60 優美な女性
「エスト!」
アリスに支えられ、膝立ちのエスティアへと駆け寄ったシュティレは虚ろな瞳で微笑む彼女を抱きしめた。と、同時に魔力を流し、治療を開始する。右腕と左腕が見えない糸で引かれるようにエスティアの元へと帰って来る。
アリスは静かに距離を取ると、遠くで座る巨人の横に腰を下ろしている少女を見据える。
「エスト、エスト……ッ!」
「シュティレ……」
痛みで顔を歪めるエスティア。無理もない。普段は魔剣が彼女の痛覚を鈍くしてくれているおかげで痛みを伴う治療も平気だった。だが、今の彼女は魔力がほとんどない。魔剣の恩恵が受けられないほどに。
傷口が蠢くたびに小さく声を漏らし、耐えるようにシュティレの首筋へと顔を埋める。が、それでも意識が飛んでしまいそうだった。シュティレの表情が歪む。そして、そっと周りの目線を確認する。少女は当然の如く、治療を待っているようで目を閉じてうたた寝をしている。他の二人はそんな彼女を警戒しているようで、目線はそちらへと向いている。
これなら平気だ。シュティレはエスティアの顎に手を添え、上へと向かせる。そして、彼女の耳へと口を寄せ。
「エスト、声出しちゃダメだからね」
「え? なにを言って――ッ!?」
唇を奪う。突然の出来事にエスティアは痛みも忘れ、目をパチクリさせた。
シュティレは鼻を突き刺す程の血の臭いにどうしようもなく心が痛んだが、手早く終わらせなければと言い聞かせ、うっすらと開いている彼女の口内に魔力を流し込む。
ビクリとエスティアの体が震える。次の瞬間には、真っ赤に染まった顔で瞳を潤ませる。その表情に思わずシュティレの背筋がゾクリと震える。もっと、続けたいという欲求が襲い来る。が、それを振り払うと、そっと唇を離す。その際にエスティアは名残惜しむように治った右手で彼女の裾を掴んだ。
「もう、痛いとこない?」
「え……?」
そう言われたエスティアはカッと自分の顔に先ほどと違う熱が集まるのを感じた。そして、思い出す。そういえば、ここは“外”であったと。上り始めた羞恥心のせいで、エスティアはこのまま小さくなって穴にでも隠れたい気分だった。
だが、言わなければいけないことがある。エスティアは窺うように顔を上げると、笑みを浮かべた。
「シュティレ、ありがとう」
「どういたしまして」
シュティレはそう答えると、彼女の耳に口を寄せ、ポツリと一言、「続きはまたあとでね」と落とした。
「なっ」
エスティアが驚きの声を上げた。が、その瞬間に他の全員もコチラを向いたことにより、彼女は喉から出かかっていた言葉を急いで飲み込み、小さく咳ばらいをした。視界の端で、少女が立ち上がったのが見える。
「魔術ってすごいのね。まるで、お人形みたい」
エスティアのすっかり治った両手を見た彼女はそう言って鼻で笑う。が、その細められた瞳から安堵の色を容易に感じ取ったエスティアは表情を緩めたまま立ちあがる。そして、いつの間に腰に収まっている宝剣の柄を撫でた。
「で、やる? 私の体はばっちりだから、いつでもできるよ」
そう言ったエスティア。だが、正直言って戦える気はしなかった。治して貰ったとはいえ、流れ出た血液が全て戻ったわけではないし、魔力だって斬撃一回飛ばせるかどうかの状態だ。視点だって微妙に定まっていないのか、若干揺れているような感もある。
シュティレがグッと口をつぐむ。本当は止めたいのだ。だが、それはできない。アリスたちは無言で二人を見ている。が、いつでも動けるように手には武器を持っている。
エスティアを見つめたままの少女は何も言わない。不思議に思ったエスティアが首を傾げる。敵意を全く感じない、加えて背後の巨人も眠ったように動かない。その姿はまるで銅像のようだ。
どうしたもんかと思っていると、少女がエスティアへと近づく。アリスたちが臨戦態勢をとる。が、少女はそれを一瞥すると、気にせず彼女へと掌を差し出した。
「……ん?」
首を傾げた彼女は、少女の掌を注視する。小さな掌の上には――薄赤色の拳大の石が乗せられていた。
「もう、戦うの疲れちゃった。だからエスト――私を殺して?」
少女の一言にエスティアは動きを止め、その瞳を限界まで見開く。今、彼女は“殺してくれ”と言ったのか。そして、目の前に差し出された石。聞かなくてもわかる。あれは彼女の魔力核だ。ほんのりと熱を持つそれはどこまでも温かく優しい光を放っている。
「自分で壊すとね、怪物になっちゃうの……そんなのはイヤ。だから、お願い」
「……っ」
押し付けるように渡された石を受け取ったエスティアは、無言でその石を見つめる。その黄金の瞳はどこまでも深く、深く、暗かった。シュティレも思わず表情が硬くなる。
「本当にいいんだね?」
暫く石を見つめていたエスティアは少女の肩に手を置きながら、そう静かに言った。その言葉にアリスとエリザの表情が一瞬だけ険しくなる。だが、すぐに瞳を伏せる。そんな彼女たちの握り締められた拳は小さく震えていた。
「うんっ。私、エストとシュティレおねーちゃんのこと、大好きだから……だから、死ぬなら……二人の前で……っ」
少女の瞳からポタリ、と滴が落ちた。それは、一粒落ち始めると、止まることができなくってしまい、まるでスコールのようにその雨量はどんどん増していき、エスティアのしゃがんだ太ももへと落下。そのまま吸い込まれるようにズボンの色を変えた。
エスティアはそんな少女を抱き寄せる。そして、そのまま何も言わずに強く、強く彼女を抱きしめた。エスティアの首元に顔を埋める形となった少女の口から嗚咽が漏れる。
「こ、んなっ。偽物の言葉なんて……信じ、られないかもしれないけど……っ。私、知ってるよ……二人がどれだけ、あの子を大事にして、愛していたか……ひっく……っ」
少女はそう言って顔を上げた。その顔は涙でグチャグチャになっている。ポロポロ、と涙は降り続けており、止む気配はない。少女は無理やり作ったような笑みで、自分の瞳へと手を当てた。
「全部、この瞳が教えてくれた。でも、エストがこんなに泣き虫だったのは知らなかったみたいだね、ここはあの子に勝てたかなっ」
「……っ!」
歯を食いしばるエスティアから流れ落ちそうになっている滴を優しく掬った少女は優しく微笑む。その表情は、やっぱり、記憶にある彼女とはほんの少し違っていた。涙で視界がぼやけ、彼女の表情をうまく見れない。
エスティアはグッと息を呑むと、少女からそっと体を離す。その表情は――少女の記憶では見たことの無いほどの優しい笑みを浮かべていた。
「大好きだよ」
「え……?」
突然の一言に、少女が首を傾げる。エスティアは気にする様子は見せずに、少女の頬へと手を添えると、そのまま言葉を続ける。
「たとえ、君が自分のことを偽物だと呼んでも、私は貴女という存在が大好きだよ」
曇りの無い黄金の瞳が煌めき、まるで太陽のような笑顔をエスティアは見せる。そして、呆気にとられ、固まってしまう少女の頭を軽く撫でる。その触り方はまるで宝物に触るように優しい。
「だから、君が死にたいというのなら、苦しいけど叶える。心の底から望んでるってわかるから」
「エスト……ありがとう」
そう少女が言うと、エスティアは「うん」と答え、笑みを作る。が、その笑顔は心情を現す様に淡く儚い影が落ちていた。
悔しい。胸の内でそう呟く。こんなことでしか彼女の願いを叶える方法がないという現実と、それしかできない無力な自分自身にどうしようもないほどの嫌悪感と悔しさに囚われる。少女はそんな彼女へと手を伸ばし、ほっぺをつねる。
「もう、そんな顔しないでよ」
「でも……っ」
少女が小さく笑う。
「ねぇ、エスト、こんな私なんだけど、あと、二つ――お願いがあるの。叶えてくれる?」
子首を傾げる少女。そんな彼女にエスティアはぶん、ぶん、と強く首を縦に振る。
「叶える! なんだって叶えてあげる! 何個だって聞くよ!」
「ぷっ、そんなに全力で返事されても、二つしか思い浮かばないよ」
苦笑を浮かべる少女。エスティアは嬉しそうなそれでいて深い悲しみに囚われてしまったかのような複雑な苦笑いで返す。
「一個目はね……全ての偽物を殺してほしいの」
「え……なにい――」
少女は口を開きかけているエスティアの口を人差し指で遮ると、言葉を続けた。
「私たちは望まれない子。普通とは違ってズルをして生まれてきた子。そんな私たちは生きているだけで辛いの……だって、私たちという存在はその人を真似するだけ、自由なんて無いもん。そんなのやだよ……だから、そんな悲しい存在は私たちで終わりにしたい」
「望まれないことなんて……っ」
エスティアの悲痛に満ちた声が漏れる。確かに、目の前の彼女は本物の皮を被った偽物かもしれない。自分の命を狙ってきた敵かもしれない。それでも、エスティアは彼女という存在と会えたことに対しては良かったと思えていた。
「エスト、貴女があの子ではなく、私を見てくれているのはわかってる。だからこそ、だからこそ、私たちは死ななきゃ」
少女とは思えないほどの儚い笑顔。
「今度は……ちゃんとした手順で、望まれて、一つの命として、生きたいから」
スーッと通り抜けるように紡がれた言葉はエスティアの体へと染み込み、その奥底深くにある心臓のまた奥を撫ぜるように溶け込む。手に持っている石が先ほどよりも温かく、光を強める。それは、彼女の願いを伝えるように。
エスティアはかける言葉も見つからず、口を結ぶ。少女はクスリと口角を上げる。
「じゃあ、二つ目ね……私――名前が欲しいの」
「な、名前……?」
「そっ、名前」
ニヒッとした表情の少女はエリザを一瞥すると、エスティアとシュティレを見渡すと、そのまま言葉を続けた。
「だって、この名前はあの子のものだから。生まれてからずっとこれで呼ばれていたけど、本当は嫌だった……だって、それって、私という存在を見てないってことでしょ? それが嫌だった……だから、これが二つ目のお願い。叶えてくれるよね?」
言葉尻が震えていた。エスティアとシュティレは顔を見合わせる。
叶えたい気持ちはやまやまだが、突然のことだ……思いつかない。おそらく、よほど変な名前でなければ、彼女が喜んでくれるのは考えるまでもなくわかる。が、エスティアはこれでもかと首をひねり、考える。
すると、エスティアの隣に立っていたシュティレがおもむろにしゃがむ。そして、首を傾げるエスティアの頭を正常の位置へと直すと、口を開く。
「カルミア」
エスティアが振り向く。シュティレは噛みしめるようにもう一度、その言葉を言う。少女の瞳が見開かれる。
「カルミア。この名前、どうかな?」
「カル……ミア……」
噛みしめるようにそう呟いた少女は何度か、その言葉を紡ぐ。その様子はまるで――自分の魂へとその名を刻みつけるかの如くだ。
エスティアはシュティレを見つめる。カルミアといえば、赤やピンク、白などの色の可愛らしい花で、故郷の森でも生えていたような……花には興味がなかったのでおぼろげだが覚えがエスティアにはあった。花言葉も昔、セメイアに教えてもらったような気がするが……思い出すことはできなかった。
彼女は花言葉を知っているのだろうか。すると、シュティレはその表情から読み取ったのか、意味ありげな笑みを浮かべる。その表情に思わず、ドキリとする。
「エストの願いだよ」
「……ん?」
「ふふ、変な意味じゃないから安心して」
いまいちわからなかったが、少女へと声をかけられたエスティアとシュティレは視線を戻す。
「私、この名前気に入ったよ。ありがとうシュティレおねーちゃんっ」
カルミアという名を貰った彼女は心の底からの喜びが溢れ出したような可憐な笑顔となる。シュティレはそんな彼女の頭を撫でる。その表情はどこまでも優しい。
シュティレが「カルミア」と呼ぶ。すると、呼ばれた彼女は嬉しそうに返事を返す。その様子は少し幼く見える。が、すぐにその表情を真剣な物へと変えると、一歩下がり、二人を見つめた。
どうやら、時間が来たようだ。エスティアとシュティレの表情が一瞬だけ強張る。だが、すぐにその表情を振り落とす様に笑顔を浮かべた。
そんな二人の表情にカルミアは安心したような安堵の表情を見せた。
「さて、これで、私のお願いは言ったし……エスト、お願い」
「……うん」
立ち上がったエスティアはずっと持っていた石を軽く握る。先ほどよりも熱を帯びたソレは火傷してしまいそうなほどの熱を放つ。これを握りつぶせば、終わる。エスティアはグッとその手に力を入れようとして――やめる。
そして、覚悟を決めたように瞳を瞑るカルミアを力強く抱きしめた。
「カルミア……ッ! カルミア……」
黄金の瞳から大粒の雨が零れ落ちる。それはまるで、晴れ雨のように爽やかで、けれどシト、シト、と振り続けるようなそれはまるで、最後の別れを言っているようだ。
離れたくない。ずっとこのままでいられたら。そんな願いを思ってしまう。だが、ダメだと言う。この子の望みを叶えてやれと叫ぶ誰かがいる。エスティアは彼女を抱きしめながら――握っていた拳に力を込めた。
「カルミア……大好きだよ。君のことは絶対に忘れない」
パリン、と薄氷を砕くように呆気なく、その手で粉々になった石の中に貯蔵されていた魔力がエスティアの手のひらからぽたりと、落ちた。それは全てを焼き尽くす程の熱量を持っているらしく、石敷きの床の表面から煙が立ち上る。
当然、それを握り締める彼女の手もその魔力によって皮膚が焼かれていた。骨まで焼き尽くしてしまいそうなほどの熱が痛みを訴える。だが、エスティアはそれを気にすることができるほどの余裕は無かった。彼女に全て伝えなければ、たとえ、別人だとしても、そこにいる瞳に言わなければならない。
「ありがとう……ごめんなさい……貴女を幸せにできなくてごめんなさい。幸せにするって約束したのに……っ」
「エスト……」
まるで、懺悔するようにカルミアの瞳をまっすぐに見つめながらエスティアは涙交じりの声でそう言った。抱きしめている彼女の体が崩れるような感覚がした。ぼろぼろの乾いた土にでも触っているようなあの感覚。
早く、伝えろ。自分の思いを全部伝えろ。そう思っていても、エスティアの口からは「ごめんなさい」という言葉しか出てこない。
「エスト」
カルミアがボロボロに崩れかけている両手で、泣きはらした表情でいるエスティアの顔を包む。そして、光の消えかかっている両目で黄金の瞳を射抜き――
「幸せだったよ」
落ち着いた口調でそう言った彼女は微笑む。エスティアとシュティレの瞳が大きく見開かれる。
「私たちを家族と呼んでくれてありがとう。人間として扱ってくれてありがとう」
ボロボロと崩れ始める彼女の両手。エスティアは咄嗟に手を伸ばすが、彼女はそれを拒否するように小さく首を振る。
「シュティレおねーちゃん、エストのことよろしくね。エストも、あんまりシュティレおねーちゃんに心配かけちゃダメだよ」
小さく笑う。その表情は二人の記憶に絡みついたあの、大好きな、笑顔だった。
「またね」
どこからか温かい風が吹いた。それはまるで炎を取り巻くような穏やかな温度だ。その風は撫ぜるように吹き付け――彼女を連れ去ると、そのまま迷宮の奥へと連れされるように去っていく。
「レイ……ありがとう……っ」
もう手から消えかけている温もりを握り締めるように、自分の額へとその拳を軽く当てたエスティアはそう言った。その表情はどこまでも優しく、シュティレはそんな彼女の手をそっと握った。
最後のあの言葉がどちらだったのかはわからない。もしかしたら、瞳に残っていた彼女の思いかもしれないし、気を利かせた彼女の言葉かもしれない。だが、エスティアはどちらでもよかった。
暫く迷宮の奥を見つめていると、突然、地面が突き上げるように大きく揺れ始めた。
「うわっ、な、なに!?」
完全に油断していたエスティアは転びそうになるが、咄嗟にシュティレが腕を引っ張ってくれたおかげで、転ぶことは無かった。だが、揺れはドン、ドン、と音を立てながら増し、もう見る影もなくなっていた石敷きの床に無数の亀裂が入る。
主が居なくなったことにより、迷宮の存在が無に返ろうとしているのだ。アリスたちはエスティアたちへと駆け寄ると、どうにかして、脱出路を探す。だが、まるでじわじわと夜が侵食するように彼女たちを闇が取り囲む。
「どうすんのよこれ」
疲れ切った表情でエリザがそう言う。もう、全員の魔力はほとんど残っていない。だが、魔力が残っていたところで、この状況を打開できる術を彼女たちは持っていない。
闇がもうすぐそこまで迫ってきている。エスティアはシュティレを守るように前へと出るが、背後から迫ってきているので意味はないだろう。どうすると、頭をフル回転させたその時――奥の巨人がコチラを見ているのに気が付く。
「アステリオン……?」
エスティアがその名前を呟いたその時――
「うわっ、まぶしっ」
――辺りが光に包まれた。




