80 剣か拳か
エスティアが目を覚ましてから、二日後の朝。まだ、小鳥ですら眠っている早朝であるが、城の庭ではブゥンッ、という何かを振り下ろす音が絶えず響き渡っていた。
「はぁぁぁっ!」
漆黒の籠手が握り締める魔剣は黒い線を描きながら流れる風を斬り裂き地面から顔を覗かせる芝生を大きく揺らす。エスティアは振るった魔剣を休める間もなく、一息で一気に振り上げる。
ブンッ、ともう一度風を斬り裂き、切っ先が太陽を真っ二つに斬り裂かんと天を向く。汗がポタリと地面に落ち、吸い込まれていく。
もう、体の状態は完璧のようだ。エスティアは自分の体の具合を確かめるように肩を回し、魔剣を軽く振るう。たった二日とはいえ、動けない間はシュティレには色々と世話をしてもらった。
食事から日常生活まで、付きっきりでいてくれた。申し訳ない気持ちもあったが、エスティアとしてはちょっと楽しかったのも事実だ。が、それももう終わりだ。
「……にしても、部品無しで作れるんだ」
手足もちゃんと自分の物として動く。エスティアは自分の手足を見ながら感心したように声を漏らす。記憶の限り、食い千切られた手足は喰い尽くされ、欠片すら持って帰っていないはずだ。
魔術がどこまでできるのかは不明だが、エスティアは“せっかく治して貰ったんだから、大切にしなきゃ”と胸の内で呟く。
「よし、もう少し素振りしてから汗でも流すかな」
昇り始める太陽に話しかけるようにエスティアはそう言うと、もう一度魔剣を構え――
「エストさん」
闇を切り裂くような強くまっすぐな声が聞こえた瞬間、エスティアは振るいかけていた魔剣をピタリと停止させ、振り向く。純白の鎧に包まれ、その腰に純白の聖剣を携えたアリスは穏やかな笑みを浮かべながら、歩み寄る。
やはり、鎧を着ると気が引き締まるようだ。穏やかながらもその力強い表情でいる彼女にエスティアは魔剣を腰の鞘に納めた。
「おはよう、アリス。身体の調子は? 平気?」
真っ先に思いついた言葉を紡ぐ。すると、アリスは一瞬呆気に取られたような表情を見せ、クスリと笑う。その反応に、エスティアは首を傾げる。おかしな冗談を言ったつもりはないが、と考えていると、それが、何かに触れたのだろう。アリスは声を出して笑う。
「ははは、もう、エストさんってば……その挨拶、昨日もしてましたね。貴女のほうが重症だったというのに、まったく……貴女という人は」
見たこともない。カラカラと楽しそうに笑う彼女にエスティアは驚きで瞳を見開く。が、すぐに力を抜くように温和な笑顔を浮かべ、恥ずかしそうに後頭部を掻いた。
「いやぁ、ゴメン。でも、まぁ、平気そうならいいんだ」
「ふふ、はいっ。エストさんこそ、体は大丈夫ですか?」
手を伸ばしたアリスはそっと、エスティアの右腕を撫でるように触れる。それはまるで、そこにちゃんと腕があるかを確認しているかのようにも感じられたエスティアは、右腕に触れている彼女の手に自分の左手を添えた。
ちゃんとあるよ。そう伝えるような温度のそれにアリスは安心し、嬉しそうな顔でエスティアを見上げた。そして、そのまっすぐな黄金の瞳がエスティアの姿を映し出す。
「私が言っていいのか迷いましたが……貴女が無事で本当によかった。ありがとうございます」
フワリと微笑むアリスにエスティアの視線が奪われる。その笑顔があまりにも、あまりにも、美しく無邪気でいたからだ。こんな笑顔、以前の彼女であれば絶対に見せなかったであろう。
エスティアはどうしようもなく泣きたくなった。理由はわからないが、きっとそれは嬉しさからくるものだろう。そんな彼女の表情を見つめながら、アリスは訝しむように首を傾げた。
アリスの白い指がエスティアの頬を軽く撫でる。
「エストさん、大丈夫ですか? まだ、体が本調子では――」
「あ、いや! だ、大丈夫! ご、ごめん」
気を取り直す様に笑うエスティアを暫く見つめていたアリスだが、小さく息を吐き出す。
「なにを考えているかわかりませんが。それは、私も言えませんね」
「え?」
不思議そうにするエスティアから一歩引いたアリスは、腰の聖剣を外し近くに置く。突然、何をしているのかと首を傾げるが、彼女は気にせずどこからか二本の鉄製の剣を取り出し、一本をエスティアへと差し出す。
とりあえず、受け取ったものの。剣はどこにでもあるような、何の変哲もない鉄剣だった。これで一体何をするつもりなのか。
「以前の私は、話したり感情を現すということが苦手……いや、必要とは思っていませんでした」
「アリス……」
「ですが、この姿になってからもっと話したい、私の考えを伝えたいと思うようになったんです。一緒に封印されていたからか、貴女に出会えたおかげか……でも」
剣の切っ先をエスティアへと向けたアリスは眩しいほどの笑顔を浮かべた。
「まだ、うまく言葉にできる自信がありません。だから、私は私の方法で今の気持ちを貴女に伝えたい。そして、貴女の気持ちを知りたいのです」
「……アリス。……まったく、これでも私、動けるようになったばっかりなのに」
腰にぶら下がる魔剣と宝剣を取り外し、近くに置いたエスティアは銀色の剣を構える。
普通の剣を握るなんて、あの時以来か。ずっと魔剣を握り続けていたせいか、ずっと軽く感じるそれに心まで軽くなっていくようだ。
あいにく、勇者という外套を身に纏っているだけで、剣士や騎士といった剣で語り合うことはできそうにないが、受け止めることはできるはずだ。そう考えたエスティアは挑発的な笑みを浮かべ、言葉を続けた。
「本気でいくからね」
「はいっ。そうでなければ、私の圧勝になってしまいますから」
「言うじゃん」
同時に二人が剣を振るう。その金属音は小鳥たちを叩き起こすには十分すぎるほどの音色だった。
僅かな物音で意識が朝日を拝もうと、瞼を開けと指示する。丁度起きようと思っていたシュティレはその願いに従い、その青い瞳に光を注ぐ。青天から降り注ぐ光は、案外瞳には強烈だったようだ。
「まぶしっ」
そんな言葉が口から思わず出てしまうのも仕方ない。シュティレは軽く欠伸をしながらその体を起こし――隣にいるはずの人がいないことに気が付く。
寝ぼけていた頭が一気に覚醒すると、これでもかと大きなため息を吐き出す。もうそろそろ体が動けるようになるということはわかっていたことだ。そして、動けるようになった彼女がすることなどすぐに想像がつく。
かすかに聞こえる金属音のようなもの。庭から少し離れているにも関わらず聞こえてくるそれにシュティレはもう一度、大きなため息をつく。
どうしてこう、無理ばかりするのか。仕方ないといえば、仕方ないが、シュティレは不満げに口を尖らせる。それは、自分が置いて行かれたのが嫌だという理由なのは自分自身でもわかっている。
「あーあ、私が付きっきりでいたのに、治ったら置いてくんだもんなー」
そう愚痴を零した。が、それを聞いてくれて、「ごめんごめん」と笑ってくれる相手いない。一人で呟いて無性にむなしい気持ちになったシュティレは跳ねるようにベッドから飛び降りると、手早く身支度を整える。金属音の音色が耳に届く。なんだか、先ほどより音が大きく、響く感覚が短くなっている。
まったく、なにをやっているんだと呆れ顔のシュティレは扉を開き、廊下に出たその時――
「シュティレ、おはよう」
「あ、お姉ちゃん。おはよ」
フワリと微笑みそう声をかけたエリザは、シュティレの頭にぴょこんと生えている寝癖を梳くように直すと、小首を傾げた。
「なんだか、不機嫌そうね」
「……まぁね。ちょーっと不機嫌かも」
素直に答える彼女にエリザは意外そうな表情を見せる。すると、その表情と言葉遣いから何となくではあれど、予想できたのだろう。口の端を上げたエリザは「そういうことね」と呟き、そっぽを向くシュティレの頭を優しく撫でる。
「そろそろ、朝食が出来るわ。今日は、大事な話もあるそうだから、シュティレ。二人を呼んできてくれる?」
「大事な……話?」
「そっ、とっても大事な話。貴女たち二人にね」
笑みを浮かべていても、その紫色の瞳の奥は真剣みを帯びていることに気が付いたシュティレは、傾げかけていた首を元の位置へと戻すと、コクリと頷く。
大事な話。そのことを一秒でも早く知らなければいけない。シュティレさっと踵を返し「行ってくる!」とだけ言い残すと、そのまま金属音響く庭へと駆けていく。エリザはそれを見送ると、そっと息を吐き出す。
その表情はどこか暗い。
『エリザ親分、シュティレの姉御に、先に教えてもよかったのでは?』
エリザのフードから出てきたピーナッツはそう言って見上げる。その顔が変化することは無いが、きっと訝しみを浮かべていることが容易に想像できたエリザは、クッションのような触り心地のピーナッツをグニグニと雑に撫でる。
「ダメよ。これは、二人一緒に知るべきことだわ」
『そんなもんなのですなぁ……』
気抜けた声は響く前に空間へと飲み込まれていった。
「ハァァァアアアアアッ!」
「セェアァァァアアッ!」
純白の拳と漆黒の拳がぶつかり合い、火花を散らす。お互いに弾かれ体勢を崩す。が、二人は同時に踏み込み、もう一度拳をぶつけあう。
キィィィン!
目にも止まらぬスピードで拳を何度も振るう。もう、何度目か。剣で戦っていた筈が、いつの間にかお互いの剣は真っ二つに砕け、傍らに落ちている。普通であれば、剣が折れた時点で終わりのはず。だが、二人は拳を握り、止まることは無い。
エスティアの右拳がアリスの眼前まで迫る。このまま入れば、彼女の意識を一瞬で刈り取れる。そう過信したが――アリスの笑みが崩れることは無い。
カンッ、と軽い金属音。純白の拳が漆黒の籠手を弾いた音だった。その音が“甘いですね”と言っているようにも思えたエスティアはムッと口を引き締めると、無理やり弾かれた右手をげんこつの要領で振り下ろす。
「――ぐふっ」
だが、その漆黒の拳がアリスの頭部へと届く前に、鋭い蹴りが一歩早く、エスティアの腹部に突き刺さる。しかも、一番鋭いつま先だ。エスティアは襲い掛かる痛みを飛び越して、まるでスキップするようにやって来た吐き気を堪えながらバックステップで距離を取った。
着地した振動でこみ上げたものが喉まで上がる。胃は空っぽだから、出ると言っても胃液と唾液だけだが、わざわざ吐き出すまでもない。
「……うぇ、まっず」
喉まで上がったそれらをゴクンと飲み込み、胃の中へと叩き戻す。味覚で感じなくとも風味が口の中に広がり、最悪な気分も広がる。だが、味わっている暇はない。
突き出された左拳をエスティアは、手の甲と腕で滑らせるようにいなすと、体をそらせ思いっきり、力の篭った頭突きをアリスの額へと落とす。
「――いっ!」
「――ッ!」
ゴチン、とまるで石にでも頭突きをしてしまったかのような音と衝撃。頭突きとは多少なりにも自分にまでダメージが帰って来てしまう諸刃の剣だ。頭突きの名人だったら、そんなことは無いのかもしれないが、強化もしていないエスティアにはそんな芸当は無理だ。
と、いってもダメージを喰らったということは、ほんの多少なれど彼女にダメージは与えられたはずだろう。彼女の口から漏れた声と真っ赤になった額を見ながら、エスティアは勝ち誇ったように歯を見せた。
「頭突きなんてやりますね。油断していましたよっ!」
挑戦的な笑顔のアリスはそう言って、お返しだと言わんばかりに頭突きの反動で離れていたエスティアへと突き上げるような頭突きを繰り出す。
「ぐぁっ!」
アリスのつむじがエスティアの鼻っ面を直撃。咄嗟に背後へと飛んでいたおかげか、うまく勢いを殺せたようで鼻の骨が砕けるということは回避できたようだ。が、完全に躱したというわけではない。突き刺すような叩くような絶妙な痛みがエスティアを襲い、思わず鼻を手で覆う。
その隙を狙って、飛び出す様に距離を詰めてきたアリスの膝蹴りがエスティアの視界をかすめたその時――
「はいっ! ストーップ!」
ピタリとアリスの動きが停止する。エスティアの腹部ギリギリのところで停止した彼女の膝を押し出す様に戻したエスティアは、ホッと安堵の息を吐き出し声の主へと顔を向けた。




