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クロス・ワールド  作者: 小来栖 千秋
Another Story
90/118

第三章 救われる者は Ⅸ

 

 マサトシは勤めている研究所へ戻ってきて、驚愕していた。

 ここまで送ってくれたタクシーも、運転手が代金を受け取ると慌ててこの場から離れていくように急発進していった。ここまで運んでくれた運転手の勇気に、マサトシは少なからず感謝する。

「……(ひど)い」

 昨日まで立派に建っていた研究所は見るも無残な状態になっていた。

 研究所に勤めている多くのスタッフが今も正門から慌てて逃げ出してきている。休日のため普段よりは少ないはずだが、それでもまだ中に残っているスタッフもいるかもしれなかった。

「マサトシさん! こんなところにいたんですか!?」

 マサトシの姿を見つけた後輩の研究者が声をかけてきた。ここまで必死に走ってきたようで、汗をびっしょりとかいている。普段は綺麗にしている白衣も、少し破けていた。

「何があったのだ?」

 マサトシは質問に、質問で返した。何よりも、現在の状況を知りたかったのだ。

「トモヤです。彼がいきなり暴走しだしたようで、中庭で爆発が起こったんです。すぐに警報がなったんですけど、彼を取り押さえるよりも先にみんな逃げだしてきたところです」

 早口に伝えた後輩科学者は、手の甲で汗を拭った。

「常駐の警備スタッフは?」

「無理ですよ。あれだけの能力を使ってるトモヤに、対『覚醒者』部隊(SPAT)の隊員以外が向かっても返り討ちにあうだけです。警備スタッフは警察と一緒に避難誘導してるはずです」

「……そうか」

 常駐している警備スタッフでは、到底『覚醒者』には敵わない。それはマサトシも理解していた。それでも、ここまで被害が大きくなる前に止められなかったのか、と思ってしまった。

「トモヤは!?」

「僕は分からないです。中庭で暴走したと放送があっただけで。まだそこにいる可能性が――」

 言い終わる前に、研究所を囲うように設けられていた厚さ一メートルにもなるコンクリートの塀が突如崩れた。

「な、なんだ!?」

「あ、トモヤです――っ!」

 先に姿を見つけた後輩科学者が叫んだ。

 崩れた塀の向こうを見ると、中庭の様子が(うかが)えた。そこには、確かにトモヤの姿が見える。

 しかし、堅い塀を壊したのはトモヤではないようだった。どうやらトモヤは対『覚醒者』部隊(SPAT)と戦っているようで、壊れた塀を通って姿を現したのはかれんと子どもたちだった。

「かれん!」

「……マサトシ!? 今までどこに――」

 突然掛けられた声の主がマサトシだったことに、かれんは驚いた。

「立ち入り禁止になった『眠る街(スリープタウン)』に行っていた。あの研究所が閉鎖された理由はやはり――」

「トモヤくんがやったっていうんでしょ?」

「な、なんで知って――」

「所長から聞いたわ」

「それなら、話は早い。彼の能力は高い。全滅になる前に逃げないと」

「分かってるわよ!」

 かれんの口調が強いことに気付いたマサトシだが、その目が潤んでいることに気付いて戸惑った。

「ど、どうした?」

 よく見れば、かれんだけではない。『覚醒者』の子どもたちも、涙を流していた。

「後で話すわ。マサトシ、みんなをお願い!」

「お、お願いってどういう――」

「あなたが子どもたちを守って。私はここでトモヤくんを止めるわ!」

「しかし、君のほうが――」

 マサトシは最後まで言えなかった。

 一際大きな光が、視界を全て遮ったからだ。視線を向けると、そこには研究所を飲みつくそうとしている巨大な火柱があった。一〇メートル以上も立ち昇る火柱の大きさは計り知れない。直径五〇メートルは超えているだろうか。研究所全てを飲み込んで、数秒経つと巨大な火柱は炎へと変わっていく。まだ研究所の中に人がいることを思い出すが、助けになどいけない。それほどあっという間の出来事だった。

 あまりに巨大な炎に、マサトシも子どもたちも言葉を失う。けれど、かれんだけはすぐにマサトシへ視線を戻した。

「長々と話してる時間なんてないわ! 所長に託された私が、あなたに投げだすのは申し訳ないけど、あなたがトラウマに打ち勝つチャンスだと思うの! だから、お願い! 今度こそ、未来のある子どもたちを救って!!」

「…………。わかった。みんな、私についてくるのだ!」

 かれんの言葉に後押しされて、マサトシは子どもたちを誘導していく。その声に、慌てて子どもたちもついていった。

 かれんの言う通り、マサトシには家族を失ったトラウマがある。

 そのトラウマを今でも抱えているマサトシだが、今それをとやかく言っている場合ではなかった。大人として子どもを守らなければ、という責任感が強く圧し掛かる。

 それでも、マサトシは走ることをやめなかった。



「……みんなをどこにやったの?」

 後ろから声がかけられた。

 かれんが振り返ると、そこにはトモヤがいた。

 どうやら対『覚醒者』部隊(SPAT)を全員倒したようだ。怪我を負った様子も疲れている様子もない。

 子どもたちをマサトシに託したかれんは、ようやくトモヤと視線を交わす。そして、完全に炎に飲み込まれた研究所を背にして、かれんとトモヤが正門の前で向かい合った。

「あなたの手の届かないところに」

「どうして?」

「あなたが本当にみんなを救おうとしているようには見えないからよ」

 かれんも、トモヤの言ったことは聞いていた。聞いた上で、所長と同じ意見を抱いていた。

「みんなを救いたいなら、もっと他に方法があったはずよ。あなたのように、力で全て解決しようとするのなんて、本当の解決にはならないわ」

「言ってくれるね、お姉ちゃん。こうすることが一番簡単なんだ。僕になら――ううん、俺にならそれができるんだから!」

「そうね。あなたが持つ能力なら、暴力で簡単に解決できるでしょう。でも、研究所は全部燃えて、街まで被害が出てる。こんな状況で、みんなを救うことができたなんて私は思わないわ」

「そんなことない!」

 子どもが駄々をこねるように、トモヤは声を荒げた。

 かれんは一瞬憐れむような目をしてしまうが、すぐに視線をトモヤの後ろへ向ける。そこには轟々と音を立てながら、焼かれている研究所があった。

「本当にみんなを助けたって思ってるの? よく見てから言いなさいよ! あなたは誰も救えてないじゃない!!」

 トモヤの言葉を、かれんは燃え盛っている寮棟を指さして否定する。

「違う!! 俺なら、みんなを助けられるんだっ!!」

 赤く発光したようなトモヤの身体から、炎が吹き荒れる。かれんが、今までに見たこともないほどの荒々しさだ。

 トモヤの身体から発せられる炎に、かれんは自然と怖気づく。

(……前見た時と全然違う――)

 炎の勢いも熱気も、それまでとは比べ物にならなかった。

(これが、トモヤくんの能力の高さ)

 自分が持っている『覚醒者』としての人知を超えた力よりも、はるかに高いことは容易に想像できた。だからといって、かれんは敵前逃亡することはしない。

 睨み合っている二人をさらに追い立てるように、研究所の建物が大きな爆発とともに崩れていく。爆風が二人の髪と服をはためかせ、炎の熱が肌を焼いていく。

 そして。

 二人はお互いに走り出した。

 トモヤの拳が炎を纏って、かれんの顔に近づいてくる。

 ぎりぎりの所でかわしたかれんは、瞬時に空気中の水を凝固させて氷の刃を作り出す。一秒とかからずに作り出した氷の刃を右手で握りしめて、かれんはトモヤに向けて振り抜いた。

「そんなもの!!」

 氷の刃はトモヤには当たらない。トモヤの身体から発せられる炎の熱によって簡単に溶かされてしまったのだ。

 炎を単純な武器として扱うトモヤに対して、物体の蒸発、液化、融解、凝固を瞬時に行えるというかれんの能力は武器としては扱いづらかった。

「く……っ」

「お姉ちゃんの力はこんなもの? こんなものじゃ、俺を止めるなんて無理だよ?」

「まだ、よ!」

 諦めないかれんはもう一度走り出した。

(氷は簡単に溶かされちゃう。なら――)

 と、次は地面に転がっている鉄柵の塊に目を向ける。近所の玄関の柵のようだが、今はそれを気にしている暇はない。

 鉄柵を瞬時に融解させ、液体化させる。そして、すぐさまかれんのイメージする形に凝固させていく。

「へぇ~。そうやって武器作るんだ」

 関心しているトモヤをよそに、かれんは鉄柵を金棒へと変えていた。

「これで――!!」

「でも、残念。物体を固まらせて作ったものなら、俺の炎でまた融かせばいいだけだよ!」

 一五〇〇度を超える炎が、トモヤの右手から放出された。

 慌ててかれんは避けるが、作り出した金棒の先が炎に触れた。それだけで、金棒の先端はどろどろとした液状に変化している。

「……そんな」

「もう一発!!」

 続けて放たれた炎を、かれんは横に大きく跳んでなんとか回避した。

(こんなに違うなんて――)

 改めて、かれんはトモヤとの差を感じる。データとして聞かされていたものよりも、実際に目の当たりにしたトモヤの能力はさらに強いように感じるのだ。

「今さら降参しても遅いからね」

 有している能力とは裏腹に、冷徹な声が聞こえてくる。

 近くまで来ていたトモヤに、かれんは強く蹴られた。

「ぁああああああ――っ!!」

 トモヤに蹴りあげられたことで、かれんは腹部に強い痛みを感じた。昼に食べたものが喉まで上ってくる感覚に襲われる。

「まだ終わりじゃないよ?」

 痛みに(うめ)いて立ち上がれないかれんに、トモヤの容赦ない蹴りが再び当たった。

 連続で襲ってくる痛みに、かれんは身体の自由を奪われる。立ち上がろうと手足を動かすこともできないほどだった。

 トモヤの攻撃は終わらない。

 悲鳴をあげることも許されない蹴りの連続と痛みに、かれんは必死に耐えるしかなかった。



「しょ、所長が!?」

 驚いた声を上げたのは、マサトシだ。

「う、うん」

 頷いたユウヤの表情を見て、マサトシは言葉を失う。

 マサトシは『覚醒者』の子どもたちをつれて、必死にトモヤから逃げていた。その最中に、何があったのか子どもたちに聞いていたのだ。

「そんな……」

 知らされた事実に、再びマサトシはショックを受ける。

「トモヤはサトウさんも殺したんだ……」

「サトウさんも!? ――私が間にあっていれば……」

眠る街(スリープタウン)』で聞いた情報をもっと早く伝えられていたら、事態は変わっていたかもしれない。そう考えると、マサトシは自分を呪いたくなった。

「他は?」

「他は分からない……。俺たちも逃げるのに必死だったから――」

 そうか、とマサトシは短く呟く。

(あれほど仁徳のあった人が……)

 しかし、悲しみに暮れている場合ではない。

 マサトシの背中には、かれんから託された未来がどっしりと圧し掛かっているのだから。



 飽きるまで終わらないのでは、と思われたトモヤの蹴りが不意に途切れた。

「……?」

 かれんが見上げると、トモヤは別の方向へ視線を向けている。

 かれんも視線を動かすと、そちらには避難誘導をしている警察官と消火作業をしていた消防隊員がいた。どうやら、先ほどの火柱からは逃げられたようだ。警察官たちからはこちらを見て助けにいこうか迷っている様子が窺える。

「こっちじろじろ見て、どうしたの? 俺を止めるの?」

 いらいらした口調で、トモヤはこちらを見ていた警察官たちに火球を次々と浴びせた。火球は一直線に警察官たちに向かっていくが、気付いた警察官たちは慌てて回避していた。

 慌てて逃げ出した警察官たちを見て、かれんはハッとする。

(不味い……)

 身体を動かすと、まだ痛みが襲ってくる。それでも、いつまでも倒れているわけにはいかない。かれんは歯を食いしばりながら、立ち上がろうとする。意識が飛びそうになるほどの痛みだったが、両膝に手を当ててなんとか立ち上がった。

 これ以上被害者を増やすわけにはいかなかったのだ。

「はぁはぁ……」

 何度も蹴りを受けた腹部を手で押さえているかれんを見て、トモヤは笑う。

「あれ、まだやるの? 抵抗しないほうが楽に死ねるのに」

「私まで……やられたら、誰があなたを、止めるのよ……っ」

 しかし、言葉に強さがない。

 身体のダメージが大きいようで、必死に言葉を振り絞っている感じだ。

「無理だよ。お姉ちゃんじゃ、俺は止めれない。さっきので分かったでしょ?」

 そう言うのはトモヤ。

 かれんの『覚醒者』としての能力では、トモヤはあまりに相手が悪い。数回の攻防でトモヤは圧倒的な優位を感じていた。

 そして、それはかれんも同じだった。

(でも、諦めるわけにはいかないのよ!)

 言葉に強さがなくても、その強気だけは失わない。

 そう言うかのように、かれんはもう一度鉄柵から金棒を作り出す。それを握りしめた手の平に爪が深く食い込んでいるほどだ。

「まだやるって言うなら、俺も本気になるよ」

 両手を前に突き出したトモヤの格好に、かれんは面食らう。

 その手から、バスケットボール大の火球が連続で放たれる。

「な……っ!?」

 火球は、かれんの想像以上の速度で飛んできた。

 回避する暇もなく、トモヤが放った火球はかれんに全弾直撃した。直撃する度に小さな爆発が連続で起こり、煙が立ち込めた。

 煙によって、トモヤの視界は塞がれる。

「あっけないな……」

 これで終わった。

 トモヤはそう思った。

 所長を殺した時と同じように、火球を何発も浴びせたのだ。これで生きているほうがおかしい。そう判断したトモヤは『覚醒者』の子どもたちを連れていったマサトシがどこに行ったのかと周囲へ視線を向ける。

 その直後。

 立ち込めた煙が、いきなり吹き飛んだ。

「……っ!?」

「もらったわ!!」

 煙を吹き飛ばして、かれんがトモヤに飛びかかっていた。

 殺したと思っていたトモヤは突然のことで身動きができない。かれんの姿を確認した時には、振りかぶっていた金棒が肩に直撃していた。

「うわぁああああ!!」

 身体を走る激痛に悲鳴をあげるトモヤ。

「勝手に、殺したなんて、思わないでちょうだい」

 強気の言葉を言う。かれんも息が荒くなっているが、眼差しの強さと強気な心はまだ折れていなかった。

 かれんの着ていた服はところどころ焦げている。トモヤの火球は直撃したはずだった。しかし、炎は服を焦がした程度で身体には火球が直撃したような後はなかった。

「どう……して――」

 痛みに歯を食いしばりながら、トモヤはかれんを(にら)む。

「私の能力はトモヤくんの炎と相性が悪いけど、炎の勢いを弱めることには使えるわ」

 かれんの言う通り、トモヤが放った火球はかれんに当たりはしたが服を少し焦がす程度だった。

 かれんが瞬時に氷の壁を作り出し、火球を防いでいたのだ。

「小細工を!」

「これで、あなたの炎も恐くないわ」

 勝ち誇ったように、かれんは口にした。

 表情はやはり苦しそうだが、火球を防げたことがかれんに勇気を与える。その勇気は、かれんの強気をさらに後押しするには十分だった。

「一度守ったくらいで俺の炎を完璧に止めたなんて思わないでよ! お姉ちゃんの能力ごと燃やしつくしてやる!!」

 一際強く、トモヤの身体から炎が吹き荒れた。

「……っ!?」

 対『覚醒者』部隊(SPAT)を倒した時のように巨大な火柱が形成され、周囲へ広がっていく。かれんを周囲の建物ごと燃やそうと炎はその脅威を振りまいている。

(なんて大きさ……)

 それまでの強気がいとも簡単にねじ伏せられる。たった一度炎を防いで盛り上げた自分の強気も勇気も、さらに大きな炎に萎縮されてしまうのをかれんは肌で感じた。

 それほど巨大な脅威だった。

(これは……避けられない――)

 今度こそ、かれんは観念してしまう。

 研究所を崩壊させ、所長や寮母、もっと多くの人々の命を奪った単純な脅威は、かれんがいくら立ち向かっても敵わないもの。今さらのように、かれんはそう考えてしまった。

 走馬灯のように、脳裏に過去の記憶とともに『県立異能力精査研究所』で過ごした日々が蘇る。

 母国で路頭に迷いかけたかれんを救ってくれた所長とマサトシ。病弱な両親の元を離れて、日本の研究所でお世話になることを決意したかれん。訪れた研究所で出会った年下の『覚醒者』たち。そして、スタッフたち。研究対象としてだが、彼らと過ごした時間。

 それらの記憶を、トモヤの炎は全て燃やしつくそうとしてくる。

(そんなことはさせない!)

 眼前に迫る炎の中に、真剣な表情でかれんに子どもたちを託す、と言った所長の表情が浮かび上がったような気がしたのだ。

「ぁああああああああああ――!!」

 叫び声を上げながら、全神経を集中させていく。

(ほんの数秒。それだけ防げればいい)

 火柱が炎へ変わる瞬間まで全身を守るために、大気中の水分を最大まで集める。酸素が薄くなっていくなか、かれんは何重もの氷の壁を作りだした。

「死ねぇ――っ!!!」

 狂気じみたトモヤの声が聞こえた。

 次の瞬間。

 かれんの全身を火柱が飲み込んでいった。

「ううぅ……」

 壁を融かして伝わってくる炎の熱さに、かれんは悲鳴をあげそうになる。骨まで焼きつくそうとしてくる熱さは耐え難かった。

 しかし。

(これくらい……っ)

 火柱の中心で狂気の表情を浮かべているだろうトモヤをキッと睨む。

(みんなの痛みに比べれば、なんてことない!)

「ぁああああああああ――!!」

 意識をさらに集中させたかれんは、肌が火傷を負っていく痛みを感じながらも走り出した。

 自分勝手に暴力を振るうトモヤへ向けて。

「まだ動けるの!?」

 まだ倒れずにこちらへ向かってくるかれんに、トモヤは驚いた声を上げる。その隙をついて、かれんはさらに加速する。

「あなたのした行為だけは許せない!」

 時間にして、ほんの数秒。

 かれんがトモヤの眼前に辿りついたのと同時に、火柱は消滅した。後に残った炎だけがまだ周囲を燃やし続けている。かれんはそれらの炎に目もくれず、目の前にいるトモヤの顔面を全身の力を込めて殴った。

「……?」

 はずだった。

 しかし、トモヤは頬を手で押さえるわけでも、痛みに顔を歪めるわけでもなかった。

 全力でトモヤを殴ったはずだったかれんだが、その拳にはかけらほどの力もなかったのだ。火傷やトモヤから受けた蹴りのダメージ。何よりも火柱を防ぐために氷の壁を作ることに全神経を集中して能力を使用したため、かれんには力が残っていなかった。

 かれんには、もはやトモヤに近づくだけで精一杯だったのだ。

「……ははっ。こんなもの? お姉ちゃんの全力はこんなものだったんだ?」

 トモヤの口から自然と笑いが零れた。

「やっぱり俺は止めれなかったね」

 残虐な笑みが、トモヤの顔に広がっていく。

「さっきの俺の攻撃で、他のみんなも死んじゃったみたいだ。お姉ちゃんもそうなるんだよ。仲間を殺すなんて少し嫌だけど、俺の邪魔しちゃったからしょうがないよね」

(そ、そんな……。力が入らない……)

 かれんは、トモヤの話を聞いていなかった。

 全力で殴ったはずの拳はトモヤの頬に添うように当たっただけだった。ペシンと弱い音もしなかった。そのことに、かれん自身が一番驚いているのだ。

(これじゃ、みんなを守れ――)

 思考は最後まで続かなかった。

 トモヤの蹴りが、かれんの身体を地面に倒したのだ。

「……み、みんな……に、にげ……て……」

 混濁していく意識の中で、研究所の塀が大きな音をたてて崩れていく音が聞こえた。天地が横になった視界には、研究所だけでなく周囲一帯を燃やし、空まで焦がそうとしている灼熱の炎がはっきりと映っていた。

 最後に、かれんはトモヤの声を聞いたような気がした。

 小さな。

 本当に小さな声が。

「それじゃね、お姉ちゃん。俺はみんなを助けにいくよ」



 マサトシは後ろを走る『覚醒者』の子どもたちを気にしながら、先を走る。

 かれんに子どもたちを託され、自分のトラウマを飲み込んで走っているが、どこまで行けば安全なのか見当もつかなかった。

(九死に一生の事態をくぐり抜けてきたのだ。子どもたちの体力ももう持たない)

 振り返れば、空を塗りつぶす黒煙は今も見えている。研究所を燃やす炎のゆらめきもわずかに見えた。ということは、まだそれほど離れていないのだろう。

(かれんは無事だろうか)

 トモヤを止められただろうか、という心配はしない。マサトシも、トモヤの能力の高さを理解している。かれんには悪いが、相手にはならないだろうと考えていた。心配しているのは、かれんが無事かどうかである。

「はぁはぁ……」

 カレンの安否を気にしていると、背中越しにショウコが息切れしている声が聞こえてきた。

 これ以上無理させるのはよくないか、とマサトシは立ち止まる。

「……?」

 突然止まったことに、すぐ後ろを走っていたユウヤが驚いた。

「どこかに身を隠そう」

「え? で、でも」

 戸惑った声を上げるユウヤだが、マサトシはショウコに視線を向けた。つられて、他の子どもたちもショウコを見る。

「これ以上はショウコちゃんが持たない。トモヤはきっとかれんが止めてくれる。救助が来るまで、隠れていよう」

 肩で息をしているショウコの様子に他の子どもたちはようやく気付いたのだ。唯一の女子であるショウコはここまで相当無理をしていたようだった。

「でも、どこに?」

 周囲を見渡して、マサトシは「大通りからは離れよう」と言った。

 駅前にはそれなりに人がいるだろうと考え、マサトシたちは駅へ向けてすでに人気のない大通りをひたすら走ってきた。しかし、駅まではまだそれなりに距離がある。来た時のように、タクシーを捕まることも難しそうだった。

 大通りから交差している小さな路地へ入っていく。駅前のビルが建ち並ぶ通りの小さな路地だが、隠れる場所はそれなりにありそうだった。

 子どもたちを先に路地へ入らせて、マサトシは路地に面しているビルの中に隠れよう、と指示しようとした。

 その間際。

「こんなところにいたんだ」

「……っ!?」

 振り返るとトモヤがいたことに、マサトシも子どもたちも身体を硬直させてしまう。逃げろ、と声をかけたかったが、それすらもトモヤの突然の出現に妨げられた。

「ようやく追いついたよ」

「……くそっ」

 トモヤに追いつかれた。

 最悪の状況に、マサトシはまたしても舌打ちをした。

 トモヤがここまで来たということは、対『覚醒者』部隊(SPAT)もかれんもやられてしまったのだろう。そうなれば、もう誰もトモヤを止めることはできない。圧倒的な能力を持つトモヤを前にして、マサトシは自分の身体が言うことを聞かなくなっていることを感じていた。トモヤの放つ威圧感、対『覚醒者』部隊(SPAT)もかれんもやられた絶望感に、脳も身体もフリーズしてしまったみたいだ。

「みんな、俺から逃げるならいらないよ。せっかく俺がみんなを助けようって思ったのに――」

 一歩、また一歩とトモヤは近づいていく。

「……マサトシさん」

「だ、大丈夫だ。――みんなは必ず守る」

 精一杯声を出して言うが、その声色に頼りがいを感じることはできなかった。大人であるマサトシも心から恐怖を感じていたのだ。

「いらないんだよ。一緒に外の世界で幸せになろうって思ってたのに――」

 冷徹な声で言い放ったトモヤは、軽く右手を振った。

 トモヤの手から放たれた炎が、マサトシと子どもたちに襲いかかる。回避することも抵抗することもできずに、マサトシと子どもたちは迫ってくる炎を見つめることしかできなかった。

 悲鳴が路地に響き渡る。

 その声すらも掻き消す炎に、マサトシと子どもたちは地面に倒れた。

「……これで、よかったんだ」

 目の前で燃え上がる炎を見つめているトモヤの瞳は、依然として真っ赤に燃えている。

 黒い瞳がゆらゆらと燃える炎の赤に照らされているわけではない。普段は黒く染まっている瞳が、真っ赤に染まっているのだ。燃える炎のように。トモヤの強い意思を表すように。

 全てを赤く染めようとするかのように。


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