92 ねぇ、私の家族はどこにいるの?
『エゥト……ドコ』
小首を傾げた猫。大きく裂けた口元は垂れ下がり、小さく鳴らした声は弱々しい。まるで、親猫を探す子猫のようなそれに、エリザは口をキュッと引き結び、そっと肩に乗っているピーナッツの手を握り締めた。
ピーナッツは目の前の猫を食い入るように見つめたまま動かない。表情こそ変わらないものの、どこか寂しげな雰囲気を感じたアリスは聖剣を構えたままどうするべきかと考える。
目の前の猫は明らかにエラーだ。が、敵意は全く感じられず、猫の体から漏れだす魔力も弱々しい。
『ネェ、ドコ? ワタ、シ、カゾク、サガシテ……ルノ』
「探してる……? 誰を、ですか?」
少女のような高めで小さな猫の言葉に思わずそう聞き返して、アリスは後悔した。目の前のソレはおそらく、人間のマネをしているだけだ。会話ができるはずがない。だが、言葉を投げてしまったのは目の前の猫の声がどこまでも悲し気だったせいだろう。
エリザとピーナッツの雰囲気は硬い。猫が首を左右に傾げる。やはり、言葉は通じていないように思われたが――
『カゾク、タイセツ、ナ……カゾク……ソノヒトハネ、ヤサシイノ。オメメガキレイデ、イツモ、ワラッテクレルノ。ソノヒトネ、エスティアッテヨブト、オコルノ……キレイナ、ナマエナノニ……』
「――ッ」
ヒュッと息を呑む。それは、誰の喉から鳴ったのか。アリスは聖剣の切っ先を向けたまま固まってしまう。が、その切っ先は僅かに震え、煌めく黄金の瞳も僅かに揺れていた。エリザはピーナッツを手を握り締める。すると、ピーナッツが言葉を発した。
『エリザ親分。あの子は早く殺してあげるべきです。エスト殿に会わせちゃいけません』
その声はゾッとするほど冷たく重かった。鋼鉄のように無機質な言葉でも、それが悲しんでいるとすぐにわかったエリザはコンっとつま先で軽く地面を叩く。
次の瞬間、彼女の前にひざまずくように現れるは鋼鉄の兵士。静かに立ちあがった兵士は両手斧を担ぎ上げ、首を左右に振り続ける猫へと体を向けた。そして、ガシャン、ガシャン、という重たい足音を響かせ、猫の前まで近づき――
「やりなさい」
兵士が両手斧を振り下ろす。ゴォォッ、と空気を切り裂く斧が首をユラユラと揺らす猫へと迫る。このままいけば、ソレを真っ二つにできる。エリザは小さく「ごめんね」とこぼしたその時――バリバリ、という音が響いた。
『ドコ? ドコ? ドコニイル?』
黒い稲光が兵士の胸を貫く。全てを弾く鋼鉄の体は槍のように鋭くとがったソレにあっさりと撃ち抜かれ、兵士は力尽きるようにゆっくりと倒れ、煙のように消滅していく。その瞬間、辺りの雰囲気が一変していくのをアリスたちは感じ取る。
胃がむかむかしそうなほどねっとりとした生暖かい空気。皮膚をさすようなピリピリとした何かが漂っている。それは目の前の猫から発せられている魔力だと気付いたアリスは弾かれるようにグッと踏み込み、聖剣をソレへと振り下ろした。
「斬り裂けぇぇぇぇえええええ!」
純白の光を携えた刀身。無駄のないそれはまるで白い稲光のような軌跡を描き、ソレへと迫る。が、ソレはひらりとそよ風に吹かれた木の葉のような動きで聖剣を躱し、お返しだといわんばかりにソレの口から黒い雷が吐き出される。
アリスは振り下ろしていた聖剣で思いっきり床を叩くと、その反動で宙へと浮き上がり雷を紙一重で躱す。だが、かすっていたようだ。チクリとした痛みに顔を歪めながら着地したアリスは静かに聖剣を構えなおす。
先ほどのような弱々しい魔力からは想像できないほどの高威力だ。アリスはさきほど雷がかすった純白の鎧に黒い傷がついているのを確認すると、自分の体から魔力を放出させ、体に纏う。
「放て」
その時、心臓にまで響くような発砲音が轟く。空気を切り裂きながらアリスの背後から脇をすり抜けるように一発の銀色の弾丸が首を傾げるソレへと牙を剥く。爆発音と共に灰色の埃が宙を舞い、肉を斬り裂くような音が続くように響いた。
軽く振り向くと、そこには一体の兵士を横に置くエリザの姿。だが、体の魔力がもうあまり残っていないようだ。苦し気に歪んだ笑顔にアリスはグッと胸を締め付けられるような感覚に囚われる。
ここに来るまでにも来てからも、相当の魔力を消費している筈なのに。また、頼ってしまった。アリスはそっと聖剣を握り締め、スゥっと息を吸う。
砂埃の中から揺らめく黒い稲光と時折響くパチ、パチ、というはじけるような音。おそらく、まだアレは生きているということだ。アリスは肩越しに振り向き、エリザへと優しく微笑みかける。
「エリザさん。少し離れていてください――一撃で終わらせます」
「……わかったわ」
隣の兵士を消し、頭に乗っているピーナッツに手を添えながら跳ねるように距離を取る。
「……城が壊れなければいいのですが」
アリスはエリザが十分に距離を取ったのを確認すると、そう言って小さく笑う。が、すぐに真剣な物へと変える。
「焼き尽くします」
そう呟いたその時、辺りに高密度の魔力がアリスの周りを渦巻く。太陽のように温かく眩しい光は周囲にあるものをその高熱で蒸発させていく。アリスの呼吸に合わせるように光が龍のように蠢き、聖剣の中へと吸い込まれ、その刀身を何倍にも膨れ上がらせていく。
天井スレスレまでその切っ先を伸ばした聖剣を見ながら小さく息を吐き出す。これは、もう魔法ではない。ただただ、自分の魔力全てをアレへと当てるだけ。塵一つ残してはいけない。
アリスの脳裏に浮かぶは彼女の悲し気な笑顔。時折、見せるあの笑顔を見るたびに胸が締め付けられた。大切な人を想うあの儚げな表情。
「もう、あんな顔は見たくない。だから私は」
一歩踏み出す。ジュウ、という音と共に踏み込んだ床が溶けていく。舞っていた埃が聖剣から放たれた光波によって蒸発していく。晴れたそこには、体中がズタズタになった猫が黒い稲光を帯電させながら小さく泣いていた。
どこからともなく、ポタリ、ポタリ、と黒い滴が涙のように床を跳ねていく。アリスは構わずもう一歩踏み込み――
「貴女を消し去ります。ごめんなさい」
アリスはそう言って、聖剣を振り下ろしたのだった。
「シュティレ」
深い青色の左目を煌めかせながら、シュティレの横へとしゃがんだエスティアは気を失っている彼女の頬を優しく撫でる。すると、シュティレの顔にできていた傷がゆっくりと消えていく。エスティアの魔力が彼女の傷を治しているのだ。
すっかり、治った顔を愛おし気に撫でるエスティア。その瞳はどこまでも優しく、先ほどまで悲しみを現す青色の左目は、彼女の穏やかさを現すかのようにうっすらとピンクがかったオレンジ色へと変わっている。
もう、ユーティナから貰った魔力も、返してもらった瞳の魔力も体に馴染んだ。エスティアは優しく微笑みながらそっと眠る彼女の額に口づけを落とす。すると、溢れ出る魔力がシュティレの体を包み込み中へと溶けていく。
「これで、少ししたら動けるようになるはずだからね」
声が聞こえたのか、苦し気な表情から少しだけ微笑むシュティレにエスティアの心が温かみを帯びる。だが、のんびりしている暇はない。
「シュティレ、少しだけ待っていてね。全部終わらしてくるから」
そう呟き、エスティアはシュティレの唇へと軽く口づけを落とす。本当であれば、一緒に行きたいところだが、魔力が尽きかけている彼女にこれ以上無理はしてほしくない。どうしようもないほどの不安と寂しさに包まれるが、その考えを振り払うように首を振ったエスティア。
左目に軽く手を添えながら立ちあがり、エスティアは腰に収まる宝剣をシュティレの隣へと置く。すると、宝剣がシュティレを守るように水色の薄い膜を展開させる。宝剣の加護があれば、彼女に危険が迫ることは無いだろう。
エスティアは腰に収まる魔剣をゆっくりと引き抜き、赤黒い刀身に映る自分の顔を見つめる。もう、魔剣から声は聞こえない。飢えにも似た憎悪は幻だったかのように心が穏やかだ。だが、奥底にある悲しみと怒りだけは消えていない。
壁にめり込んでいるスライへと顔を向ける。まだ、気を失っているようだ。エスティアはそんな彼の目の前まで移動すると、彼の腹部を思いっきり蹴り上げた。
「――がはっ」
ゴリッ、という音が響き、スライの体が再び壁へとめり込む。だが、まだ終わらない。エスティアはスライの髪を掴み上げ、自分の顔を近づけるともう片方の手で彼の閉じた瞳を無理やりこじ開ける。
「おい、起きろよ。お前にはずっと聞いてみたかったことがあったんだからさ」
「……ッう」
意識が戻りかけているようだ。視点の定まっていない茶色の瞳が無表情のエスティアを映し出している。自分でも驚いてしまうほどの無表情に思わず笑ってしまいそうになるが、彼女はもう一度声をかける。
「おい、起きろ」
「ぐぅ……お前……いい、気に――ガハッ」
意識を取り戻し、睨む彼の腹部に膝蹴りをすかさず叩き込む。透明な液体が口から吐き出され、エスティアの服へとかかるが、エスティアは気にすることなく鼻で笑う。その笑みはゾッとするほど冷たい。
「いい気になるよ。せっかくアイツがくれたチャンスだもん」
せっかく、アイツはワザとコイツを生かしておいてくれたのだ。エスティアはスライを地面へと押し倒し、その首筋に魔剣を付きつけた。
あらゆる負の感情を垂れ流す魔剣の濃密な魔力がスライの鼻腔を通り抜け、脳へと突き刺さる。さすがのこれには彼も表情を歪める。エスティアはそんな反応に笑うと、燃えるような赤紫色に染まった左目と澄んだ黄金の右目で彼を射抜く。
「ねぇ、なんで――私の家族を殺したの?」
エスティアは自分の声が驚くほど冷静なことに驚いた。スライは口の端から唾液を垂らしながらニヤリと笑う。
「そんなの決まってるだろう。俺は実験材料が欲しかったんだよ。優秀で、殺しても平気そうな材料がさぁ! ククク、そんな時だよ。優秀な奴隷を扱う商人を知ったのは」
「……」
エスティアが無言で聞いているのに快くしたスライは言葉を続ける。
「俺はすぐにお前の館へと向かった。いやぁ、ほんとに助かったぜ、お前の奴隷がいなかったら俺の研究はここまで成功しなかった。感謝するぜ、奴隷商人……だが、一個心残りを言うなら、そこにいる女が目当てだったのに生き残っていたのは残念だよ」
そう言ってスライは大きな声で笑った。その声はどこまでも悪意に染まっている。だが、エスティアは眉一つ動かさず、「そう」と答えた。
「クハハハハッ! だが、お前は俺に感謝すべきだろ? なんたって、捨てるつもりだったアイツらに会わせてやったんだからよぉ。なぁ」
スライはもう殆ど深紅へと染まっているエスティアの左目を見上げながら、汚らしい笑みを浮かべる。
「――自分で大切な家族を殺した気分はどうだった?」
勝ち誇ったような笑みを浮かべるスライ。エスティアはフッと鼻で笑う。その笑みは今にでも砕けてしまいそうなほどに酷い物だった。
エスティアの脳裏に浮かび上がるカルミアたち。グレースだけは見ていないが、全員自分の手で殺した。オリバーはアードシアが殺したようだが、自分の分身がやったことだ。罪は背負ったことに変わりはない。スライに付きつけた魔剣が僅かに震える。
みんな、いい子たちだった。たとえ、敵だったとしても、あんな生まれ方をして、あんな死に方をしていい子たちではない。エスティアはスライをまっすぐ見つめる。
「……最悪だったよ。余計に自分のことが嫌いになるぐらい」
魔剣の震えが止まる。スライはギクリと顔を歪めるとエスティアの手から逃げ出そうと握り締めた手に魔力を込めるが――
「なんでだっ! 魔法が……発動しない……!」
「もう、お前にできることなんてない。唯一できることは神に祈るぐらいだろうね。だけど」
魔剣の切っ先がスライに喉の皮を切り裂く。薄く斬り裂かれた底からタラリと生暖かい深紅の液体が流れ出し、それは川のように彼の体を下って行く。
スライの脳にかつてないほどの恐怖が襲い掛かる。これよりもひどい場面に何度も遭遇した。死にたいと思ったこともあった。だが、目の前の魔剣と担い手から吹きつける恐怖はそんな物を叩き壊す程、直接響いてくる。
「っあ、あ……やめ、ろ……俺は、まだ……」
「お前には神に祈る資格すらない」
冷たい声が心臓を貫き、突き抜けていく。まるで、本物の刃物で刺されたかのような痛みが体を駆け巡る。
漆黒の刃が肉を斬り裂く。纏わりついた黒い魔力が噴き出そうとする血を啜り、歓喜の声を上げる。なぜか、それが聞こえた彼はあまりのおぞましさにその両目から無意識のうちに大粒の涙を零していた。
「死に、たくな、い……んだ」
「ふーん。だから? それ、あの子たちも思ってたんだよ。死にたくないって。まぁ、私はそんな子たちを守れなかったんだけどね」
エスティアは冷たくそう突き放す。重たく泥のように淀んだ声が彼の脳を揺さぶり――
「だから、私はお前を殺すの。許せない自分を少しでも許せるようにね」
彼の首が胴体を離れる。流れだした血を漆黒の魔力が啜り、悲鳴のような歓喜の声を上げる。エスティアは掴んでいた彼の頭を自分の魔力で燃やし、残っていた体もその炎で塵ごと焼き尽くす。
「あっけない復讐……でも、それでいいんだよね」
立ち上がったエスティアはチラリと横たわるシュティレへと視線を向ける。どこかで、なにかあったのだろうか。エスティアの鋭い聴覚が爆発音のようなものを捉える。
残るは一人。最後の復讐を果たさなければ。
エスティアはグッと魔剣を握り締める。多くの魔力を蓄えたソレは早く早くといわんばかりに赤黒く輝く。そして、彼女の隣に現れた血まみれの獣が横たわるシュティレを優しく、自分の背へと乗せエスティアへと顔を向ける。
「全部、終わらせよう」
エスティアは悲し気に笑うと、シュティレを乗せた獣と共にそのまま廊下の奥へと消えていったのだった。




