56 番人と女王
土曜日に更新できず、投稿時間がいつもより遅くなって申し訳ありません。
少女を抱きしめたエスティアが小さく「レイ……ッ」と、呟く。
「レイ……ッ。レイ……ッ!」
「ちょっ、エスト、苦しいよ」
嬉しそうな表情の少女。シュティレは困惑を浮かべながらも、そっと少女の手を握る。温かく小さな手はあの時と全く遜色ない。“どうして?”という疑問よりも早く、言いようのない喜びに浸されたシュティレは少女を抱きしめていた。
エスティアとシュティレに挟まれる形となった少女は流石に苦し気に呻いた。が、二人のぬくもりに身を埋める。
「レイ……」
暫く抱きしめていたエスティアが不意に顔を上げた。その表情は喜びから一変――深海のような暗い寂しさと悲しみを浮かべていた。少女の表情が抜け落ちる。そして、そのまま二人から距離を取ると、巨人の肩へと登った。
アリスたちは今だ、といわんばかりにエスティアたちのほうへと駆け寄ろうとしたその瞬間、少女の鋭い一瞥がエリザたちを貫いた。その鋭さは先ほどまでの少女は別人ではと思ってしまうほどの変わりようだった。
「邪魔しないで」
少女がそう言った瞬間――天井からナニカが落下する。まるで土嚢でも落ちてきたかのような音共に落ちてきたそれに、アリスたちは見覚えがあった。
鋭い三本のカギ爪を引きずりながら歩くそれは、石敷きの床を斬り裂き。生命を感じさせないまでに青白い肌は氷のような冷たさを放ち。うつ向いたそれは声にならない吐息をブツブツと漏らしていた。
『ゥアィ……ワ……ェンダ』
全員の視線が凍る。ソイツはゆっくりと、着実に、アリスたちの元へと近づく。
「まさか……アイツ……ッ」
「エリザさんっ! 下がっていてくださいっ」
即座に聖剣を構えたアリスが一歩踏み出す。琥珀色の瞳は彼の体から流れる魔力の流れを捉える。黒ずみ濁った魔力はユラユラと煙のように揺らめき、彼のだらんと下がった両手の先にある、命を斬り裂く機会をうかがっている凶器へと集約している。
アリスの勇者としての経験則がけたたましく警報を鳴らす。アレはマズイ。下手に受け止めれば、容易く鎧ごと真っ二つにされるという確信めいたものを感じる。その間にも、彼はカギ爪へと魔力を流し込む。これが、普通の人間であれば、予備動作も見せないそれに容易く屠られていただろう。
「……行くしかないっ」
息を吐き出したアリスは――地面を蹴る。まるでワープでもしたかのように、ソイツの目の前まで迫った彼女は聖剣を突き上げるように振り上げた。
狙うは、がら空きになっている首筋。大抵の生き物、人間であれ、魔物であれ、司令塔である頭と胴体が離れれば生命を維持することは困難だろう。
「斬り裂けぇぇぇえええっ!」
聖剣が光輝く。
「レイッ! あれは……っ」
アリスが聖剣を男性に振りかざすのを見ていたエスティアはすかさず助けに向かおうと魔剣構えたその瞬間、彼女の体は少女の巨人によって組み伏せられていた。それと同時に隣に立っていたシュティレも巨人の手によって組み伏せられる。
エスティアは悲しみをその瞳に浮かべながら抜け出そうともがくが、巨人の手はまるで岩のようにビクともしない。
「レイッ! シュティレを離して!」
「私はいいから、エストを離して!」
同時にそう叫んだ二人に、少女は懐かしむようにコロコロと笑った。その様子に二人の表情はこれでもかというほど暗くなる。
巨人の背後――アリスたちの方からは金属のぶつかり合う音が響く。そして時節、風が吹きつけてくる。
「二人ともぜーんぜん変わってないね。まるで私のパパとママみたい」
「レイ……なんで」
エスティアの泣きそうな声に少女は気まずそうに視線を逸らす。
「偽物ってわかってるのに、レイって呼んでくれるんだね」
「それは……っ」
エスティアの表情が曇天のように影が落ちる。確かに、目の前の彼女は偽物だ。だけど、それは紛れもなく、ずっと会いたかった家族だった。もう一度抱きしめて、名前を呼びたいと願っていたそれが、叶えられたのだ。
シュティレも同じ気持ちなのだろう。複雑な表情で少女を見つめる。その青い瞳は悲しさと、寂しさと、嬉しさが混ざり合っている。
「でもまぁ、私にはそれしか名前がないから別にいいんだけどね。ねぇ、あそこにいるお人形さん」
そう言って少女はエリザの肩に乗っているピーナッツを指さす。エスティアは視線をそこへと向けると、複雑な表情を浮かべた。
「あぁ、アイツはピーナッツだよ。エラーなんだけど、エリザに従ってる」
「ふーん。ピーナッツ……ね。名前貰ったんだ……」
ポツリと呟く少女。その瞳が悔しそうにしていることに気付いたエスティアは思わず、少女に手を伸ばしかける。が、諦めたように項垂れた。彼女は別人だ。そう自分に言い聞かせる。
少女はそんなエスティアを暫く見つめていたが、不意に笑みを浮かべた。その笑みは無邪気な少女らしさは無く、悲憤が浮かんでいるように見えた。
「ねぇ、二人とも。もう、こんな世界――捨てちゃおうよ」
「え……?」
エスティアとシュティレの口から同時に漏らされた声はぴったり絡み合い、一つの声となって少女の耳へと届く。少女はそんな二人に吹きだすと、再び物悲し気な笑みを浮かべ、口を開く。
「だって、あんな世界……戻ったって意味なんてないよ。もう、二人が知っている人は、世界は……いないかもしれないんだよ?」
「何言って……っ」
「いないって……どういうこと……?」
シュティレが困惑を浮かべながら聞き返す。すると、少女は巨人に手を緩めるよう指示を出し、二人をその場に座らせる。その背後では絶えず戦闘音が響き、二人は加勢しに行きたい気持ちをグッと堪える。もし、一歩でも動けば、今度は殺すという目線を巨人が向けていたからだ。
「そのまんまの意味だよ。この迷宮の外はもう別世界。二人が知っていた世界はもうないの」
そう言った少女は小さく口角を上げると、言葉を続けた。
「それに、皆だって待ってるよ? グレース、オリバー、フェルター。それに本物だって待ってる。それなのに、二人はまだここにいるの? もう、みんなはいないのに」
「それは……」
エスティアが苦虫を噛み潰したように表情を歪める。
少女は勝ち誇ったような表情を浮かべると、エスティアが口を開くよりも早く、機会を逃さんといわんばかりに言葉を畳みかけた。
「それに、誰も復讐なんて望んでないよ」
その言葉にエスティアとシュティレの表情が抜け落ちる。それは怒りでも悲しみでもなく――心を粉々に砕くほどの絶望感だった。二人は言葉を無くしたようにうつ向いてしまう。
二人とも分かっていたことだ。優しいあの子たちが復讐なんて望んでなんかいないということぐらい。考えずとも分かり切っていた。
「みんな、みんな、二人が来るのを待ってる。あんな希望もない世界で、無理に頑張る必要なんてないよ」
少女の声はどこまでも優しい。
「……そんなの……わかってるよ。あの子たちが望んでないことぐらい……っ」
絶望に満ちた声がエスティアの口から紡がれる。その声はまるで泥の様に重たく淀んでいた。
「でも……それでも……私は……っ」
隣に居るシュティレがエスティアの手を優しく握る。その温かさに、エスティアの表情が引き締まる。
「私は許せない。みんなから、来るはずだった未来を奪い……あの子たちの太陽のような温かさを奪ったソイツが許せない……っ! 自己満足だってわかってる……だけど、それでも」
シュティレの手をギュッと強く握りしめたエスティアは、晴れ晴れとした表情だった。
「私は止まらない。絶対に……アイツの心臓にこの魔剣を突き立てるまでは」
力の篭った声。シュティレもその言葉に力強く頷く。
「後悔するかもよ? きっと、エストの望む世界なんてないかも」
「それでも、進み続けるよ。私の心が壊れても、隣にシュティレが居てくれる限り」
エスティアが答える。フンと鼻を鳴らす少女はシュティレへと視線を向ける。
「きっと苦しいことばっかりだよ? ケガだってするし、死ぬかもしれない。それでもシュティレおねーちゃんはエストに付いて行くの?」
「付いて行くよ。ケガをしたら私が治すし、そうなる前に守るからっ」
弾んだ声で帰って来るそれに、少女は不快そうに眉を顰める。
「絶対後悔する。あの時、死んでおけばよかったって絶対に思うときがくる。それなのに……二人とも、バカなんだね」
そう言って少女は鼻で笑う。が、その笑いには諦めのような物が浮かんでいることに気が付いたエスティアは微笑を浮かべていた。
「もしかして、私たちのこと、心配してくれてる?」
「は……?」
少女が間抜けな声を漏らす。
「なんでそんな考えになるの意味わかんない。私は二人を殺そうとしてるのに」
不満げに口を尖らせる少女。エスティアはそんな彼女の表情にこれでもかと表情を緩める。同様に、シュティレも表情を緩めていた。
「だって、話してればすぐにわかったよ。やっぱり、レイは優しい子だね」
「……ッ」
無邪気な少女のような笑みを浮かべるエスティアに少女は口をつぐむ。今日初めて、彼女と会話をした。確かに自分の眼窩に収まる本物の瞳のおかげで、彼女を知っている。優しさも、温かさも。
だからこそ、少女はこの状況が理解不能だった。どうして、目の前の二人は偽物とわかっている筈なのに。何故、本物と話しているような雰囲気を二人は出しているのか。
その気持ちが巨人にも伝わっているのだろう。不思議そうに瞳を細めている。
「そうだね。レイは本当に優しい。こんな私たちを心配してくれてるんだから」
「そんなことないっ! 私は……私は……っ! 二人を殺しに来たの!」
少女の叫びに巨人がピクリと反応する。少女の紫と緑のオッドアイが煌めき、火炎族特有の炎のような赤髪が燃え上がるように赤く光と熱を帯びる。
「そうだよ……私はこの迷宮の女王なんだ。欲しいものは全部手に入れる……二人をあんな世界になんて行かせない。ここで、ずっと私と居ましょう? そしたら、みんなの元に連れていってあげる」
巨人が戦斧を構え、空気を叩くような咆哮が轟く。その様子にエスティアとシュティレは悲し気に瞳を伏せる。もう、話し合いは不可能。目の前の彼女は本気で殺す気だ。
「レイ……」
「エスト……」
シュティレがエスティアの手を握る。その手は微かに震え、彼女の深い悲しみを体現していた。エスティアは自分の腰に収まる魔剣へと視線を落とす。だがその時――
「え……なんで……?」
エスティアの魔剣が携えた腰とは反対の方にいつの間にか、まるで、ずっと前からそこにあったかのように――宝剣が鎮座していた。
エスティアは困惑を浮かべながらも、導かれるようにその宝剣の柄へと手を伸ばす。すると、その瞬間、宝剣に纏わりついていた乾いた泥が溶けるように地面へと流れ落ち、消えていく。
ゆっくりと引き抜けば、その刀身は見たことないほどの輝きを放つ。まるでどこまでも澄んでいる海のようなエメラルドグリーンの刀身からは、水のように光り輝く滴が滴る。
「これは……」
「エスト……それ……」
輝く宝剣に瞳を奪われていた彼女は、シュティレの声によって我に返る。そして、目の前で巨人の肩に乗っている少女を見つめた。
宝剣を握る手が震える。それは、止まることを知らず、カタカタ、と小さな音が彼女の心を削り取る。戦う以外の選択肢がないのはわかっている。だが、偽物といえど、守りたかった笑顔に刃を向けていいのか。そんな声が響く。
その時、彼女の持つ宝剣が淡い光を帯び、滴る魔力がまるでやるんだといわんばかりに彼女の周りで渦巻く。エスティアは意を決するように息を吐き出す。そして、宝剣の柄を強く握りしめ。漆黒の籠手を異空間から呼び出した。
「レイ……ごめんね」
エスティアはそう言って――駆け出す。それと同時にシュティレの魔力が彼女を強化する。羽のように軽い体は雄風に吹かれるかのように突き進む。
「ふふっ、やったね……二人のこと、きっと殺してみせるよ」
少女が微笑み、巨人の太い角を軽く撫でる。そして――
「やっちゃえ、アステリオン」
巨人の咆哮が轟いた。それは、開戦の銅鑼のように彼女たちの心臓を叩くように、深く。




