91 これはもう一つの結末だったのかもしれない
「はぁ、全く。何回お前を助ければいいんだよ」
そう言って大きなため息を吐き出したアードシアは、スライへと顔を向けた。そんなアードシアの瞳は赤紫色だった。スライは、持っていたナイフをエスティアへと突きつけたまま、顔を向ける。その顔は不快感をあらわにしている。
「お前、アードシアか。どうしてここにいるんだ。お前、俺になにかしたらわかってるだろうな」
「あ? うるせぇな。出来損ないが俺に指図してんじゃねぇよ」
アードシアはそう言うと、スライの前まで近づき、彼の体を思いきっり蹴り飛ばした。完全に油断していた彼は避ける間もなくアードシアのつま先が顔面へと突き刺さり、彼の体が吹っ飛ぶ。ゴロゴロ、と床を転がりながら壁へとぶつかった彼は気を失ってしまったのか、ピクリとも動かない。
エスティアはうまく動かない体でアードシアを見つめる。油断していたとはいえ、たった一撃で彼を倒してしまった。すると、そんな考えを感じ取ったのかアードシアが小さく鼻を鳴らす。
「あーあ、まったくウロチョロしやがって。ここで人探しってのは大変なのに……ったく」
そう言って後頭部をかいたアードシアはシュティレの横へとしゃがむ。そのままシュティレへの太ももへと手を近づける。エスティアは咄嗟に「触るな!」と言おうとしたが、その言葉よりも早く彼女が言葉を被せた。
「バーカ。安心しろ。コイツの傷を少し塞いでやるだけだ」
「なんで……」
「別に、気まぐれだ。……よし、これでしばらくしたら目も覚ますだろ」
フゥと小さく息を漏らしたアードシアは額から流れ落ちた汗を拭う。エスティアはその姿がどうしようもなく弱々しく見えてしまう。まるで、もうすぐ溶けてしまう雪だるまでも見ているかのような、そんな感覚。
そういえば、あの時、助けてくれた時もどこか弱々しいという印象を抱いていたことを思い出し、エスティアは隣へと腰を下ろすアードシアへと声をかけていた。
「お前は、もうすぐ死ぬの?」
アードシアはその言葉に驚いたように、目をパチクリさせると、プッと噴き出す。エスティアはその反応にムッと眉を顰める。すると、彼女はまた噴き出した。
「ハハハ、やっぱりお前と私は別物なんだな。予想とは違ってビックリしたよ。……まぁ、お前の想像通り、私はもうすぐ死ぬ。もう流石に体の魔力が尽き始めてるみたいでな」
「なら、なんで……シュティレを助けた。そんなことしたら自分の命が減るでしょ。……まぁ、助けてくれたことは感謝してるけど……って、なにその顔」
少し動くようになった首を動かし、顔を上げたエスティアの視線の先には表情を歪めるアードシア。まるで、気味の悪い物でも見るようなそれに“私もこんな顔をするのかな”なんて考えてしまう。
「急に素直になるなよ気持ち悪い。それと、その顔やめろ。同じ顔だから余計に気味が悪い」
「なっ。じゃあそっちだってそんな意地悪そうな顔やめてよ。シュティレにそんな顔見られたくない」
「お前……はぁ」
再び大息を吐き出したアードシア。その表情は初めて会った時とは比べ物にならないほどの柔らかさを携えており、エスティアはもう話すことのできない母を思い出す。すると、そんな考えがアードシアには手に取るようにわかるのだろう。気まずそうに瞳を伏せ、勝気な瞳の色が青緑色から暗い青色へと変化していく。
それは、彼女が悲しんでいると理解できるエスティアはグッと唇を噛む。アードシアは軽く目を細めると、エスティアの頬へと手を伸ばす。
触れた彼女の手は驚くほど冷たかった。ゾクリとすほどの真剣な青緑色の瞳がエスティアを貫く。
「エスティア、もう時間がねーから用件だけ言うからな――お前の“箱”の中にあるものを入れておいた」
「え……なに言って」
動揺するエスティアの言葉を遮るようにアードシアは言葉を続ける。
「そのあるものを永遠に封印してほしい。誰にも、見つからない場所へと。だが、いつか本当に必要な時が来た時、その必要な奴へと渡せるように管理してほしいんだ」
「あるものって……」
「んなの、全部終わった後にでも見ればいいさ。……で、やってくれるよな?」
ギラりと青緑色の瞳がエスティアの黄金の片目と何も入っていない眼窩を交互に睨む。エスティアはまるで導かれるように首を縦に振る。ここで、首を横に振るなんてことをしたらシュティレ共々死ぬと本能で理解できたからだろう。
素直に頷くエスティアに、アードシアは微笑む。その安心したような笑顔にエスティアは、“なんだかんだ言って不安だったのかコイツ”という言葉をそっと飲み込んだ。
「まぁ、お前が断らないというのはわかってたさ。さて、そろそろヤバくなってきたからな。とっととやりたいことを終わらせるか。おい、エスティア」
「な、なに?」
頬に触れていたアードシアの指がエスティアの左目縁をなぞる。痛みは感じなくとも、無意識にビクリと震える体。エスティアはスっと顔を背けようとするが、許さないといわんばかりにアードシアが彼女の顎を強引に掴み上げる。
「今から、お前に借りてたもんを返す」
スっと細められた青緑色の瞳。エスティアは無意識にゴクリと息を呑む。
借りてたものを返す。その言葉の意味がわからないわけではない。だが、この世に生きるものにとって瞳は未知の物だ。抉りだすぐらいなら魔法知識と医学知識があれば可能だろう。そんな瞳を自由にできるといったら、それこそ、神と呼ばれしユーティナぐらいだろう。
そんな芸当を目の前の彼女ができるはずがない。故に、エスティアはどうやって返すんだという懐疑の視線を向けてしまうのも無理は無いだろう。
「はっ、お前の考えてること分かるぞ。この俺様を誰だと思ってんだ。できないことなんてないね!」
二っと歯を見せるアードシア。その自信に満ち溢れた表情に父との姿が重なって見えたエスティアはキュッと口元を結ぶ。そんな表情をされて疑うことなどできない。きっと、彼女ならやり遂げてしまうのだろうと思ってしまう。
見つめるアードシアの青緑色の瞳にうっすらとオレンジ色が混ざる。エスティアは体から力を抜くと、フッと鼻で笑った。
「じゃあ、早くやってよ。片目が見えないのってすっごく不便なんだよね。シュティレの顔がちゃんと見えないからさ」
「……フッ。ったく、お前は……さすがはオリジナルってか。本当に家族が好きなんだな」
「もちろん。アードシア。貴女もでしょ」
フワリと微笑むエスティアの姿にアードシアが小さく息を呑む。そして、小さく息を吐き出した。その表情はどこまでも真剣だった。
「……あぁ、そうだな。だから、とっとと終わらせる。少し痛いかもしれないが――怖がるな」
「――ッ!」
左目を覆うようにアードシアの手が当てられる。氷のようにヒンヤリしているそれは、彼女がもういつ消えてもおかしくないと言っているようにも思える。どこかで、サラ、サラ、と砂の落ちる音がする。エスティアはスっと両目を閉じ、心を落ち着かせるようにゆっくりと呼吸する。
冷たい手の奥からぬるりと温かい空気のような水のような不思議な感触がエスティアの左目眼窩へと注がれていく。ピリッとした痛みが走り抜け、涙が左眼窩から零れ落ちる。それはまるで、注がれるそれを拒んでいるかのようだ。
いやだ、やめて。拒まないで。エスティアは心の中でそう呟き、何とかして涙を押さえようとするが――
「大丈夫だ。大丈夫」
優しい声でアードシアがそっと声をかける。同じ声で言われてもおかしな感じだが、どこか父を連想させる声色にエスティアの眼窩から流れていた涙が自然と止まり始める。
「エスティア。お前が平和な世界でのんびりと暮らせるのを心から祈っている。だから」
左目に違和感が現れる。それは次第に馴染んでいくと、ずっと暗闇だった左側が光を吸い込む。たとえ、短い間だったとはいえ、その光は強烈だったようだ。エスティアは、ピクリと瞼を震わせ、閉じようとするが、冷たくザラザラとした指が瞼をつまみ上げている為に叶わない。
「全部、お前に託したからな」
「アー、ドシア……ッ」
瞬きのような闇がエスティアを埋め尽くす。サラ、サラ、とそよ風のようにザラザラとした感触が頬を撫で、体を撫でていく。
――またいつか、今度は、普通の人間として会おうな。
そんな声が通り過ぎていく。聞きなれている自分の声のようでいて、聞いたこともない声。エスティアは小さく笑みを浮かべるとそっと閉じていた瞳を開く。
「そうだね、またいつか」
そう言ったエスティアの左目は青緑色がかった暗い青色に煌めいていた。
「エリザさん……やはり、ここおかしいです」
薄暗い廊下を歩いていた二人。長い、長い、一本道に変わらない景色を見渡しながらアリスはそう言って近くの窓へと顔を向けた。
先ほどまでは綺麗な空や山が見えていた窓の外には、漆黒の闇と反射した城の内部やアリスたちの姿が映っている。どんなに目を凝らそうと漆黒以外の景色は見えない。が、アリスの瞳は漆黒に混じるように漂う異物を捉えている。
「ここはもう完全に別世界なのでしょう。おそらく、城全体を魔力で覆っていると思われます」
「ふむ……魔王城全体となると私でもやろうと思えばできるわね。ってことは、やっぱりアイツがやったんでしょうね」
それがスライを指していることなど明白。アリスは表情を強張らせる。思わず窓に付いていた指に力が入っているのだろう。ピシリ、という音と共に窓にわずかな亀裂が走るが――
「……窓が再生している?」
まるで、時間が巻き戻るように窓の亀裂が小さくなり、触れる前の綺麗な窓へとなっていた。アリスは弾かれるようにその窓から距離を取る。エリザは興味深そうに窓を眺める。そんなエリザの頭の上にはいつの間にかフードから出てきたピーナッツも彼女に倣うように窓を見つめていた。
「魔術かしら……でも、アイツ確か魔法使いのはずなんだけど。遠隔で使うのって難しいのに……いや、術式として組み込んであるのかしら」
『気配的には魔術みたいですな。ですが、魔法にも似た空気が感じますね……術式の痕跡は見当たりませんな……うむうむ』
唸りながら会話を続ける二人。時節、聞いたこともないような単語が口から飛び出し消えていく。アリスは軽く目頭を揉むと、二人へと声をかける。そんなアリスの表情は苦虫でも噛み潰したかのような渋い物であった。
「……エリザさんでも見たことの無い技術ということでしょうか?」
魔法剣士と呼ばれても感覚的に魔法を使うアリスにとって、二人の会話を理解しようとは思わない。やるだけ頭がパンクして無駄になるとわかっているからだ。彼女の声によって現実へと引き戻されたエリザたちはアリスへと顔向ける。
「そうね……これだけじゃはっきりとは言えないけど、おそらくこれは魔法とも魔術も言えないものだわ」
『簡単に言うとですな、魔法と魔術のいいとこどりと言ったところでしょうか』
首を傾げるアリスにピーナッツが補足するが、やはり魔法や魔術というのは理解できない物のようだ。そんなことをすぐにアリスの表情から読み取ったエリザは苦笑を浮かべて「まぁ、魔法みたいなものだから貴女の魔法切断は通用するわね」と言った。
「そうですか。まぁ、この大きさを斬るのは流石に危なそうなのでやりませんが。とにかく、エストさんたちを探しに行きましょうよ」
そう言ってアリスが廊下の奥へと足を向けたその時だった。
『アリスの姉御! 危ない!』
鬼気迫ったピーナッツの声が響く。アリスは弾かれるようにその場から飛び退く。すると、大きな爆発音が轟き、いたるところに溜まっていた埃が宙を舞い視界が濁る。
暫くして、埃が晴れる。すると、先ほどまで彼女が立っていた場所には巨大なクレーターが出来上がっていた。そして、その真ん中には黒いナニカが蠢いている。
距離を取ったアリスたちは即座に武器を構え、警戒した様子でその黒いナニカを凝視する。真っ黒な泥にまみれた猫のような姿をしたそれは、二メートルはあるだろうか。所々、黄色い毛並みが顔を覗かせる泥まみれの猫はゆっくりとこちらへと振り向く。
その猫に顔は無かった。あるのは、大きく裂けた口とそこから覗く鋭い牙。無害そうに見えるが、二人は顔を強張らせたまま猫を睨む。
『……ゥト、ハ……ドコ?』
猫は、酷く悲し気な声でそう言って小さく首を傾げた。




