55 所詮、彼女たちも迷い込んだ旅人にすぎない
風の竜はリーザベルの心臓を貫く。激しく乱回転した風の刃が触れた傍から皮膚、筋肉、骨を引き裂き、その奥に潜むヒビの入った心臓をぐちゃぐちゃにひき潰し、その体を突き抜けていった。
「っあ……」
完全に心臓の砕ける音が響く。リーザベルは自分の体からあふれ出た鮮血と共にバラバラに砕けた透明の破片が床へと流れ出る。それを眺める彼女の灰色の瞳と虹色の瞳は――色を失い始めていた。
グラリと、その場に膝を付いたリーザベルは微笑みを浮かべながらその破片を掬い上げ、握り締める。もう、その破片からはなんの魔力も感じ取れない。
サラ、サラ、と砂の様に自分の体が消えていくような感覚が迎えに来る。
「ごめんね。私、誰も殺せなかったみたい」
そう呟いた彼女はそのまま、体の力を抜き、意識を永遠の闇の底へと落としていった。
鮮血が舞う。シュティレは自分の顔にかかった鮮血に戸惑いの表情を浮かべる。貫かれるはずだったそこには何もなく、目の前からはボタボタと滝のように流れる真っ赤な液体に視線が奪われる。
意味がわからない。どうして、槍は目ので止まっているのか。見覚えのある服装が真っ赤な景色に霞ながらも見える。そんな時、彼女の少し上から声が聞こえた。
「シュティレ、ケガ、してない?」
おそるおそる顔を上げれば、そこには大好きな笑顔を浮かべた――エスティアが立っていた。そんな彼女の腹部は真っ赤に染まり。未だにシュティレを貫かんとする槍を両手で押さえている彼女の籠手は真っ赤な液体を滴らせている。
「え、あ、なん、で……エスト……ッ」
青い瞳が限界まで見開かれ、黄金の瞳を見つめる。脳内を埋め尽くすは、なんで? どうして? だった。石像になってしまったはずの彼女は何事もなかったかのように笑っている。そっと、手を伸ばせばそこは温かく、確かに彼女が目の前に居ることは理解できる。
突然、エスティアの腹部を貫いてた槍が陽炎のように消滅する。おそらく、術者の魔力が断たれたためだろう。シュティレは倒れ込む彼女を受け止めると、周りに展開していた濃霧を解除。床へと吸い込まれるように消えていく濃霧に交じり、真っ赤な液体が床に降り注ぎ、シュティレの体を真っ赤に染め上げる。
「ご、めん……服、汚しちゃった……っ」
「バカッ。今はそんなこと心配してる暇ないでしょっ!」
彼女のぽっかりと穴の開いた腹部に手を翳し魔力を流す。傷口が動くたびにエスティアは苦し気な息を吐き出し、シュティレの首筋に顔を埋める。
「バカッ……エストのばか……っ」
「ごめん……でも」
顔を上げたエスティアはふにゃりと笑い。
「シュティレが無事でよかった」
黄金の瞳を細めた。その奥はどこまでも澄んでいて、優しい光を帯びていることに気が付いたシュティレはキョトンと、彼女の顔を見つめ返す。が、すぐにフワリと表情を緩めると、もう幾分か治り穏やかな表情となっているエスティアの体を優しく抱きしめた。
「エスト、助けてくれてありがとう」
張り付くような血の臭いに交じって香るはシュティレの甘い香り。戦いの後ということもあり、汗の匂いと交じり合ったそれにエスティアは思わずゴクリと喉を鳴らす。が、そんなことに気付かないシュティレは彼女の治ったばかりの傷口が痛まないように注意しながら抱きしめる腕に力を込めた。
「シュティレ。ケガしてる」
「へーき。こんなのかすり傷だよ」
暫く抱き合っていると、エスティアがそう言いながらシュティレの頬にできた傷を撫でる。見た感じ浅く、痕にはならなそうだが、血の滲んだそれにエスティアの表情が暗くなる。
シュティレは心配してくれたことに笑みを浮かべ、安心させるような声色で答えたが、彼女の表情は依然として暗いままだった。
「でも、私のせいだよね……」
「エスト……でも、私嬉しいの」
「え……?」
シュティレの弾んだ声にエスティアは思わず顔を上げ、怪訝な表情を浮かべる。そんな彼女の頬をスリスリと掌で撫でながら、シュティレは答える。
「だって、このケガってエストを守った証みたいなものじゃん。それがなんだか嬉しいの……おかしいかな?」
その言葉にエスティアの頬がさっと赤く染まる。ケガをしてほしくないという気持ちが揺らいでしまいそうなほどの衝撃的な一撃。だが、エスティアは首を横に振り、その考えを払うと小さく。
「お、おかしくないけど……そう言ってくれるとちょっと、嬉しいけど……でも」
「わかってるよ。今度から気を付ける――だから」
「シュティレ……?」
はだけていたエスティアのシャツのボタンを手際よく閉めたシュティレは、されるがままの彼女の額に自分の額をコツンとあてた。
「ちゃーんと。私のこと、守ってよねっ」
ニヒッと口元を緩めるシュティレ。その表情を見た瞬間、エスティアは“あぁ、やっぱり、私はこの子と一生を過ごしたい”とそっと心の奥で呟いていた。
「守るよ。どんなことがあろうと、絶対に」
二人はもう一度強く抱きしめ合う。ずっと、このままでいられたらいいのにという言葉がエスティアの脳に響いてくる。が、それを蹴り飛ばす様に淀んだ声が“まだ、止まるな。お前には為さねばならないことがあるだろう”と大声で怒鳴る。
わかってるよ。と、エスティアが脳内の声に返事をしたその瞬間、エスティアは誰かに呼ばれたような気がして、なんとなしに――上を向いた。暗くどこまでも続いているような天井のずっと奥。そこから小さな白い光が見え、それはまるで、夜空から星が落ちてくるようだった。
その時、エスティアの人並外れた聴覚が「なんで、こんなことばっかりぃぃぃぃっ!」という、女性の悲鳴じみた叫び声を捉える。その声に聞き覚えのあったエスティアは微妙な表情でシュティレを抱き上げると、その場から飛び退いた。
次の瞬間には、彼女たちが居た場所に光か輝くナニカが落下し、石敷きの床が砕け散る音と砂埃が舞う。エスティアに抱かれたシュティレは顎が外れんばかりに大口開けたまま固まってしまう。
「えっ、なにあれ……」
「た、多分……エリザたちだと……思う」
エスティアの自信なさげな声は当たっていた。砂埃から姿を現した二つの人影は、体についた砂を払うような仕草をしながら二人の元へと姿を現す。
「お二人とも、ご無事ですか?」
真っ白な鎧に包まれたアリスはそう言って、二人の元へと駆け寄る。その琥珀色の瞳は二人の生存を確認できたことによる安堵を浮かべている。その隣に立っていたエリザも、ホッとしたような表情で歩み寄る。
「エリザたちも無事だったんだね」
呆気に取られた表情から、安心したような表情を見せ、そう言ったエスティアにエリザは「全然無事じゃないわよっ」と吐き捨てると、疲れ切ったように口を尖らせた。そんな子どものような仕草を見せる彼女に二人は首を傾げたが、アリスもピーナッツも疲れたような様子でいることに気付き、微妙な表情となる。
「え、なんか。ごめん」
アリスたちに思わず謝ってしまうエスティア。そんな彼女にアリスは小さく首を横に振る。
「……気にしないでください」
『そうですぞ。ちょーっと、岩に追いかけられたり、虫地獄で遊んだり、水浸しの部屋で魚と遊んだりしたぐらいですからな』
「もう、あんな虫地獄はごめんだわ」
ピーナッツの言葉にシュティレの表情がこわばる。エリザが大の虫嫌いと知っていたためだった。
「それにしても、よくこの場所がわかったね」
シュティレはそう言って首を傾げた。シュティレはレインのおかげで殆ど迷わずにここまでこれたが、ここは迷宮だ。たくさんある扉や部屋からここまでたどり着くのは困難だっただろう。
「あぁ、それはね」
そう言いながら、エリザは懐にぶら下げていた――泥で汚れた剣を取り出した。それは、暫く見ていなかったエスティアの宝剣であった。
以前見たときと変わらず、思わず洗い流したくなるほどの泥がこびり付いた宝剣。だが、シュティレはその宝剣の雰囲気がなんだか以前と違うように感じた。
「宝剣?」
「そっ。この宝剣がね、教えてくれたのよ」
その言葉にシュティレは何となく納得した。そして、シュティレが宝剣へと手を伸ばしたその時――
「お姉ちゃんたちはとっても楽しんでくれたみたいだね」
「えっ?」
どこからか響いてきた少女の声。エスティアは誰よりも早くその声を聞き、困惑の表情を浮かべながら、再び頭上を見上げた。天井は暗いためになにも見えないが、エスティアは感覚的にナニカがいることを察知する。そしてそれは――物凄いスピードで差し迫っていることに。
「シュティレ!」
「エリザさんっ」
アリスとエスティアがほぼ同時に叫び、二人を思いっきり背後へと突き飛ばす。と、同時に二人は相反する剣を引き抜き、一歩踏み出すと同時に振るった。一方は黒い帯をひきながら。もう一方は白い帯をひきながら。黒と白が交差するように降り注いだソレを受け止めた。
ぶつかり合った金属は甲高い悲鳴を上げ、眩いほどの火花を散らす。まるで大きな岩でも落ちてきたかのような衝撃と重さ――巨大な戦斧を受け止めた二人は床を砕きながら奥歯を噛みしめる。
このままでは、二人ともこの斧で押しつぶされてしまう。ギリ、ギリ、と徐々に床へとめり込む足と背後の二人を一瞥したエスティアは口元に笑みを浮かべた。
「アリス、同時に魔力を放出して!」
「――わかりましたっ」
エスティアの視線で、彼女の考えをくみ取ったアリスはその聖剣の魔力を流す。聖剣が光り輝き、同時に彼女の魔剣も彼女から流れ出た血を啜り、赤黒い血のような光を放つ。
「斬り――」
「斬り――」
全てを焼き尽くすようでいて、全てを救わんと言いたげな光明を携えた剣。全てを喰らい尽くし、身の毛もよだつほどの魔力を滴らせた剣。どちらも、神が作ったとされる至宝。それを握る人間を眩い光が包む。
「――裂けぇぇぇぇええええっ!」
「――裂けぇぇぇぇええええっ!」
二人の咆哮が轟く。それは混ざり合い、従うように二人の魔力も混ざり合う。その時、均衡が崩れかけていたものが完全に崩壊する。
大岩のような重さを備えた戦斧が一気に押し返される。二人が一歩踏み込み――その剣を振り抜いた。突風が巻き起こり、戦斧の持ち主は跳びあがるように二人から距離を取る。
『グルルゥ』
トン、と着地したそれの姿が明らかになる。それは――角の生えた牛の頭を持った巨人であった。三メートルはある巨体に、二人の身長ほどの大きさの両刃斧。炎を纏ったようなその体つきは逞しい。
アリスの瞳はその巨人が纏う魔力がこの迷宮と同じものだと気づく。だが、他の迷宮の住人とは比べ物にならないほどの魔力の質に、“あの巨人がこの迷宮の主なのでは”と推測する。
「鷲封射」
「喰らいなさい」
二人の魔術師の声が響く。アリスたちの頭上を越えて向かうは風を纏う鷲と、鋼鉄の鷲。二羽の鷲はまるで絡み合うな軌跡を描き弾丸の様に巨人へと向かい、着弾。爆発音が轟き、空間を揺らす。
だが――それだけだった。煙が晴れた先には、無傷の巨人が立っていた。そんな巨人の肩には、一人の小さな人影があった。
「ははっ、英雄ってすごいのねっ!」
そう言って笑った少女は、赤髪のポニーテールを楽しそうに揺らす。その瞬間、アリスとエリザの纏う雰囲気が一変する。
あの少女だ。二人はあの少女がこの迷宮の主だと理解してしまった。なぜなら、寒気がするほどの魔力を彼女が纏っていると、瞳や体感ではなく――経験則から感じ取ってしまったのだから。
エリザの肩に乗るピーナッツも感じ取っているのだろう。その変化のない顔は恐怖を浮かべているようにも見えた。
だが、後の二人は違う。呼吸をすら忘れてしまったかのように、その少女へと視線が釘付けとなっていた。それは恐怖ではなく、怒りでもなく――深い悲しみが浮かんでいた。
「まさ、か……っ」
おぼつかない足取りでエスティアは巨人の肩に乗る少女へと歩み寄る。アリスとエリザは咄嗟に止めようとするが、シュティレまでも歩み寄っていることに気付き、躊躇してしまう。
まさか、知り合いだというのか。アリスとエリザはすぐに攻撃できるように武器を構える。
巨人の肩から降りた少女が二人の元へと駆け寄り――エスティアの体へと飛び込んだ。巨人はその光景を黙って見つめる。
「あ、あぁ……そ、んな……っ」
抱きしめたエスティアの口から言葉にならない声が漏れる。遅れてやって来たシュティレも、言葉を失い立ち尽くす。
見間違うはずがない。覚えている。この髪色、火炎族特有の少し高めの体温、彼女の性格を現すような陽の香り。エスティアの黄金の瞳から滴が落ちた。それは少女の頬へと落ち、そのまま地面へと染み込む。
「エスト、シュティレおねーちゃんっ……やっと会えたね」
少女が顔を上げた。紫色と緑色のオッドアイが懐かし気に細められる。それを見たエスティアは少女の頬を撫でながら確信し、そっと抱きしめた。
そして、今にも壊れてしまいそうな、泣き出してしまいそうなか細い声で――
「レイ……ッ」
と、呼んでいた。




