闇に紛れて
この日、シェイラはクリスティーナが参加する行事の準備に追われていた。国王の公式誕生祝賀式典を筆頭に、謁見、晩餐会、議長の任命式と忙しい。
昼の会食を終えた後、居室で休むクリスティーナをエイミーに任せ、シェイラは総務室に足を運んだ。式典の詳細を確認するためだ。総務室は宮殿敷地内に位置している。
レオンハルトの忠告を守り、衛兵に付き添いを頼むと壮年の兵士が快く引き受けてくれた。官吏と話をする間、彼には控え室で待ってもらっていたのだが。
「お待たせしてしまってすみません」
シェイラは隣を歩く兵士に頭を下げた。
早く終わらせるつもりが、予想以上に長引いてしまった。
「別に構わないさ。仕事なんだし」
気にするなと豪快に笑う兵士に、ほっと胸をなでおろす。
太陽が西の空に沈み、夕暮れの朱に夜の青が混ざり始めている。クリスティーナの元へつく頃には、すっかり暗くなっているだろう。
庭園を横切ろうとして、アルタニアの軍服を着た兵士達が歩いて来るのが目に入った。休憩していた兵が帰ってきたのだろうか。
何気なく目を向けて、その一団の中にいるはずのない人物を見つけて目を見開いた。
「レオンハルト様?」
シェイラの呼びかけに、相手も目を瞬かせる。
「シェイラ?」
軍服を着ているが、確かにレオンハルトだった。周りにいる衛兵と共に、外から戻って来たところのようだ。
シェイラの口元に、自然と笑みが浮かぶ。彼の姿を見るだけで、胸に温かいものが広がっていくのを感じた。
「おかえりなさい」
その言葉に、レオンハルトは一瞬虚をつかれたように目を瞠った。
「ーーただいま」
柔らかい笑顔で返すと、彼女の側へ歩を進める。
傍らの兵士と挨拶を交わして、「後は私が付き添います」とにこやかにシェイラの手を取った。
壮年の兵士は面白そうににやりと笑い、あっさりシェイラをレオンハルトへ預けてしまった。「頑張れよ」という言葉はどちらに向けてのものだったのか。
シェイラが何か言うより早く、レオンハルトは彼女の手を握ったまま歩き出した。
「少し、遠回りして帰ろう」
呆気に取られたシェイラの顔を見て、レオンハルトが声を上げて笑う。
悪戯が成功した時ような、屈託のない笑い方だった。初めて見るその笑顔に、シェイラは息を呑む。握られた手が熱をもって、胸が騒いだ。
広大な庭園は、自然の風景を切り取ったような趣向が凝らされている。湖や岩山、小高い丘までが自然を模して人工的に作られていた。
庭園を迷いなく進むレオンハルトを横目で見て、シェイラは逡巡する。レオンハルトがあの場にいた理由を、聞いてもいいのだろうか。軍服である訳もシェイラには分からない。
レオンハルトは人の来ないひっそりとした道ばかりを選び、シェイラは彼が人目を避けているのだと感じた。
「局長の指示で、少し調べ物をしているんだ。この格好だと他の兵士に紛れられるから」
シェイラの疑問に応えるように、レオンハルトが口を開く。
「それは、危険なお仕事なんですか?」
「そうだね」
あっさり肯定するレオンハルトに、シェイラは彼を見上げた。
周囲の闇が深まって、レオンハルトの顔に深い陰影を作っている。青い双眸だけが暗闇の中でも煌々としていた。
「ーー大丈夫だから」
静かに、けれどはっきりとレオンハルトが言う。それが、シェイラの不安に対する答えなのだと分かった。
「必ずちゃんと戻ってくるから」
だからそんな顔をしないでくれと、切なさを含んだ声で言われて、シェイラの胸がつまる。彼の言葉に何も言えず、シェイラはただ頷くことしかできなかった。
***
「もうここで大丈夫です。おやすみなさい」
宮殿に戻り、人目を避けて衛兵の間の近くまで来たところで、シェイラはレオンハルトに礼を言った。少し名残り惜しそうな顔をした後、レオンハルトも「おやすみ」と呟く。
レオンハルトに背を向けて歩き出そうとして、名を呼ばれた。
「シェイラ」
振り向くと、不意に額に口付けを落とされる。
レオンハルトの顔が驚くほど近くにあり、甘い声で「良い夢を」と囁かれた。真っ赤になったシェイラの反応に、愛おしそうに目を細めるとレオンハルトは踵を返す。
呆然とその背中を見送った彼女は、そのままふらふらと歩き出した。その日、シェイラが眠れぬ夜を過ごしたことは言うまでもない。




