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甲板にて

 その日は朝からどんよりとした曇り空で、昼にはついに雨が降り出した。鈍色の雲が厚く空を覆っている。しとしとと降る雨が海面に吸い込まれてゆくのを見て、シェイラは溜息をついた。


 王都を出て六日目。明日はいよいよゴルゴナへ到着する。ここまでの航路は順調そのもので、初めて船に乗ったシェイラはすっかりこの乗り物が気に入った。


 そんなシェイラだが、この日は朝から体調が優れない。

 朝食にもほとんど手をつけられず、エイミーからは気遣わしげな視線をもらい、クリスティーナに「今日は部屋で休んでいてもいいのよ」と言わせてしまう始末。


 理由は、自分でも分かっている。

 ーー今日、父ジョン・イングラムの刑が執行されるのだ。

 

 処刑日を告げられた時、その日を王宮で迎えずに済むことにほっとしたはずなのに。いざ当日になると、気分がふさいだ。


 いっそ仕事に打ち込んでいる方が余計な事を考えずにすむと、雑用まがいの仕事にまで手を出していると、周囲から同情的な視線を集めてしまった。

 その時、この船の人々は皆今日が処刑日だと知っているのだと気づく。哀れみ、好奇、揶揄の入り混じった視線に身の置きどころがなかった。針のむしろのような一日をなんとか終え、エイミーと一緒の寝台室に戻ったのが数刻前。

 

 時刻はすでに真夜中を過ぎている。

 シェイラはベッドの中で身じろぎした。

 身体は疲れているのに、目が冴えてしまってとても寝られそうにない。小さな寝息をたてるエイミーを起こさないように気をつけながら、シェイラはそっとベッドから抜け出した。


 甲板かんぱんに出ると雨は既に止んでいて、風が優しくシェイラの頬をなでる。

 まだ薄っすらと空には雲がかかり、おぼろげな月明かりだけがぼんやりと辺りを照らしていた。


 真っ黒な海を眺めていると、何か飲み込まれそうな不安が胸を占める。しばらく海を眺めていると、隣に大きな人影が並んだ。


「ここにいると冷えるだろう」


 レオンハルトはそう言って、自分が着ていた上着をそっとシェイラの肩に掛けると、海の方へ顔を向けた。普段のレオンハルトと比べると随分と寛いだ格好をしている。金色の髪が風に靡いてさらさらと揺れた。

 寝間着ではないことからこの時間まで彼が起きていたことに気づく。


「……こんなに遅くまでお仕事ですか?」

「ああ。明日はいよいよ到着だから。やれるだけの準備はしておかないと」


 海を見ながらレオンハルトが言うと、シェイラも視線を海に移した。

 波の音だけが聞こえ、心地よい静けさが二人を包む。


 今日、シェイラはレオンハルトに会うことを避けていた。レオンハルトの瞳に哀れみの色を見つけるのが恐かったからだ。他の誰より、彼に同情される方がこたえた。

 けれど今、隣にレオンハルトがいる事に酷く安心するのはどうしてだろう。


「……シェイラは、今日何を思っていた?」


 思いがけない問いにシェイラはレオンハルトを見上げる。いつの間にか、レオンハルトは視線をこちらへ移したようだった。

 静かに凪いだ青い双眸が、ひたりとシェイラを捉えている。

 彼の表情からは哀れみも同情も感じられなかったので、シェイラは正直に胸の内を明かす事ができた。


「分かりません。自分の気持ちなのに」


 ぽつりと、頼りない声が漏れる。

 父のことは好きではなかった。子供達に無関心で、愛情を感じたこともない。

 なのになぜ、こんなに胸が痛いのだろう。父を死に追いやったのは自分なのに。


「自分のやった事を後悔はしていません。でも、もう父がこの世にいないと思うと……」

 

 声が震えて、最後は言葉にならない。この感情を説明することは、できそうになかった。


 その時、ふわりと視界を柔らかく覆われた。

 広い胸に抱き込まれているのだと気づいた時には、シェイラの背中にレオンハルトの腕がまわっていた。

 包み込むような抱擁に、強引さはない。驚いて固まったシェイラの耳元に「私では君を慰めることはできないだろうか」と吐息混じりの声が落ちる。


 誰かに姿を見られたら、と思うのに彼の腕を振りほどく言葉をシェイラは見つけることができなかった。彼のその行為に、シェイラの痛みを掬い取るような優しさを感じてしまったから。躊躇いがちに頭を預けると、レオンハルトの抱擁が強まった。


「ごめんなさい。……少しの間だけ」

 

 レオンハルトの胸に額を埋め、声もあげずに泣くシェイラを彼は切なげに見つめる。


 星も見えない夜。月明かりだけが柔らかく二人を照らしていた。

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