を握り返した。その行動にちらりとシェイラの方を振り返って、目元を緩ませる。そんな表情一つでさえ、シェイラの胸を高鳴らせた。
回廊から庭に出ると、レオンハルトは庭園にある丘を目指して歩いていく。鬱蒼とした木々の間を抜け、湖にかかる橋を渡る。
既に日は沈み、空には星が瞬いていた。頭上に浮かぶ月が、周囲を明るく照らしている。
言葉もなく歩き続けると、やがて開けた見晴台に出た。小さな東屋が佇む、人気のない場所である。
レオンハルトはシェイラを東屋の長椅子に座らせると、彼女の顔を下から覗き込むように膝を折った。
「シェイラ、教えてくれ。何が君にそんな顔をさせているんだ?」
ふさいだ気分でいることに、レオンハルトは気がついていたのかと、シェイラは内心驚いた。クリスティーナやエイミーでさえ、最近のシェイラの変化に気づかなかったのに。
けれど、どうして言えるだろう。いつか来る貴方との別れが辛いのだと。言えば、彼を困らせてしまう。
シェイラは唇を噛み締め、頭を振った。言うことはできないのだと、レオンハルトに伝わるように。今、口を開けば、声が震えてしまうと分かっていた。
頑ななシェイラの態度にも、レオンハルトは辛抱強かった。
両手でそっとシェイラの頬を包み込むと、「私の目を見て」とシェイラの瞳を覗き込む。
レオンハルトの青い瞳の中に、自分の姿が映り込んでいる。それを目にして、シェイラの目尻にじわりと涙が滲んだ。目を潤ませたシェイラにレオンハルトは優しく言葉を紡ぐ。
「君のことが大切なんだ。だから、教えてくれないか」
これまで彼の表情や態度から、大切にされていることは分かっていたが、言葉にされたのはこれがはじめてだった。
「……いなく、なるのに」
気づけば、ぽろりと言葉が零れていた。
シェイラの言葉をレオンハルトは真剣に聞き入っている。彼女の言葉を一言も聞き漏らさないとでもいうように。
「いなくなる? 私が?」
意外な事を聞いたというように、レオンハルトは聞き返した。
こくりと小さく頷くシェイラに、レオンハルトはゆるゆると首を振る。
「私はいなくならないよ。もしかして、私が君にそんな顔をさせていたのか?」
シェイラの沈黙を、レオンハルトは肯定の意に捉えたようだった。真剣な表情のまま、シェイラの前に跪き、まるで愛を請うようにその手をとる。その行為に、シェイラは一瞬びくりと身体を震わせた。レオンハルトは熱のこもった瞳でシェイラを見つめ、口を開く。
「シェイラ、君が好きだ。もう二度と君の手を離しはしない。だからどうか、私の傍にこれからもいてくれないか」
それは、真摯な告白だった。
大きな驚きと共に、胸を満たす気持ちをどう表現すればいいのかシェイラには分からない。
彼の声は、こんな時でさえ心地よい穏やかさで、シェイラの耳に響くのだった。
レオンハルトは瞬きも忘れたシェイラに言葉を重ねる。
「あの時の告白の、これは答えになるだろうか」
ーーずっと、お慕いしておりました。
婚約解消を申し出たあの時。シェイラが吐露したのは、答えをもらうことを求めない、一方的な愛の告白だった。
あの時は、レオンハルトの姿を見ることさえもうなくなるのだと本気でそう思っていた。こんな風に想いを告げられる日が来るとは想像もしていなかった。
「君が背負っているものを、私にも持たせてほしい」
疑う余地を与えぬ程誠実な声音に、じわじわとレオンハルトの言葉が胸に染み込んでいく。幸せに泣きたくなることもあるのだと、シェイラは思った。しかし彼を前にシェイラは躊躇う。彼の手を取りたいという思いと、それが自分に許されるのだろうかという二つの思いがせめぎ合っていた。
拒む理由なら沢山あった。シェイラの家の罪、レオンハルトに背負わせる重荷。自分の望みは、恥知らずと謗られる類のものだ。
それでも、どうしようもなく心が叫ぶのだ。彼の傍にいたいのだと。
何度悩み諦めようとしても、身を焦がす熱を消すことはできなかった。もう自分でもどうしようもできないこの想いを、貫くことは許されるのだろうか。
「……私などでよいのですか」
「君でなければ駄目だ」
身を固くしたシェイラの肩から、緊張がゆっくりと解けてゆく。
「シェイラ」
低く、甘い囁きが耳朶を打つ。ーーどうか、答えを。そう告げる彼の瞳を、シェイラも見つめ返した。
「……私も、貴方の傍にいたいのです」
許されるなら。罪深いと分かっていても、彼が望んでいてくれるのならば傍にいたかった。
シェイラの答えに耳を傾けていたレオンハルトは、幸せそうに微笑む。
静かにレオンハルトから手が伸ばされ、シェイラの首筋に触れる。彼の顔がゆっくりと近付くのを瞳に映しながら、シェイラはそっと瞼を閉じた。柔らかく唇が重ねられ、シェイラの頬に金色の髪が落ちる。
月明かりの下、ここを訪れる者はない。ひっそりとした静謐が二人を包み、夜に溶けていった。




