第三章 救われる者は Ⅹ
「…………」
ここはどこだろう、とぼんやりとかれんは思った。
天と地が横になって見える。どうやら地面に倒れているようだ。
起き上がろうと全身に力を入れようとすると、下半身に激痛が走った。ゆっくりと視線を動かすと、かれんの下半身は大きなコンクリートの塊の下にあった。研究所を囲っていた塀が崩れて、かれんの身体を押しつぶしているようだった。
(これはもう無理かな)
下半身を押しつぶしているコンクリートの塊を、かれんは自力で動かすことはできない。『覚醒者』としての能力も今の状態では満足に使えなかった。
このまま死ぬんだろう、とかれんがぼんやりと思っていると、不意に音が聞こえた。
「生存者を見つけた! こっちだ、急げ!!」
聞こえてきた音は声だった。
朦朧としている意識へ直接声が響いてきたような感覚だ。ボリュームの大きな声を聞いて、そちらへかれんは焦点の定まらない目をゆっくりと動かす。
「ひどい怪我だ。早く救助しないと――」
だんだんと聞こえてくる声がクリアになっていく。少しずつ意識が戻ってきているようだった。
「大丈夫か!? もう安心だぞ!」
消防隊員が倒れているかれんのすぐそばまで来て、声をかけていた。
聞こえてきた声にかれんは答えようとするが、声が出ない。喉が焼けるように痛かった。仕方なく唇と手を微かに動かして反応を示す。
「意識はある。救急車まで運ぶ!! 瓦礫をどかすぞ!」
遅れて、複数の足音が聞こえてきた。
生存者を発見した声を聞いて、慌てて走ってきたようだ。
消防隊員たちはかれんの身体を地面に縫いつけるように押さえつけているコンクリートの塊をどかしていく。ようやく下半身に走る激痛が治まると、かれんの身体は少し楽になった。
駆けつけた消防隊員がかれんを背負う。
「返事できるか?」
「……は、はい」
「よし! これから救急車に運ぶ。それまで、少し我慢してくれ」
身体を無理矢理起こされたことで目眩がしたが、身体のあちこちから痛みを感じるほど意識ははっきりしていた。
「あの、他の人は……?」
小さな声で、かれんは尋ねた。
視線を周囲に動かしても未だ燃え盛る炎が見えるだけで、人の姿が見えない。声も聞こえなかった。
「見つかったのは君だけだ」
悔しそうに唇を震わせながら、かれんを背負っている消防隊員は答えた。一緒に救急車まで走っている他の消防隊員も暗い表情を見せる。
「そう、ですか……」
救出されたのは自分だけ。
その事実に、かれんはショックを受けた。
意識が戻っていく過程でトモヤの暴走、所長や寮母が殺されたこと、マサトシに『覚醒者』の子どもたちを任せたこと。それらのことが、だんだんと記憶に戻ってきた。
(所長……サトウさん……)
いや、二人だけじゃない。
トモヤが起こした炎で、もっと多くの人が犠牲になっているはずだ。
そう考えると、かれんは恐くなった。
(マサトシは……、みんな無事なんだろうか……)
それは分からなかった。
研究所がどうなったのかもトモヤがどこに行ったのかも、気を失っていたかれんには分からない。今すぐにでも確認しに行きたい衝動に駆られたが、自分で立ち上がることもできない状態のかれんには不可能だった。
(お願いだから、みんな無事でいて――)
大きく感じる消防隊員の背中で、かれんはみんなの無事を祈りながら静かに頬を濡らした。
『県立異能力精査研究所』を出たトモヤは相変わらず炎を撒き散らし続けた。
当初は『県立異能力精査研究所』で鳴り響いたサイレンは、一時間もしないうちに日野市全域に広がっていた。サイレンに慌てて市民も避難していき、日野市全域で瞬く間にパニックは広がる。避難で殺到する市街にもトモヤの炎は迫っていき、逃げ惑う人々と建物を飲み込んでいった。
日野市を走る私鉄のとある駅ビル屋上に、トモヤはいた。その隣には、いつかのように大きな影が立っている。
二人の眼下には、駅前の商店街を全焼させようと熱気をさらに加速させている巨大な炎が見える。
「…………」
「気に病んでいるのか?」
大きな影が、トモヤに問いかけた。
「……いや、そんなことはない。誰も俺の意見に耳を貸さなかった結果だ」
「お前の言う通りだろう。確かに、我々の同胞が五人も命を落としたことは心痛い。しかし、ここの研究者たちは我々の力の解明に着手していた。それは我々を効率よく支配しようとする手段を究明しようとしていたためだ。いつまでも放っておくわけにはいかなかった。今回は、この結果で良かったのだ」
「……分かってる」
自分を納得させるように、トモヤは大きく頷いた。
炎に飲み込まれていく市街からはサイレンと悲鳴が今も響いている。目を凝らして見れば、勢いよく燃え広がる炎から逃げようとしている人々の姿があった。その光景を見ても、トモヤは動じない。自分が取った行動に、疑問を抱いていないのだ。
「それでは行こうか。ここにはもう用もない」
「……ちょっと待ってくれ」
燃え盛る日野市から立ち去ろうとした大きな影に、トモヤは声を掛けた。
「どうした?」
「あんたが渡したあの薬。あれは、何だったんだ?」
「あれか。『覚醒者』を落ち着かせるための薬だと説明しただろう?」
それ以上は何も言わない大きな影に、トモヤは舌打ちをして後をついていく。
(『覚醒者』を落ち着かせる薬……)
その言葉が本当に正しいのか分からなかった。それが本当だとしても、それだけではない作用があるはずだ、とトモヤは考えていた。高揚していく能力とは裏腹に、意識ははっきりとしていた。心地良い気分だったと言ってもいいほどだったのだ。
(まぁ、いい。この力があれば、俺は困ってる仲間を助けられる)
思考を止めて、トモヤは視線を上げた。
肌だけでなく内臓まで焼かれるような熱気を感じながら、トモヤは大きな影とともに日野市から去って行く。地獄絵図を端的に表している日野市には、もう未練もない、と言うようにトモヤは振り返りもしない。
先を見据えるその眼は、やはり赤く燃えていた。
トモヤの暴走によって起こった火災は日野市全域に広がり、丸二日間に渡って日野市の全てを燃やしつくした。人口一〇万人を越える日野市が、たった一人の力によって滅んだのだ。
二日間に及んだこの火災は『覚醒者』の暴走事件と発表され、死傷者数一万人にも上った。日野市を壊滅に追いやったこの事件は、『覚醒者』が起こした無数の事件の中でも最大級の被害とされ、後に『日野の昼地獄』と呼ばれた。




