53 もっと、楽しんでよ
「なんでしょうか、これは」
扉を見つめながら、アリスはそう呟いた。
何年も放置されていたのか、黄ばんだ紙に書かれた言葉を心の中で復唱する。この奥に何かが居るということだろうか。
ひょいッとアリスの背後から覗き込むように現れたエリザ。彼女はアリスが見やすいように掲げられた聖剣の光を頼りに文字を読む。と、グググ、と首を傾げた。そんな彼女の膝を一瞥したアリスは再び、ドアへと注目する。
見た目は普通の鉄扉だ。背後のと比べて、いくらか薄いようにも見えるその扉の先から音は聞こえない。
「この奥に何かいるのかしら?」
「彼の機嫌を損ねるな。と書いてありますからね」
『とりあえず、開けるのですかな?』
エリザの肩から二人の顔を見回しながらピーナッツがそう言う。確かに、ここでジッとしていても何の解決にもならないし、もしかしたら、連れ去られてしまった彼女が危険な目に遭っている可能性だって高い。アリスは、聖剣を片手に構えると、エリザを守るようにしながらゆっくりと、慎重に――扉へと手をかけた。
ギィ、と小さな金属音と共にドアが開く。と、同時にアリスの瞳には、濃密な魔力が部屋から流れ出るのを捉えた。少し黒っぽい魔力はこの空間の物と似ているが、“違うぞ”と主張するように、それは濃厚な血の臭いを連れ歩いている。
アリスの表情がこわばる。この先にいる物はおそらくゴールド級のバケモノだ。ゴールド級の魔物といえば、王国勇者、しかも、光の勇者一行全員が揃っていなければ倒すことは困難なものばかり。
思い出すは、魔王城の手前で戦ったフレイムドラゴン。ドラゴンという種族は全てゴールド級認定される。が、フレイムドラゴンは別格の強さを誇っていた。
あの時は、エリザとスライのサポートで、ノーヴェンがフレイムドラゴンの炎を受け止めてくれたおかげで、アリスがとどめを刺したのだ。
「エリザさん、この先にいるのは、フレイムドラゴンと同等のものがいると思われます」
「げっ、うそでしょ。どうすんのよ。私たちだけじゃ、倒せないわよ」
囁くような音量で会話する二人。その間にも、ドアの奥からは濃密な魔力が湯水のごとく溢れ出している。アリスは意を決するように小さく息を吐き出すと、通れるだけ扉を開き、部屋へと一歩踏み込んだ。
『ゥァ……ィ……ユ……ルサ……ナィ……ォレノ……ッ……タ』
「人……?」
いったい、どんな巨大生物がいるのかと思えば、そこに居たのは椅子に座る一人の男性だった。
鉄製の椅子は動かないように足元を固定され、拘束具のような物で縛られた男性はうつ向いたまま、ブツブツと何かを呟いている。が、まるで石をこすり合わせるようなだみ声のせいで、内容を聞き取ることはできない。そんな彼の目の前には一枚の紙が落ちていることに気付いたアリス。
聖剣を右手に握り締めたまま、ゆっくりと、その紙に向かって一歩踏み出した。その瞬間、彼女の着ている鎧が擦れ、カシャン、と小さく音を立てた。
『アァァアアアアアアッ!』
「――ッ!」
うつ向いていた男性が突如、顔を上げ、咆哮を上げる。彼の表情がアリスの瞳へと突き刺さる。
天井にぶら下がったライトが彼の顔を照らす。石のようにボロボロの青白い肌に、頬まで大きく裂けた口から覗かせるそこに“歯と舌”が無く、鼻は削り取られたかのようにぽっかりと眼窩のように二つ穴がコチラを向き、本来両目があるであろう場所には瞳の変わりだと言わんばかりに二つの――拳大の石がねじ込まれていた。
『アァァァアア……ウアァアアアアアアッ!』
何かを訴えるように彼は叫び声を上げるが、喉が潰れているのだろう。血反吐混じりの叫びは相手が理解できるほどの言葉を紡ぐことはできず、ただ、ただ、狂った獣のような不協和音が部屋中に響くだけだ。アリスは右手の聖剣を握り締め、踏み込む。
今は、あの拘束具のおかげであそこから動けないようだが、もう長くはもたない。パチンと、彼に刺さっている五個の釘の一つがはじけ飛び、部屋へと転がり落ちる。早く倒さなければ。アリスの勇者として本能が告げる。
アリスがそのまま、もう一歩踏み出そうとした瞬間、彼女は後ろへと引き倒された。カシャン、と地面へと倒れた拍子に鎧の音が大きく響く。すると、男性はコチラへと顔を向けた。どす黒い汚れが付いた眼窩にねじ込まれた瞳がギラギラ、と薄明りを反射する。
「エリザさんなに――」
「しぃーっ、少し黙ってなさいっ」
囁くような声でそう言ったエリザは片手でアリスの口をふさぐと、片手で何かを部屋の中へと放り投げる。すると、投げられた水の球のようそれは、猫のような形となると、しなやかな動きで音を立てずに、コチラを見て叫ぶ男性に気付かれることなく足元に落ちている紙を咥え、同じような動きでエリザの元へと戻って来た。
猫はエリザへと咥えていた紙を渡すと、そのままポン、と消えてしまう。その間にエリザは男性を睨みながらアリスを扉の裏へと連れていった。
「エリザさん、突然何するんですか」
せっかく、倒せそうだったのに。アリスは聖剣を握り締めながらエリザを鋭く一瞥した。その琥珀色の眼光は虎のような獰猛さを備えている。
片手で顔を覆ったエリザは、フゥーと長くため息を吐き出し、もう片方の手をちょいちょいと動かす。すると、二人の周りを包むように薄い水の膜の様なものが張られた。
「はぁ、とりあえず落ち着きなさい。らしくないわよ」
普段通りの音量でそう言った彼女は、呆れたと言わんばかりにため息をつく。が、アリスは不快そうに瞳を細め、半開きの扉の隙間から、椅子に座る男性をちらりと見やる。五個あった釘のうち、もう三つも外れてしまっている。
無意識に向かおうとしていたのか。踵を返すアリスの肩を強く掴んだエリザは鋭い視線で彼女の琥珀色の瞳を射抜く。
「アリス。貴女、なんだか変よ」
「……」
アリスは答えずに男性を見つめ続ける。
「今なら、倒せます」
暫く見つめていたアリスは、静かにそう一言。
確かに、椅子に縛りつけられ、動けない今なら、聖剣を持ったアリスが倒すことは容易いだろう。だが、手に持っていた紙を読んだ彼女と一匹は、小さく首を横に振った。
『あれには手を出さない方が無難ですな。動けない今だからこそ、放置しておくべきです』
「そうね、忠告通り、機嫌を損ねない方がいいわ」
彼女たちの言葉に、アリスの瞳が不満そうに鋭くなる。そんな彼女に、エリザは紙を手渡した。
「とりあえず、これ読んでから決めましょう」
「そんなものを読んでる暇なんて――」
「いいから、読みなさい」
ぴしゃりと言い放つ彼女に、アリスは一瞬、瞳を見開き、渡された紙へと視線を落とした。羊皮紙のような少し厚みのある端っこが丸まり、ザラつきの感じるそれには、黒いインクで丁寧な文字が書かれている。
死ねない男は自分の感覚が嫌いだった
食べた時に感じる食べ物の味覚と触覚が嫌いだ
意志に反して勝手に世界ニオイを感じ取る嗅覚が嫌いだ
目を開ければ勝手に世界を映し出す視覚が嫌いだ
まずは歯を潰す
その次は舌を切り取る
落ちていたノコギリで鼻を切り取った
目玉の替わりに石を詰め込んでみた
やった やった
これで なにも感じずに済むと男は喜んだ
だけど男は気付かない
感覚は まだ 残っていることに
誰だ 俺のそばで 音をたてるやつは
あぁ しにたい こんな感覚をもったおれを
その 魔剣で 突き刺してくれよ
読み終えたアリスは扉の先で静かに眠る男性を一瞥し、握る聖剣を見つめた。まるで歌のようなそれは、彼が人間ではないということをしっかりと明記していた。
「読んだわね? それを読む限り、アイツは魔剣でなきゃ殺せないみたいね。しかも“音”に敏感な筈よ。さっきも、アリスの鎧の音に反応してたし」
顎に手を添えながら、エリザは着ていたローブを異空間へと収納し、シャツにスカートといった身軽な見た目となる。そして、履いていたブーツすら脱ぐと、アリスの鎧を指さす。
「鎧と聖剣をしまいなさい。あ、ついでにブーツもね」
あっけらかんと放たれたその一言に、アリスは琥珀色の瞳でキッと、エリザを睨む。確かに、音に反応するならば、鎧と聖剣などといった“金属”は無用の長物となってしまうだろう。
アリス自身もわかっている。戦うことがすべてではない。時には穏便に済ますことも必要だと。しかも、相手を殺すには“魔剣”が必要だと。だが、わかっていても――握り締める聖剣を手放そうとは思えなかった。
「アリス」
「……わかっています。少しだけ……時間を下さい」
まるで小さな子にでも言い聞かせるような、優しくていて厳しい声。アリスはその右手に握られ、薄明りを放つ聖剣を見つめる。その琥珀色の瞳は縋るように揺れていた。
彼は苦しんでいる。斬るんだ。そんな声がアリスの頭に響く。すると、同時に体の奥がむず痒くなる。まるで、体の中にいる“なにか”が飛び出そうとしているような違和感。
深く息を吸い込む。冷たい空気に体が冷え、頭の中がだんだん、とクリアになっていく。このまま吸い続ければ、今の違和感も消えるだろうか。だが、そんなことは無理だ。長く、細く、息を吐き出したアリスは、まず、鎧を異空間へと収納した。
エリザと同じようにシャツにスカートという、軽装へとなると、履いていたブーツをしまう。そして、最後に、右手に握り締める聖剣の柄にコツン、と額を当て。
「大丈夫……」
そう呟き、アリスは聖剣をしまう。自分に言い聞かせるような声色。エリザは無言でそんなアリスを見つめる。
彼女は勇者というには若すぎる。にも関わらず、彼女は聖剣の担い手ということで世界からの期待を一身に受け、戦い続けている。確かに彼女は強いかもしれないが――心のほうは、そう都合よくはいかないだろう。
エリザはアリスの不安定さに一抹の不安を覚えながらも、かける言葉が見つからず。とりあえず、展開していた水の膜を解いた。
「それじゃ、行くわよ」
ひそひそ声でそう言うエリザに、アリスは静かに頷く。軽装に加え氷のように冷たい石敷きの床は、裸足で立っている二人の体温を急激に奪う。急がなければ、体の芯まで冷えてしまう。
二人は意を決し半開きのドアへと体を滑り込ませるように、最小限の動きで部屋へと入る。
部屋は驚くほど静まり返っている。自分の息遣いや心臓の音が彼に聞こえてしまうのではと思ってしまうほどに。もしかしたら、彼の耳にはもう届いていて、彼女たちが近くまで来るのを待っているのかもしれない。
残っている二つの釘のうち一つが、今にも外れそうになっている。早く通り抜けないと。エリザは焦る自分の気持ちを抑えつつ、アリスが大人しく付いてくることを信じながら前を向き続ける。
『ス……ァ……ィ……』
椅子に座った男性は無音の時間を楽しんでいるのだろうか。大きく裂けた口をニヤリと歪ませ、何かを呟いている。先を歩くエリザの背中を追うように、アリスは彼の隣を通る。その時、彼の後ろ手に縛られた手へと視線が向く。
彼の指は三本しかなかった。まるで、あのバケモノたちのようだ。そして、カミソリのように鋭い爪はその鋭さを現すかのように、その手が当たるであろう椅子の背もたれには無数の傷が刻まれていた。
部屋の天井にぶら下がったライトが、キィ、と揺れると、男性はピクリを反応したが、すぐに興味を無くしたようにアリスたちが入って来た扉へと顔を向けた。
『……ゥ……ラ……ィ……ニ……ケロ』
何かを呟いているようだが、あまりにも小さく弱々しいそれの内容を聞き取ることはできなかった。アリスは彼の言葉を聞き取れなかったことに、若干の罪悪感を感じつつも、エリザの肩に乗っているピーナッツに急かされたので、彼女は音を立てないように慎重に急ぎ足で反対側にある扉から部屋を後にした。
「ふぅ……」
音が出ないように鉄扉を閉めたエリザはホッと息を吐き出す。アリスはすぐさま鎧と聖剣を装備すると、部屋を見回した。いつの間にか、違和感は消えている。
先ほどの部屋同様の広さの小部屋の真ん中には、古びた木でできている一つの机と二つの椅子が置かれていた。アリスがそれを見ているのに気づいたエリザはうんざりした目でローブを羽織った。
「え、まだ、なにかあるの……」
「そうみたいですね。見てください」
そう言ったアリスは、机の上に置いてある一枚の羊皮紙を手に取るとエリザとピーナッツに見えるように広げた。
『今度はどんなことが書いてあるのですかな?』
ピーナッツが覗き込むように紙に視線を向ける。するとそこには――
私の迷宮 楽しんでる?
たった一言。それだけ書かれていた。深紅のインクの可愛らしい文字で。
「楽しんでって……まった――」
エリザが呆れ顔で一歩アリスに近づいたその瞬間。
「えっ」
今まで立っていた部屋の床が消滅した。なにが起こったのか理解する前に、二人と一匹の体は重力に従い。
『ぬぉぉぉぉおおおおっ!?』
暗闇へと吸い込まれていく。
アリスたちが完全に暗闇の中へと消えると、消滅していた床と彼女たちと一緒に落ちていったはずの机と椅子が、何事もなかったようにあらわれる。
そんな椅子の一つには、一人の少女が座っていた。十四歳にしては少し幼く見える彼女は、綺麗な赤髪のポニーテールを楽しそうに揺らしながら、向かいに座る角のついた赤い牛のぬいぐるみに話しかける。
「ねぇ、ねぇ、あの人たちは楽しんでくれてるかなっ」
カラカラと笑った少女の紫と緑のオッドアイは楽し気に煌めいていた。




