61 旅を終えた彼女たちを待つ世界
光に包まれ、視界が一瞬にして奪われる。
「シュティレッ!」
エスティアは咄嗟にシュティレの手を握った――というとこまでは覚えている。そこからはどうしたんだろうか。思い出そうとするが、断念した。なぜなら、エスティアはまるで温かい毛布にでも包まれているような穏やかな感覚が心地よかったからだ。
ここから出たくないな。
不意にそう考えたエスティアは小さく息を吸った。花のような甘い香りがする。だが、大好きな彼女の匂いではないとすぐに理解できたエスティアは不思議に思う。
「あれ? そういえば私はなにをしようとしていたんだっけ」
すごく大事なことだった気がする。だが、全く思い出せない。
思い出せるかな、という思いを込めてそう声に出したつもりだが、彼女の耳はまるで水中にいるかのようにくぐもっていて聞こえなかった。いや、もしかしたら言葉を発することすらできていないのかもしれない。そう考えた瞬間、急な不安感に襲われた。
――エスト。そう誰かが呼んだ。
聞き覚えのある声だ。そう、どこかで聞いたことのある、闇を切り裂くようなまっすぐで凛とした声に、「誰?」とエスティアは返した。だが、「エスト」と、もう一度、呼ばれただけで明確な返答はなかった。その声はまるで、女神様なのではと思ってしまうほど優しい。
もう少しここに居たい。願ってみる。もっと、この温かさを味わっていたいと願った。だが、この世界は彼女を追い出すことを決定したようだ。
――やるべきことがあるだろう。深く淀んだ声が聞こえた瞬間、彼女の体が鎖でからめとられ、引きずられていく。引きずられる先にはここよりも暗く、鬱々をした雰囲気がある。だが、その奥からチラリと綺麗な宝石のような物も見えた。
あぁ、そうか。そこで彼女は理解する。ここはまだ来るべき場所ではないということを。
うっすら、目を開けると、視界に入ったのは美しい女性の微笑みだった。奥に天井が見えるということは女性は覗き込んでいるということだろう。が、一気にまどろみから覚醒したエスティアは跳ね上がるように体を起こすと、その場から飛び退いた。
トン、と。柔らかい踏み心地のよい絨毯に足を取られそうになりながらも、エスティアは腰にある魔剣を引き抜こうとして――その手を止めた。
「私の剣をどこにやった……?」
そこには魔剣が無かったからだ。エスティアは宝剣もないことに気が付くと、鋭い視線で目の前の女性を睨みつけた。だが、女性はそんな鋭い眼光など気にならないと言いたげに小さくため息をつく。
煌めく長い銀髪は、窓から差し込む夕日を吸い込み自身の光として放つそれは、まるで夕日に照らされた雪のような冷たいようで温かい雰囲気だ。だが、それは引き立て役に過ぎない。
まるで絵画の住人がそのまま現世へとやって来たと錯覚してしまうほどの美しい容姿を彼女は持っていた。それは、背後にある風景が彼女の為にあるとでも言いたげだ。
「……ん?」
エスティアが首を傾げる。目にする機会など一回きりだと思ってしまうほどの女性に――見覚えがあった。だが、すぐにその考えを斬り捨てる。記憶にある彼女は目の前の女性よりも、もう少し幼かった記憶があるからだ。
不思議な感覚に囚われていると、目の前の女性は若干、表情を赤らめながらコホンと咳ばらいをした。エスティアは急いで意識を戻すと、その表情を険しくさせる。が、先ほどのような射殺す程の迫力は影を潜めていた。
「魔剣と宝剣はこちらにあります」
パチン、と指を鳴らすと、フワリと降り立つように二本の剣がエスティアの目の前へと姿を現す。エスティアはその剣を受け取ると、自分の腰へと納める。
カチャン、と重くなる腰にエスティアはどこかホッとしている自分に気付き、胸の内で吹きだす。そして、女性を見つめる。やはり、見れば見るほど、似ている。どこまでも深く澄んだ藍色の瞳なんて……というとこまで考えた彼女は一つの決断に至った。
「まさか……」
あんなに美しい藍色の瞳を持った人間などそうはいない。女性が薄く笑みを浮かべる。
「よかった、思い出してくれたのね。久しぶりね――エスト」
先ほどまでのお淑やかさをかき消す程の笑み。まるで野心に満ち満ちた獰猛なそれは気高き獣のような品の良さを兼ね備えている。そこで、確信する。
「ア、アリアナ……!?」
藍色の瞳と呼ばれる魔眼の持ち主であり、シャール王国の王女――アリアナ・ホープス。
エスティアは顎が外れんばかりに口を開いたまま固まってしまう。
最後にあったのはつい何ヶ月か前だったはず……だが、目の前のアリアナは記憶よりも何歳か年を取っているように見える。
いったいどういうことなんだ。エスティアは頭がこんがらがってしまいそうだった。
「ふふふ、そんなに一人で考えなくても、聞いてくれれば教えてあげるわよ」
口元に手を当てながらクスクスと笑うアリアナ。彼女は、部屋の中央にあったテーブルの椅子へと腰を下ろすと、エスティアに“座れ”という視線を送り座らせる。そして、テーブルに置かれていたクッキーの入った瓶を開けると、そのままエスティアへと手渡す。
「あ、ありがとう」
「どういたしまして」
サクッと一口齧るエスティア。お腹がすいていたようで、そのままサク、サク、とクッキーを食べきる。が、少し物足りないのか、もう一枚食べたいなと考える。でも、そんなこと言いだせるはずもなくモヤモヤしていると。
「どうぞ」
「え……?」
差し出されたクッキーが入った瓶。苦笑を浮かべるアリアナと瓶を交互に見やったエスティアは“あぁ、そういば、彼女に全部視えているんだった”、と思い出す。そして、さっきの考えも全部視られていたとわかると、エスティアは羞恥心で顔を真っ赤に染めながら「ありがとう」というと、クッキーを口に放り込んだ。
やはり、お腹がすいていたようだ。たくさん入っていたクッキーを瞬く間に食べ終えたエスティアは、若干、物足りない気がしつつも、流石に失礼だと思い、口元を雑に拭うと姿勢を正す。
アリアナはスっと緩めていた表情を真剣な物へと戻すと、テーブルの上で両手を組んだ。エスティアに緊張が走る。
「では、本題に入りましょう。貴女は、奴隷商人でブルーランクの有志勇者であるエスティア・リバーモル様で間違いありませんか?」
「えっと、はい。間違いありません。ですが、どうしてそんなことを?」
どうしてそんなわかり切ったことを聞くのか。エスティアが問うと、アリアナの瞳が一瞬煌めく。
「エスト様、おかしなことをお聞きしますが……貴女は五年間どこにいらっしゃたのですか?」
「……はい?」
エスティアが怪訝な表情を浮かべる。すると、アリアナも怪訝な表情浮かべていた。
「えっと、五年間ってどういう意味ですか? アリアナ姫と別れてからそんなに経ってないと思うのですが……」
エスティアの言葉にアリアナは顎に手を当てて瞳を閉じる。エスティアも瞳を閉じる。どう考えてもシャールを出てから五年もたっているというのは無理があり過ぎる。半年とかなら、ずっと戦い続けていたから日にち感覚がずれてしまという理由で説明がつくだろう。
「ふむ……そちらとこちらで、ズレがあるようですね」
瞳を閉じたままアリアナがそう言うと、エスティアは片目を開けて彼女を見つめる。どんな顔をしていても美しく絵になっており、ずっと見ていたくなる。
だが、そんなずっと呑気な気持ちのままでいるわけにはいかない。テーブルに両手を置いたエスティアは彼女を半ば睨むように見つめたまま口を開く。
「……ねぇ、シュティレはどこにいるの?」
もし、ここには居ないと言われたら、色々と謎は残るがとっとと探しに行くつもりだ。そう彼女に言う意味も込めて、強い思いを脳に浮かび上がらせると、アリアナは瞳を開く。
「安心してください。隣の部屋で眠っています。他の方々も同様です」
「そう……」
嘘はないだろう。エスティアは納得はいかないが、“ここから出るな”という雰囲気が彼女から出ていることに気付いているので、大人しく背もたれへと寄りかかる。
再び訪れる無言の時間。アリアナは色々と考えているようだが、気まずいことこの上ない。それに、謎ばっかりが頭に浮かんでいるせいで、座っているのも辛くなってきた。
「エスト様。まだ色々と混乱しているようですが、おそらく貴女は最果ての迷宮に迷い込んでいたのでは?」
「最果ての迷宮……?」
最果ての迷宮とは、あるかもわからないおとぎ話の部類だ。アリアナは冗談めかしてそう言って鼻で笑う。だが、エスティアの表情は真剣そのものだった。
「その、最果ての迷宮ってのはわからないけど……迷宮には行ったかも……っ」
そこまで言ったエスティアは突然痛みを訴える頭を両手で抱えた。そのままブルブルと大きく肩を震わせながらブツブツと呟く。
「そうだ……私は、迷宮に落ちて……戦って……あ……」
脳裏に浮かぶ少女の笑顔。
「あぁ……私は……っ」
「エストッ!」
突然の変貌にアリアナが心配した様子で立ち上がると、彼女の肩へと手を置く。その体は異様なほど冷たかった。思わずアリアナは息を呑む。
「そうだ……殺した……あの子を……この手で……」
両手が震える。エスティアは落ち着くように深呼吸しながら魔剣の柄を強く握りしめる。その時、ピリッと掌が痛んだ。すると、真っ黒な魔力が彼女の手を包み込む。
何回か深呼吸をしたエスティアは冷静を取り戻したようだ、肩に置かれたアリアナの手を退かすと、顔を上げ、笑みを浮かべた。だが、その表情は今にでも死んでしまいそうなほどに弱々しい。
「ごめん、急に」
「いえ、平気よ。でも、大丈夫?」
アリアナの問いかけにエスティアは「平気だよ」と返す。釈然とはしないが、話を進めてという彼女の思いを視たために、それ以上のことは言えず、アリアナは椅子へと戻る。
まだ心配しているアリアナの表情を見たエスティアはガリガリと頭を掻くと、気まずそうに瞳を伏せた。
「あ、えっと……その、最果ての迷宮ってなに? 私、あんまりおとぎ話って知らなくてさ」
そう言ってはにかむ。確かに昔話は何度か聞かせてもらったことがあるが、時計いじりに興味があったために記憶が薄い。だから、あの時の人魚伝説も知らなかったのだ。
その考えも視られているだろう。エスティアが鼻で笑うと、アリアナは微妙な表情をしながら答える。
「あんまり有名な話じゃないんだけどね。最果ての迷宮に迷い込んだ主人公が、いろんなトラップとかを潜り抜けて無事に脱出するんだけど、外に出たら、そこは何百年も経っていたっていう短いお話しよ」
そう言ったアリアナの表情は懐かしむように目を細める。
「ふーん。その話し、好きなんだ」
「……そうね、迷い込んでみたいって思ってた。ティアと一緒に迷い込めば、抜け出した時に私たちを知ってる人っていないわけじゃない。そしたら自由に暮らせるのにって思ったことはあるわ」
クスリと笑うアリアナ。エスティアは空になった瓶の縁を指で軽くなぞる。
「ねぇ、魔王退治の契約ってまだ有効?」
コォン、とエスティアは瓶を指ではじく。
「まだ有効よ。でも、今はそれどころじゃないの」
「どういうこと?」
エスティアが首を傾げる。彼女の野望の為に魔王討伐は不可欠の目的のはずにもかかわらず、彼女は「それどころではない」といった。すると、アリアナは静かに椅子から立ちあがり、窓の外を眺めた。
「見てもらった方が早いわ」
くいっと顎をしゃくって、外を見るように促す。エスティアは怪訝な表情を浮かべつつ、窓の外を眺めて――言葉を失った。
ここらだと王都の外がよく見える。だが、緑色の生命力にあふれていた草原は枯れ果て、ひび割れた大地が顔を覗かせ、黒焦げの人型模様がある。直感的にあれは死体だと理解してしまったエスティアは表情を歪める。
加えて、王都の付近にある小さな村々からはいくつもの煙が上がり、所々、炎のようなものが立ち上っていた。
その光景はまさに、地獄であった。たった五年でここまで世界は変わってしまったのか。迷宮でカルミアに言われた言葉を思い出す。
――二人が知っている人は、世界は……いないかもしれないんだよ?
「あぁ、そうか……カルミアはこれを言っていたんだね」
そんな小さな呟きにアリアナは瞳を伏せた。




