69 人を恨み世界を恨む彼はバケモノだろうか
琥珀色の瞳が喉元を抑えるノーヴェンを鋭く睨む。凍るように冷たい空気が辺りに充満する。それは季節由来のものではなく、アリスから発せられたというのは考えるまでもない。たとえ自分に向けられたものではないとわかっていても、エスティアの背中には冷たい汗が流れる。
「ちょっと、待ってよアリス。人間をやめたって……」
魔剣を下げたエスティアは眉尻を下げながらそう聞くと、アリスはチラリとエスティアを一瞥した後、再びノーヴェンへと視線を戻したまま口を開いた。
「そのままの意味です。彼はもう人間ではない。纏う魔力の質が不自然です……それに」
アリスは一瞬、瞳を伏せると、ノーヴェンの首筋を見つめる。
「喉を斬られて平然としていられる人間を、私は見たことがありません」
「えっ」
エスティアが驚愕の瞳でノーヴェンの喉を見つめた。真っ赤な籠手を着けた左手で覆われたそこからは、真っ赤な液体がどくどくと流れ、彼の胸元は血でぬらぬらと太陽光を反射しながら足元へと滴り、小さな血だまりを作り上げていた。
あんな血を流して、顔色一つ変えないなんて異常だ。エスティアは初めてエラーと出会った時のような寒気に囚われる。
ノーヴェンが小さく鼻でで笑い、喉元から手を退かす。すると、押さえられていた血液が吹きだす様に流れ、彼が立っている位置を真っ赤に染め上げた。首元はぱっくりと大口を開け、あの状態で話すなんて不可能にもかかわらず、彼の表情は何事もなかったかのように平然としていた。
「言っただろう。ノーヴェン・クレフトという愚かな人間を殺すと。俺はもう死んだ……だがまだ俺の仕事は終わっていない」
ノーヴェンの「死んだ」という言葉が体を撃ち抜き、骨まで響いてくるようだ。エスティアは魔剣をギュッと握り締めると、伏せていた瞳でノーヴェンの生気のない真っ赤な瞳を見つめた。
「仕事って……? まさか、シャールの人間を全て殺すことなんて言わないよね」
「聞くまでもないだろう。俺は人間を殺すと言った。聖都と帝国はすぐに終わったんだがな、ここの奴らは骨がある」
「クソ野郎が……ッ」
あっけらかんと言い放つノーヴェンにエスティアはそう吐き捨てた。アリスは無言でノーヴェンを睨みつけるが、その琥珀色の瞳は怒りで染め上げられ、彼女の怒りで瞳の色でも変わってしまいそうな勢いだ。背中越しにその怒りを感じ取ったエスティアは、一歩踏み出す。
真っ赤な瞳を睨む。もう体の血が流れきってしまったのか。彼の喉からは湧き水のような少量の血液がポタ、ポタ、と垂れている。ノーヴェンが静かに口を開く。
「こちらから、一つだけ。聞いてもいいか? お前たちはどうやって迷宮から抜け出したんだ?」
「なっ」
アリスとエスティアの口から同時に声が漏れた。いま、彼は何と言っただろうか。「どうやって迷宮から抜け出した」と確かに言った。
エスティアは噛みつくように言い返す。その黄金の瞳は困惑と怒りを孕む。
「どうして……どうしてお前がそれを知っているっ!」
そう、知るはずがない。あそこに迷い込んだ時、外と連絡する術などない。というよりも暇はなかったというべきか。加えて、あの迷宮を作り上げたのはカルミアだ。
エスティアは、ギリリと奥歯を噛みしめる。体から漏れだす様に黒い魔力がエスティアの周りを包み、濃密な血の臭いが漂う。カタカタと魔剣を握る手が震える。
嫌な予感がする。そんな漠然とした感覚が這い上がるような感じがした。
「どうしてか? そんなもの、聞いたからに決まっているだろう」
「誰に……誰に聞いた……」
「……お前が、探している奴だよ」
その言葉を聞いた瞬間、エスティアの脳裏に子どもたちの笑顔と、あの日の夜の惨劇がフラッシュバックする。温かい香りを塗りつぶす様に脳を揺さぶるほどの血と絶望のニオイと、怒りに囚われた自分自身の声が今、目の前で再生されるかのように。
アリスも察しているのだろう。その瞳を驚愕に揺らし、心配そうにエスティアを一瞥する。だが、そんなことなど……エスティアは気付かないだろう。彼女の黄金の瞳は――目の前の手がかりだけを映しているのだから。
「そうか……お前は……」
エスティアは無意識に笑みを浮かべていた。ずっと、探していた敵。名前しかわからず、居場所はおろか、影すら捕らえられなかったそれがいま、目の前でフリフリと尻尾を振っている。もう、理性を保つなんて無理だ。
見つけた、ミツケタ、やっと、ヤット。体の奥から熱が吹きだす。それは、闇をも喰らい尽くしてしまいそうなほどの燃え上がるような漆黒を纏い、何人もの血を啜ったことによる証拠を知らしめるように、“死のニオイ”を振りまく。燃え滾るような憎悪の炎は、底冷えするほどの冷たさを握り締めている。
「エストさん……」
アリスは思わず手を伸ばしかけた、その時だった。エスティアはアリスの方へと振り向く。その黄金の瞳は憎悪にまみれていた。だが、どこまでも悲しみに満ちているそれに思わず息を呑み、魅入ってしまう。これが、人間の瞳なのか、と。
エスティアは微笑んでいるつもりなのだろう。いまにも壊れてしまいそうなそれを見せると、そっとアリスの頭を撫でた。ゾクリ、とアリスの背中に悪寒のような物が走るが、すぐにそれを振り払う。
「私はアイツに聞くことがある。でも、きっと、私一人じゃきっとアイツを倒せない。だから――」
エスティアの魔剣を彼女の手越しに握ったアリスはそっと微笑む。
「やりましょう。私の剣は貴女が道を踏み外さぬ限り、貴女と共にあるのですから」
「アリス……ありがとう」
お互いに頷きあうと、エスティアは魔剣を、アリスは聖剣を構えた。光と闇が渦巻くように強烈な殺気がノーヴェンの肌をビリビリと貫いた。だが、もう人間ではない彼は感じ取っていないのか、軽く肩を竦め、手に持っていた何かを口の中へと放り込んだ。
その瞬間、ノーヴェンの体中からマグマのようなものが吹きだした。ドロドロとしたそれは、まるで火山を下るそれのように彼の体へと纏わりつき――一体化していく。
頭部から二本の角が生えてくる。横に伸びつつ湾曲したそれは天を貫かんと鋭い先端は、上を向き、真っ赤な鎧を包み込むように広がっていたマグマは冷えて黒曜石ような色合いとなっていた。
まるで黒曜石で出来た石像のような見た目となったノーヴェン。所々、ヒビの入った部分からはとめどなく、炎が吹きだしていた。
誰も姿は見たことなんてない。だが、見た者は必ずこう思うだろう――まるで、“悪魔”だと。
「っおおおおお、ぉおおおお」
まるで、洞窟から響いてくるような重低音は、腹の底まで響いてくるようだ。
真っ赤な瞳が二人を捉える。その燃え盛る瞳にはもう理性や、人間らしさというものは残っていない。ただ目の前の生き物をその炎で焼き尽くすことしか考えていないような。一瞬、エスティアは“あんな、バケモノに話が通じるのか”と考える。
だが、“とりあえず、斬れば何とかなるだろう”と、不安に思う自分を説得し、エスティアは隣に落ちていた真っ赤に輝く彼の剣を魔剣で叩き折った。
バキン、という音と共に真っ赤な大剣は呆気なく砕け散る。
「行くよ、アリス」
「はいっ」
『ヴァァァァァアアアアアアイッ!』
鼓膜を震わせ、心臓までも震わせる悪魔の怒号。一歩踏み出すたびに地面を砕きながら迫るその姿はまるで、小さな山がやって来るようだ。アリスとエスティアも迎え撃つように駆け出す。
黒と白の軌跡を描きながら、ノーヴェンへと斬りかかる。だが、同時に振るわれたその剣を頭部の角ではじくように防御されてしまう。
キィィィン。甲高い金属の悲鳴が響く。あらゆるものを切り裂く剣たちでも、鋭い刃のように研ぎ澄まされた角には傷一つつかない。二人は、ノーヴェンが振るった拳をサッと飛び退き、躱すと、もう一度、斬りかかる。
「砕けろぉぉぉおおおおッ!」
エスティアの漆黒の刃がノーヴェンの右角と激突。あまりにも硬い衝撃で手がしびれて思わず魔剣を取りこぼしそうになるが、強化された筋肉に全体重をかけ、そのまま地面へと叩きつけた。彼の顔面が硬い地面を砕き、クレーターを作り上げる。
「斬り裂けぇぇぇぇぇえええッ!」
飛び上がったアリスは地面へと顔をめり込ませ、まるで斬首を待つ罪びとの様に首筋が剥き出しになっているノーヴェンへと聖剣を振り下ろす。捻りが入り、全体重のかかった純白の刃はその強靭な黒曜石の鎧に守られた表皮を切り裂くと思われたが――
『ヴォオオオオオオオォォオオオンッ!』
ひび割れた鎧の間から吹きだすマグマ。アリスは咄嗟に魔法の盾を創り出しその炎を防ぐ。エスティアも咄嗟に魔力を纏い防ぐ。だがその隙に、ノーヴェンは右手でエスティアの頭部を掴み上げ、左手でアリスを守る盾ごと拳で叩く。
隕石でもぶつかったかのような衝撃に、アリスの体は呆気なく盾ごと吹っ飛ぶ。が、そこは歴戦の勇者である。盾を解除し、聖剣を地面へと突き刺しながら減速し着地すると同時に地面を踏み砕きノーヴェンへと迫ると、エスティアを掴む右手首に聖剣を横から突き刺す。
パキン!
手首の鎧は幸運にも首筋と比べて薄いようだ。スルリと聖剣が刃を沈める。加えて丁度、関節へと入ったおかげで、聖剣は右手首を貫通しエスティアは解放される。手首から先がなくなった腕から滝のようにマグマが吹きだす。
あれが直撃すれば、純白の鎧に守られていても一瞬で溶かされてしまうだろう。アリスはそのままエスティアの首根っこを掴み後退し、声をかけた。
「エストさん、大丈夫ですか」
「ありがとう。平気……頭が潰れるかと思ったけどね
エスティアは頭についていた右手を外し、投げ捨てると軽口をたたく。魔力量は十分。エスティアは両手で魔剣を握り締めるとあらん限りの魔力を放出する。
血生臭い魔力はグルグルと蛇のように渦巻き、エスティアを取り巻くとそのまま魔剣へと集約するように移動を開始する。アリスはそれで察したようで、背後にいくつもの光り輝く魔法の剣を翼のように展開させ、一気にノーヴェンへと放つ。
『ヴォォオオォオッ!?』
それがノーヴェンの体へと触れた瞬間、形状を剣から“鎖”へと変形させ、黒曜石の鎧で固められた四肢と胴体へと巻き付き、バランスの取れなくなったノーヴェンは硬い地面へと倒れ込み、ズシンという音が轟く。
「黒き、暗い、深淵よ、全てを喰らい尽くせ、殺し尽くせ――」
魔剣から黒い液体のように魔力が滴り落ち、煙となって再び魔剣の中へと戻り始める。
バキン。ノーヴェンを拘束していた鎖が吹きだしたマグマによって引きちぎれる。アリスは即座に駆け出すと聖剣で斬りかかる。だが、立ち上がりざまに振るわれた大木のような右腕に弾かれてしまう。
「恨み、悲しみ、憎しみを晴らすんだ。私が許そう――」
弾かれ仰け反ったアリスへとノーヴェンの左拳が迫る。アリスは背後に展開している無数の剣に“斬り裂け”と命令を出し降り注ぐ剣の雨の一粒が、左手首を先ほど聖剣がしたように切り落とす。溢れ出すマグマをアリスは横っ飛びで躱す。
「魔剣よ――」
高く掲げた魔剣から湯水のごとく魔力が溢れ出し、それはエスティアの体へと降りかかると蒸気のように立ち昇り魔剣へと集約され、その刀身を何倍にも膨れ上がらせる。
大量の魔力が一気に消費され眩暈が襲い、体の中身が全てグチャグチャにかき回されていくような痛みが駆け抜け、腕が震える。
だが、そんな痛みなど、子どもたちの苦しみに比べたらどうでもいいことだ。体の限界など要らない。
コロセ、コロセ、グチャグチャに引き裂いて、コロサナキャ。
「ぶち殺してやるッ!」
その声を合図に、射線の外に移動していたアリスは地面へと手をつき魔力を込め、無数の光の鎖で両腕からマグマをまき散らすノーヴェンの体をその場に拘束。どうにかして抜け出そうとノーヴェンはもがき、体からマグマを噴き出すが、先ほどと違いガッチリと固定されており、マグマが噴き出す部位を避ける様に張めぐされているために動けず、マグマは当たらない。
手の骨が砕けそうなくらい強く、神経が痛みを認識できなくなるまで強く魔剣を握り締める。
「血に染まれ――」
両腕の筋肉が千切れる音が鼓膜を揺らし、裂けた皮膚からタラリと血が流れるが、それはすぐさま漆黒の魔力が喰らう。
さぁ、コロセ、コロセ。
「血に染め上げろィィィィィッ!」
振り下ろされる魔剣。それは黒い斬撃となって大地を砕きながら、迫る。
射線上にいる命は全て吸い取るほどの邪悪を秘めたソレは、周囲に衝撃波として魔力を振りまき命を探す。少し離れていたアリスの元にもやって来るが、咄嗟に聖剣を地面へと突き刺しシールドを展開させたことにより防ぐ。
凄まじいほどの衝撃と爆発音が響き渡る。
斬撃が通った大地はボロボロに崩れ去り深い溝が刻まれ、直撃したノーヴェンの右側の体全てが喰らい尽くされ、その切り口からはドロドロと真っ赤なマグマが漏れ出ていた。
だがやはり彼はバケモノだ。体が半分となってもその生命が尽きることは無かった。彼の体からは、ダク、ダク、と人がケガをして血を流す様にマグマが垂れ流され、カラカラの地面を焼き尽くしている。
「……っ」
両腕が血で真っ赤に染まったエスティアは魔剣を投げ捨てると、おぼつかない足取りで地面へと倒れているノーヴェンの頭部に生えた左角を掴み上げる。
「スライは……スライはどこに居るッ! 答えろッ!」
憎悪に塗りつぶされた黄金の瞳が、宝石のように爛々と輝く真っ赤な瞳を睨みつける。その眼光は、今にでもその目玉を喰らってやらんという殺気に満ちている。
『ヴォオォオッ』
だが、もう人としての機能を失ってしまった彼の口からは言葉は出てこない。ただ、全ての人間を殺したいという願いだけがマグマと一緒に流れるだけだった。
エスティアは怒りに満ちた表情で顔を近づけ、至近距離からノーヴェンの瞳を見つめる。彼の体から出る熱によって角を握る手や近づいた皮膚が焼けるように熱いが、エスティアは気にすることなく探るように瞳を見続ける。
「答えろ! 言葉が喋れないから教えられないなんて許さない。言葉は通じてるんだろっ! なら、なんでもいい……アイツがいる方向を指さすだけでもいいの……っ」
獰猛な表情から一変して、今に泣きそうな縋るような表情でエスティアはそう言って左手で握る角をギュッと握る。ジュウ、と肉が焼ける音がする。
「お願い……やっと見つけた手がかりなの……奪われた側のアンタなら……わかるでしょ……」
ポタリと、一粒の涙が黒曜石の肌に落ち、流れ落ちる。その時、ノーヴェンの真っ赤な瞳が僅かに揺れ動く。
「――エストさんっ!」
鬼気迫るようなアリスの声が響く。悲鳴のようなそれが聞こえたその時、エスティアの腹部に、焼けるような熱を持ったナニカが食い込む。
「な……ん、で……っ」
そんな疑問を問う。触れた傍から焼き尽くすような熱を孕んだそれは治りかけていた内臓を焼き、その向こう側にある背骨を砕きながら背中の皮膚を突き破り貫通する。
血は出なかった。ただ酷い痛みが洪水のように押し寄せ、エスティアの意識を暗闇へと連れ去ろうとする。ダメだ。今意識を失うわけにはいかない。よろめきながら体を引くと、貫通していたそれはあっさりと抜けたようで、視線を落とせばそこには巨大な針のような形をした黒曜石が落ちていた。
「ノーヴェン……」
忌々し気に呼ぶが、その声はあまりにも小さく自分の荒い呼吸音によってかき消されてしまう。
目の前のノーヴェンがゆっくりと立ち上がる。体が半分無かったはずなのに、その体は再生され、その大きさを何倍にも膨れ上がらせていた。右側だけ異常に発達したそれはその場で膝を付いているエスティアを見下ろしていた。
『ヴォオオン』
まるで巨大なハンマーのような右こぶしをノーヴェンは振り上げる。
「くっそ……」
背後で足音がする。
『ヴォオオオオオオォォオオオッ!』
拳が振り下ろされるその時、眩い光が辺りを包み込んだ。
更新が遅れて申し訳ありませんでした。
次回の更新は2019年3月5日(火)を予定しております。今週はあまり更新ができず申し訳ありません。
これからも、頑張って行こうと思いますので応援よろしくお願いいたします。




