オリヴィア・クック
ここ数日、シェイラは鬱々とした気持ちで過ごしていた。オリヴィアとレオンハルトが二人でいるのを目にすることが増えたからだ。仕事の話だと分かってはいても、時折オリヴィアが寄こす視線に胸がざわつく。
オリヴィアがレオンハルトを呼び捨てにすることも、真剣に二人で話し込んでいることも、仕方がないと、そう思っても抑えきれない感情に苦しんだ。
羨ましいと思うのは、オリヴィアがレオンハルトと対等な関係だからだ。同僚として、友人として。
そしてもう一つ、レオンハルトの隣に別の女性がいる光景は、シェイラにある事実を突きつけていた。シェイラがずっと考えないようにしてきた事実を。
アルタニアに戻れば、いつか彼には新しい婚約者ができ、自分以外の誰かと結婚するのだと。
それは、身を切られるような恐ろしい想像だった。
その時、自分はどうすればいいのだろう。もはや忘れることのできない程膨れ上がってしまった気持ちに、シェイラは慄いていた。哀しみ、不安、嫉妬。様々な感情が入り乱れ、胸を焦がす。
この日も、二人は何か議論を交わしているようだった。レオンハルトが手にする資料から、それが仕事の話なのだと分かる。
二人の遥か後ろにいるシェイラの存在には、二人は気づいていないようだった。オリヴィアは女性にしてはすらりと背が高く、レオンハルトといると遠目からでも人目を引いた。
どこか虚ろな気持ちで二人を眺めていると、間もなく二人の話は終わったようだった。レオンハルトは廊下の向こうに消え、オリヴィアは逆方向に歩き出す。
思考を彷徨わせていたせいで、オリヴィアがシェイラの方に歩いてくることに気づくのが遅れた。はっとした時には、オリヴィアはシェイラの存在に気づいたようだった。息をつめ、無言でオリヴィアを見つめるシェイラに、彼女は艶やかに微笑んだ。
「私とレオンハルトの関係が気になりますか?」
察しのいいオリヴィアは、シェイラが二人のやりとりを見ていたことに気がついたのだろう。悪戯っぽく探るような声音に、シェイラはかっと顔を赤くした。
笑われたように感じたのだ。
気にならない、といえば嘘になる。
オリヴィアのような大人の女性がそばにいて、レオンハルトが心を動かしたことは一度もないのだろうか。オリヴィアがレオンハルトを見つめる視線に、友人に対する以上のものを感じるのは何故なのか。気にならない訳がなかった。
それでも。
「レオンハルト様が仰らないことを、聞く必要はありません」
自分でも驚くほど硬く、強張った声がシェイラの口から漏れる。
シェイラの答えに、オリヴィアはつまらなそうな顔をした。
「ふうん。それはレオンハルトのことを信じるという意味ですか」
「いいえ。レオンハルト様を見てきた自分自身を信じているんです」
ずっと彼を見つめてきた。六年という歳月、胸を焦がす想いと共に。その月日がシェイラに訴えるのだ。彼は不実な人ではないと。
シェイラの返答に、オリヴィアは束の間呆気に取られたようだった。
それから苦笑を浮かべると、まるで降参だとでもいうように両手を上げる。
「意地悪してすみません。少し、からかいたかったんです」
あっさりと謝罪を口にするオリヴィアに、今度はシェイラが毒気を抜かれる番だった。シェイラの顔に困惑が浮かぶ。
「私はかつてレオンハルトに告白しました。ーー3年前のことです」
唐突な告白に、シェイラは息を止める。
硬直するシェイラに、オリヴィアはやや目尻を下げた。
「振られました。はっきりと」
だから安心していいですよと、オリヴィアは小さく笑う。いつものオリヴィアと比べて、覇気のない笑みだった。
「どうしてーー」
何故、それを自分に告げるのだろう。
シェイラの疑問に応えるように、オリヴィアが曖昧に笑った。
「さぁ、どうしてでしょう。彼はあの時言ったんです。泣かせたくない子がいるのだと。ーーだからずっと、貴女に会ってみたかった」
「ああ、まただ」とシェイラは思った。何度、レオンハルトはシェイラの心を掬い上げるのだろう。オリヴィアの告白に、シェイラは泣きたいような気持ちになる。涙を耐えるように身じろぎもしないシェイラに、オリヴィアは最後に謝罪をもう一つ、と言葉を紡ぐ。
「それから、私は嘘をつきました。レオンハルトとは大学からの友人だと。確かにかつてはそうでしたが、告白以来、レオンハルトからは距離を置かれています。今は、同僚以上の関係はなにも」
そう告げると、静かにシェイラの前から立ち去った。人目が無くなって、シェイラの頬をこらえきれない涙が一筋伝ったのだった。
***
シェイラの元から立ち去ったオリヴィアは、廊下の角を曲がったところで息をついた。
自分は、きちんと大人の女を演じられていただろうか。
3年もの間、未練がましく引きずってきた恋心をあの少女は見抜いただろうか。
ふう、と深い溜息が漏れる。もうこんな不毛な恋は終わりにしなければとオリヴィアは思った。
3年前、婚約者がいると知っていても、平民の自分ではレオンハルトとの結婚など夢のまた夢だと分かっていても、追いかけたい恋だった。
けれど、オリヴィアが告白した時、彼ははっきりと言ったのだ。「君の気持ちに応えることはできない」と。なぜと、尚も追いすがったのは、今にしてみれば苦い思い出だった。
『泣かせたくない子がいるんだ』
静かな声で、当時、彼はオリヴィアに告げたのだった。
『婚約者のこと? でもそれは、親同士が決めたことなんでしょう?』
心は自由だわ、とオリヴィアは言い募る。
だが、オリヴィアの言葉に、そうじゃないとレオンハルトは首を振ったのだった。
『私自身がそうしたいから、そうするんだ』
『でも、その子に恋愛感情はないんでしょう』
当時、レオンハルトの婚約者は13歳。オリヴィアには確信があった。
オリヴィアの言葉に、少しだけ困ったようにレオンハルトは眉を下げる。
『私はその手の感情に疎いんだろう』
『やっぱりーー』
『それでも、大切にしたい気持ちは嘘じゃない』
はっきりとそう言われれば、オリヴィアは引き下がるしかなかった。それでもここまで恋心を引きずってしまったのは、やはりレオンハルトが恋をしていなかったからだ。
あの時、彼は自分には分からない感情だと言った。
ーーでも、それは嘘だともう分かっている。彼はオリヴィアに恋できなかっただけなのだ。あの少女を見つめる視線に、気づいてしまった。
もうこの恋は終わりにしなければならないのだと。
苦い思いが胸に去来することを否定することはできなかったが、それでもレオンハルトの不幸を願うような愚かな女にはなりたくなかった。
次は自分のことだけを見つめてくれる人を好きになろう、とオリヴィアは思う。きっと大丈夫だ。
自分の男性を見る目は、決して悪くないのだから。
大丈夫だともう一度呟いて、オリヴィアは歩き出した。




