過去1
公爵家を出る馬車が動き出すと、シェイラはわっと膝に顔を埋めて泣き出した。抑えきれない嗚咽が漏れる。涙が次から次へと溢れ出て止まらない。
自分から婚約破棄を告げた事を、既に後悔し始めていた。後一ヶ月黙っていれば長い間恋い焦がれた相手と結婚できたというのに。父親の企みがどうであれ、結婚してしまえばよかったではないか。自分は何も知らなかったのだと偽って。
それをしなかったのは、王家への忠誠心ばかりが理由ではない。家の不祥事が明るみになった後、レオンハルトのシェイラを見る目が嫌悪と憎しみに変わることが何より恐ろしかった。そこに蔑みの色を見れば、シェイラの精神はきっともたないだろう。父の罪を知ってから、父親が処刑される未来より、レオンハルトから軽蔑される事を恐れる己の心の浅ましさをシェイラは何より知られたくなかったのである。
***
レオンハルトと婚約したのは、シェイラが10歳の時。物心つく前から冷えきった関係だった両親は、それぞれ外に公然と愛人を作り、人目を憚ることがなかった。シェイラには、両親とともに食卓についた記憶がほとんどない。唯一家の中でシェイラに話しかけてくれた八つ年の離れた兄は、15歳になると逃げるように陸軍士官学校へ入った。それから一度も家には帰ってきていない。
そのような環境で、子供がまともに育つはずがない。この頃、シェイラはひどく口数の少ない子供だった。じっと周りを観察し、自分を傷つけようとする者がいないか警戒していた。
シェイラに縁談の話がまとまったのは、そんな時期。家庭を顧みなかった父親は、一方で侯爵家の繁栄には熱心な男だった。兄アルフレッドには伯爵家の女性相続人を、シェイラには公爵家嫡男という、貴族社会において最高の相手を見つけてきた。
初めてレオンハルトと対面した時のことをシェイラははっきりと覚えている。金髪碧眼という物語から抜け出てきたかのような色を纏った青年は、シェイラを見てもニコリとも笑わなかった。
レオンハルトの態度からは、幼い婚約者への関心は微塵も感じられない。
第一印象はお互いに良いものとは言えなかった。シェイラは無口過ぎ、レオンハルトは無愛想過ぎた。
そんな状態であったから、月に一度シェイラを訪ねてくるレオンハルトとの時間は、二人の親交を温めるものにはならず、同じ部屋にいながらそれぞれ読書をして過ごすという奇妙なものになっていた。
「もうこんな本を読んでるのか」
そうレオンハルトが声をかけたのは初対面から四ヶ月後。シェイラが手にした本の表紙を見て意外そうに呟く。独り言のように呟かれた問いだったが、シェイラはレオンハルトの方を見上げると、こくんと頷きを返した。シェイラが読んでいたのは近代史の書籍で、10歳の少女が読む内容としてはいささか難しい。
その後、二言三言シェイラが内容について理解していることを確認すると、レオンハルトは何事か思案して帰って行った。
一ヶ月後再び訪ねて来たレオンハルトは、シェイラに一冊の本を差し出した。本のタイトルを見てシェイラは顔に疑問符を浮かべる。
「ポルポネ語の本ですか?」
ポルポネは大陸西部の強国である。シェイラ達の国との貿易も盛んで、人口も多い。
「数カ国語覚えるといい。まずはポルポネ語がいいだろう」
今日の天気を語るような気軽さで言うレオンハルトに困惑したが、否ということもできずに本を受け取る。
驚くべきことにレオンハルトは家庭教師の手配までしていて、その後週4日、外国語の授業を受けるのがシェイラの日課となった。シェイラが真面目にポルポネ語の習得に取り組んだのは、レオンハルトへの好意からではなく、婚約者の不興を買うと面倒だという極めて消極的な理由からだった。
それから三ヶ月後、家庭教師からお墨付きをもらった発音でポルポネ語の挨拶を披露すると、レオンハルトはこれまで見たことのない表情で破顔した。
「よくやった」
嬉しそうに微笑む美貌の青年に見つめられて、シェイラは自分でも驚くほど狼狽えてしまった。茹で上がったように頬が熱い。
それまで自己を肯定される経験がほとんどなかったシェイラにとって、レオンハルトにとって何気ないその言葉は、彼女の乾いた心に一滴の水を与えた。外国語の上達を報告する度に、レオンハルトは嬉しそうに笑い、喜んだ。最初は、褒めてもらえることがただ嬉しかった。それが、レオンハルトへの恋に変わったのはいつからだったか。12歳になる頃には、シェイラははっきりと自分の気持ちを自覚していた。
レオンハルトの事ばかりを見つめていれば、彼の人となりも見えてくる。
レオンハルトは恐ろしいまでの努力家だった。外交官を目指していた青年は、出会った16歳の時には既に母国語の他に四カ国語を流暢に喋り、シェイラに分からないことがあれば丁寧に教えてくれた。
レオンハルトがシェイラに多言語の習得を求めるのは、外交官の妻として将来隣に立つからなのだと分かれば、辛い勉強も頑張れた。はじめは嫌々机に向かっていたシェイラだが、上達すると徐々に興味も湧いてくる。成果を報告するたびに褒めてくれる人がいれば、益々やる気になった。学問の面白さを知ったのもレオンハルトがいたからだ。
レオンハルトは名門公爵家の嫡男に相応しく清廉な人柄で、国のためには私欲を捨てることができる人物だった。それまで利己的な父親とその取り巻きの貴族男性しか知らなかったシェイラにとって、レオンハルトの考え方やものの捉え方全てが新鮮な驚きに満ちていた。
レオンハルトに釣り合う人間になりたいと、幼心に決意したのが11歳の時。その時はまだ、その気持ちが恋と呼ばれるものだとは知らなかったけれど、ただただ隣に立つに相応しくありたいと思った。立ち振る舞いも、どこへ行っても恥ずかしくないものとするべく努力を重ねるようになったのはこの頃からだ。
レオンハルトと普通に言葉を交わすようになってしばらくして、レオンハルトはシェイラに初対面の態度を謝罪した。「君のことを誤解していた」と。聞けば、要職に就きながら派閥の勢力拡大ばかりに目を向けるシェイラの父親に忸怩たる思いがあったらしく、その娘はどれほど我儘なのかと警戒していたという。年下の子供にまで誠実に謝罪するレオンハルトに、シェイラの好意は増すばかりだった。
自己研鑽に励む中、シェイラにも悩みがなかったわけではない。シェイラがレオンハルトを想うようには、レオンハルトの方はシェイラに恋していないという事実は何度もシェイラを苦しめた。彼がシェイラに向ける目は、あくまでも家族に対する親愛に近く、異性への好意ではない。それはシェイラが成長しても変わらなかったが、それでもいつかは本当の夫婦として想い合えるのではないかという希望はあった。レオンハルトはシェイラだけでなく、他の誰にも恋をしていなかったから。
16歳になる頃には、シェイラもレオンハルトの初めての女性になれるという幻想を抱くほど初心ではなかったが、真面目な性格のレオンハルトが、本気の恋愛をしてシェイラとの婚約を続けるとも思えなかった。もしかしたら割り切った関係の女性はいるのかもしれないが、それは恋とは呼べないだろう。欲しいのはレオンハルトの心なのだから、彼が誰にも恋していない内は自分にも望みはあると弱くなる心を慰めていた。
そうして一日千秋の思いで待ちわびた結婚式が一ヶ月後に迫った夜ーーシェイラは未来の希望を打ち砕く、おぞましい密談を耳にしてしまったのである。




