86 死を受け入れた者と死を受け入れられなかった者
――ティア。
声が聞こえる。怒鳴るような強い声。
――スティア!
また聞こえた。どこか聞き覚えのある声。いや、聞き覚えがある程度ではない。うんざりするほど毎日、自分の喉から出る……自分の声だ。
「おい! エスティア! 起きろ! お前、また暗闇に落ちたいのか!」
ガタンと横に倒れる軽い痛みと衝撃により、一気に覚醒し瞳を開いたエスティアは何度かパチパチと瞬きをした。すると、彼女は目の前には誰かが立っていることに気が付く。男物の革靴ということは立っている人間は男だろう。
顔の左側が何故かズキズキと痛むが、エスティアはその顔を上げようとする前にのんびりとした男の声によってその動きを止めた。
「おはよう、エスティア。元気だったかい?」
カタン、と倒れていたエスティアが座っている椅子ごと元の位置へと直される。倒れた時に打ったのかやけに狭い視界にエスティアはどうしようもなく、不安になりながらも、左側から現れたその男を見た瞬間、その不安は恐怖へと変化してしまう。
ガタガタと体が無意識に震える。その震えを止めることはできない。むしろ、恐怖を誤魔化せるのならもっと震えてくれと彼女は無意識に願っている。
「大きくなったね。本当に、本当に」
そう言った男は表情を綻ばせた。それは人畜無害で、見た人は必ずと言っていいほど心が穏やかな気持ちになってしまうほどの優しさに溢れている。だが、エスティアの恐怖に染まった顔が緩むことは無い。極度の緊張状態にあるせいで、額からは滝のように汗が流れ落ち、それはまるで涙のようだ。
怖い、怖い、怖い。エスティアの脳にはこの言葉と感情しか浮かんでおらず。言葉を発することすらできなようだ。男は安心させるようにエスティアの頬を優しく撫でる。
「それにしても、まさか生きているとは思わなかったよ」
その言葉にエスティアの背筋がゾクッと氷のように冷たい何かが通り抜けていく。どうして。そんな言葉すら出す余裕のないエスティア。だが、彼はまるで彼女の心を読んだかのようにニコリと微笑む。
その笑顔は子どもの頃に見た時と全く同じだった。エスティアの瞳を奪った――ベルトラン・フェレオル。その男はあの時と変わらない姿であった。
「僕ね、君の瞳をずーっと狙ってたんだよ。あそこまで、力を持っているライトアイズは見たことが無かったからね。そして、やっと手に入れた。嬉しかったよ。思わず、君の体を崖から突き落としてしまうほど。……くくく、だが、あれは人生で最大の失態だったよ」
崖から突き落とした。
その言葉がぐさりとエスティアの心を容赦なく貫く。冷たい何かを血管の中に入れられたかの如く、体の芯から冷えていくような気がした。だが、ここで下手に動けば、彼を喜ばせると本能的に理解しているからこそ彼女は瞳を限界まで見開いたまま微動だにしない。
ベルトランはエスティアの左頬を撫でる。だが、視界の狭くなったせいか、彼の手は見えない。
「君の瞳を材料に僕は、この瞳が最大の力を発揮できるように調整した君を創った。それが、あそこにいる……といっても、左側では見えないか」
フワリと笑ったベルトラン。エスティアは息をするのも忘れたかのように彼を見つめたまま唇を僅かに震わせ、必死に言葉を紡ごうとする。だが、子どもの頃に植え付けられた恐怖が声を出すことが許さない。
「だけどね、僕は気付いたんだ。ライトアイズはその持ち主にしか本当の力を発揮できないということをね。それは、作り的には全く変わらないアードシアだとしてもダメだった。僕はあの時ほど、君を崖から突き落として殺してしまったことを後悔したよ」
そう言った彼は心の底から後悔しているのだろう。くしゃりと笑ったベルトランは今にでも泣きそうであった。が、すぐに子どものようにパッと笑顔を咲かせ、「けど、また会えた!」と嬉しそうに言う。
先ほどまでのような理性的なものと違う。頬を紅潮させ、血走った茶色の瞳エスティアの肩を掴む彼の手に力が入り、興奮しきったそれは狂気に満ちている。
「だけど、少し予想外だったよ。まさか、新しい瞳が君に光を与えているのだから。しかも、見た瞬間にわかったよ。それは神の瞳の中でも最上位の代物だ……まったく、君はどんな運命で彼女と出会ったんだろうね」
感心したように自分で頷きながらベルトランは、エスティアの右目を覗き込む。吐息がかかるほど間近に迫った彼から逃げようとエスティアは体を動かす。だが、体に巻かれたいくつもの鎖が軽く音を鳴らすだけで動くことは叶わない。
すると、ベルトランは「ごめんよ」と言って顔を離す。申し訳なさそうにしていながらも、その狂気と興奮に染まった顔に変化は無く、むしろ悪化しているようにも見えたエスティアはグッと唇を噛みしめる。
悪夢なら覚めて。エスティアは何度もそう願う。ベルトランはそんな考えを知ってから知らずか、まるで読み聞かせでもするかのように話し方でしゃべり始める。
「その瞳を説明する前に、神族について少し話そうか。神なる一族。そう呼ばれていても、今の神族には神とも神の使いともいえるほどの力は持っていない……失くしたという方が正しいかもしれないね。知っていたかい? 神族は他の種族が生まれる前からいたとされるんだ」
顎に手を当て軽く瞳を閉じたベルトランは穏やかな口調で続ける。
「その頃の神族は本当に神の一族と呼べるほどの絶対的な力を持っていた。大地を割り、海をも割るほどの力を持っていたんだ。それこそ、国一つを創るぐらい簡単なことだろう。ちなみに、この魔王城があるここは少し昔の地図には載っていないんだよ。そもそも、魔王が現れたのも最近のことだって知っていたかい?」
そう問いかけた彼だが、返答など望んでいないようだ。
「話を戻そうか。そんな力を持っていた神族は後に来た火炎族や人族の為にその力を使い、信仰という名の力の源を集めていたんだ。だけどね、次第に信仰は薄れ、何代も続く神族自身も弱まって行く自分たちの力を信じることができなくなっていたんだ。でも、ただ一人、神と呼ばれた時代からずっと今まで生き続けていた神族が一人だけいたんだよ」
そこまで聞いたエスティアは初めてその瞳を大きく揺らす。その脳裏に浮かぶは最後に笑っていなくなってしまったユーティナ。思わず、「まさか」と呟き、顔を俯かせた。
言葉という反応を示したエスティアを見つめた彼は、ニンマリと嬉しそうに口角を上げる。
「そう、君に瞳をあげた彼女が一番古い神族さ。そんな彼女の瞳を貰えるなんて、本当に君は幸せ者だ。だけどね」
「――っ!」
再び顔を近づけたベルトラン。その茶色の瞳は彼女の顔を見つめているように見える。だが、その瞳にはエスティアの黄金の瞳のみを映し出していた。ぞくりとするほどの不快感と違和感が襲い、冷たい汗が背中を流れ落ちた。
とてつもなく嫌な予感がする。エスティアは伸びてきたベルトランの手を避けるように激しく首を横に振る。脳を支配するは子どもの時の記憶。だが、「動かないで」という優しい声と共にベルトランはエスティアの顔を両手で固定した。
「僕は、君の体が欲しいんだ。いや、正確には、君の心をが欲しい」
「な、なに……を……いって……っ」
その瞬間、彼の瞳がギラりと光ったように見えた。
「最初に言っただろう。君はあの瞳の適合者だと。それは体質という意味ではない。君の心があの瞳を使いこなすのに必要なんだ」
「心……?」
「そうさ! 君のその心。どんな困難が来ようと守るために戦うという強い心が必要なんだ。それだけはどうしても作れない。心とは多種多様であり、似ているものはあるが、全く同じものを創ることはできないんだ」
興奮した様子で早口にそう言ったベルトランの鼻息が僅かに荒くなる。
「僕は見て見たいんだ! 誰にも使いこなせるはずのない瞳が最大の力を発揮したらどうなるのか! きっと凄いことになる。君の黄金の瞳なんか霞むほどの力がある筈なんだ! なんたって、時間をも操れると言われているからね。そう、それこそ……」
スっと息を吸い込みエスティアの肩を握る手に力を入れたベルトランは、茶色の瞳を爛々と輝かせ言う。
「世界を変えられるほどにだ! 凄いだろう! いや、凄いに決まっている! だから、エスティア! 僕と一緒に世界を変えてみようじゃないか!」
「なっ」
「でもね、僕は世界に興味はない。終わったところで僕はなんとも思わないさ……ただ、ライトアイズの真の力さえ見れればいいからね。だから、君の好きなように変えていいんだ。そう、例えばあの日の夜が来る前にまで時間を戻すことも可能のはずだ」
その言葉にエスティアはずっと見ないようにしていたベルトランの顔をしっかりと見つめた。その黄金の瞳は大きく揺れ、泣きそうにも見えるそれはまるで小さな子どものようだ。
あの日の夜が無かったことになる。エスティアの中で響くその言葉はドンドンと重くなり心をギュッと掴んで離さない。もしかしたら、またあの子たちと笑い合える日が来るのかもしれない。
ベルトランをまっすぐ見つめながら、エスティアは不安げな声色で呟く。
「ほんとうに……あの子たち、と……また……わらいあえるの……また、また……」
壊れそうな弱々しい声だが、噛みつくような勢いでベルトランへと迫ろうとするエスティア。彼女の体を縛る鎖が食い込み、鈍くも強い痛みが襲うが、気にすることなくエスティアは――
「願うわけないだろうが」
怒気の篭った冷たい声でそう言った。先ほどのような恐怖や悲しみに満ちた子どものようなソレではなく、お面のようで人間性の感じさせない無表情を張り付けたような物だった。だが、その黄金の瞳はエスティアの思いをそこに集めたかのように怒りと不快感に満ちており、ベルトランは小さく声を漏らす。
ガチャン、と鎖が大きく音を立てる。それは、彼女を縛る鎖か、はたまた彼女の傍に落ちている魔剣の鎖が鳴らしたのか。
「あの子たちは私のせいで死んでしまった。それを認めているからこそ、私はそんなバカなことは願わない。だって、そうでしょ?」
泣きそうな笑顔をベルトランへと向けたエスティアは――
「あの子たちはあそこで待っているんだ。生きている間に会うことはもうできないけど、死んだらまた会えるんだ。それなのに、それなのに……無理やりこっちに引き戻すなんてできない。やっちゃいけないことなんだよ!」
「エスティア……」
ベルトランはエスティアの言葉を噛みしめるように暫く見つめていた。だが、小さくため息をつく。
「エスティア、君にはガッカリしたよ。死んだら会えるだと? そんなの誰が決めたんだ? 誰が言ったんだ?」
「――ッ」
エスティアの首を両手で握りつぶさん勢いで掴んだベルトランは温度など感じさせない声でそう言って力を入れる。先ほどのような狂気に満ちた顔でもなければ、優しさに満ちた顔でもない。ただ、ただ怒りに満たされた顔だった。
押し込まれたベルトランの親指が気道を狭め、息ができなくなっていく。が、最低限の呼吸ができるようにしているようだ。わずかな酸素を必死に取り入れながらエスティアは彼を鋭く睨む。
「なぁ! どうしてそこまで割り切れるんだ! 僕は、僕は……っ」
ポタリ、と冷たい滴がエスティアの顔に落ちる。それは、彼の瞳から零れたものだ。だが、その時エスティアの耳が何かの音が左側から来るのを捉えた瞬間。
「言った、だろ、ソイツは……みんなの死を受け入れてんだよ……っ!」
その言葉と共に振り下ろされた拳は彼の左頬を叩き、その勢いによって彼の体が床へと倒れ込む。まるでスローモーションのようにそれを見送っていたエスティアは、呆気に取られた様にその顔を左側へと向け、困惑に満ちた声を漏らした。
「どう、して……」
「はっ、お前が死ぬと困るんだよ」
そう言うが早いかアードシアはエスティアの体を縛る鎖を素手で引きちぎり無理やり立たせる。やはり、左側がうまく見えない。エスティアはよろけながらも押し付けるように渡された魔剣を両手で抱きかかえた。
どうして助けてくれるのか。そう考えたエスティアだったが、アードシアの胸にメスが刺さっていることに気が付くとその黄金の瞳を見開く。
「それ……っ!」
「あ? んなもん気にすんな。それより、早く逃げるぞ。俺じゃアイツは殺せないからな。お前も魔法封じをかけられてるみたいだし。とにかく逃げるのが先だ」
「あ、ちょっ……」
無理やり手を引かれながらも、エスティアは床に倒れたまま微動だにしないベルトランを見る。一瞬死んだのではと思ったが、心のどこかで“違う。まだ、生きている”と言っている。だが、その瞬間、エスティアは白い光に包まれ、それ以上考えることはできなかった。
「エスト!」
眩いほどの光が収まると、エスティアは自分の体が強く抱きしめられていることに気が付き、その声の主へと顔を上げた。そこには、予想通りの人がいて……だが、そんな彼女の安堵しきった表情から一変。まるで恐ろしいものでも見たかのようにその青色の瞳を限界まで見開かていた。
そういえば、やっぱり、左側がうまく見えない。エスティアは強制的に左の瞼を持ち上げえようとして、その手を止める。
「え……なんで」
「エスト……ッ!」
瞼を持ち上げる必要などなかった。なぜなら、エスティアの左瞼はずっと持ち上がったままなのだから。
そして、その開いた左目には、あるはずの“瞳”が無いことを理解してしまったエスティアは、耳をつんざくほどの悲鳴をあげた。
次回更新日は2019年4月23日(火)を予定しております。




