42 どう思うだろうか
帝国の都市から少し離れた、丁度、エスティアの故郷と都市の真ん中に位置する小さな町の宿。
エスティアとシュティレは、部屋の椅子に向かいわせに座ったまま無言の時間を過ごしていた。エリザとアリスは隣の部屋におり、時折、物音の様なものが聞こえてくる。
シュティレは、うつ向き無言でいるエスティアを見つめる。そして、思い出すは海岸で出会った、彼女の親友を名乗る人物。
あの女性は彼女のなんのだろう。本当にただの親友なのだろうか。女性のあの、嬉しそうな表情が頭を過る。するとそんな不安が心の奥底深くで淀み始める。考えてはダメだと思っていても、奥底にいる自分が「エストはどう思ってるかな」と囁いてくる。
言いようのない不安とモヤモヤが心を支配しようとやって来る。シュティレはそれを振り払うように首を左右に振ると、ポンと頭の上に何かを置かれるような感触を感じた。それが、彼女の“手”だということは、考えずとも分かった。
「シュティレ、なんか変なこと考えてる?」
その一言にシュティレの肩が大きく跳ね、青色の瞳を伏せる。エスティアはその反応に表情を緩めると、そっと金髪を撫でる。
それだけで、シュティレの心の黒い靄は、彼女という名の春風に連れられ消えていく。我ながら、単純だなと思う。が、やっぱり不安が完全に消えることは無い。
「ねぇ……エスト」
「ん?」
撫でてくれている手を握ったシュティレは、それを自分の前まで持ってくると、不安げな表情浮かべた。
エスティアはその表情にグッと息を呑んだ。きっと魅入られてしまったのだ。その表情から全く目が離せなくなり、心臓がギュッと締め付けられるような感覚に陥る。
「あの人……ただの友達なんだよね……?」
「あ、あの人って……セメイアのこと?」
「うん……」
シュティレは握る手に力をキュッと込める。エスティアは目元を細め、そっと軽く手を握り返す。
「……シュティレ、私の初恋がいつか教えてあげよっか?」
「え……?」
エスティアはスルリと、体を乗り出しシュティレの頬へと手を伸ばす。そして、呆気に取られている彼女の耳もとに口を寄せると、聞いたこともないような甘い声で囁く。
「実はね“今”なんだ」
「――ッ!」
シュティレの顔がサッと赤く染まる。項にゾクリと言いようのない感覚が駆け抜け、体の奥がほんのりと熱を帯びた。余りにも、突然すぎて、脳がショートしてしまいそうだ。
驚きのあまり、声にならない吐息だけが彼女の口から漏れる。エスティアはそんな彼女を見つめながらクスリと笑みを零す。
「ここまで人を想ったのは、シュティレ、君が初めてだよ」
吐息混じりの声がシュティレの鼓膜を震わせ、体をも震わせる。その言葉が嘘ではないことなんて聞き返さなくてもわかる。だからこそ、シュティレの心と体は際限なく熱を帯び、喜びに打ち震えてしまう。
真っ赤にうつ向くシュティレが口を開く前に、エスティアは矢継ぎ早に自身の気持ちを甘いと吐息と共に吐露する。その声はどこまでも優しい。
「笑顔を見てドキドキするのも、悲しんでる姿を見てこれ以上ないくらい苦しくなるのも、気付いたら君のことを考えてるのも……全部、君が初めて」
その声と言葉はまるで蜘蛛の糸のように、一度囚われてしまえば逃げ出す術はない。甘い砂糖菓子のように舌を転がり体へと溶けていくようにスーッと心の奥底まで沁み込む。
シュティレの頭はもう、これ以上にない幸福感で爆発寸前だった。このまま彼女の甘い砂糖菓子を摂取し続けていたら、その甘露によって脳みそがとろけてしまいそうだ。が、そんなことに気付くはずもないエスティア。
そして、彼女はまだ言い足りないのか、照れくささなどは全く感じさせない、真剣な表情で言葉を続けた。
「今だって、シュティレを見てるだけで心臓がどきどきしてる……前はこんなんじゃなかったのに……どんどん君色に染ま――」
「ま、まって……っ!」
シュティレは咄嗟に彼女の顔を押しのける。そして、彼女が反応するよりも早く、その唇を奪う。
エスティアは突然の出来事に体がビクリと強張る。その反応にシュティレは可愛いと思いつつも、目的は達成されたのでゆっくりと顔を離す。
その時に小さく聞こえた「あ……っ」という声に、シュティレの心臓がこれでもかと高鳴る。が、ブンブンと首を左右に振って理性を抱きしめながら、そっと不満げにしている彼女を見つめる。
「嬉しいけど……ちょっと、恥ずかしいよ」
そう言ってシュティレがはにかむと、エスティアはハッとしたように瞳を見開く。その次には顔をほんのりと赤く染めながら、気まずそうに視線を逸らした。
「……あ、ごめん」
エスティアはそう言って頬を掻く。
シュティレは微笑を浮かべると、窺うように上目遣いになっている彼女の両手を握り締める。
「でも……嬉しい。エストの初めて……私が奪えて」
そう言ってシュティレはとろけるような笑みを浮かべた。
「え!? あ、いや、あの……その……っ」
思いがけない彼女の一言と表情に、エスティアは小さく咽た。あまりにもストレートすぎるその言葉は、彼女の心臓を射抜き、顔が熱くなる。
先ほどまでの恥ずかしさに満ちていたシュティレはいつの間にか影を潜め。代わりに、背筋がゾクリとするほどの魅惑的な笑みを携え、頬に伸ばされていた手を握り、エスティアへと顔を近づけた。
ふわりと、香るそれを慣れることは無く、鼻腔をくすぐるたびに脳を痺れさせる麻薬となる。エスティアは小さく唾を飲み込む。
「こんな表情も、私に“だけ”なんだよね」
シュティレはそう言って目元を細めると、真っ赤に染まったエスティアの頬を優しく撫でる。その触り方がまた、扇情的で。まるで、その奥の心まで撫でられているような気分に陥った彼女は、余りの恥ずかしさに言葉を失う。
「シュ、ティレ……あの……うぁ……っ」
「エスト」
熱の篭った吐息のような声がエスティアの鼓膜をスルリと通り過ぎ、脳みそへと吸い込まれ染み込む。これは危険だ。
エスティアは思う。この声を聞き続けていると本当に彼女以外のことが考えられなくなってしまう。まるで麻薬だ。だが、そんなことを今更考えた所で手遅れだろう。もう、取り返しのつかない所まで、彼女にどうしようもなく溺れているのだから。
「ねぇ、エスト」
シュティレの細く白い指がエスティアの目の下をゆっくりとなぞる。それだけで、体中がゾクゾクとする。
あぁ、マズイ。エスティアは思う。
「――大好き」
エスティアの顎に指をかけ、軽く下に向かせたシュティレは小さく微笑み、彼女が開きかけた唇を塞いだ。
エスティアの体が強張り、大きく見開かれた黄金の瞳がしたり顔のシュティレを映し出す。反射的に後ずさろうとした時、椅子が邪魔をしてうまく下がれず、その間に彼女が逃がさないといわんばかりに唇を軽く噛む。
だがその瞬間――
「エストさん、シュティレさん。明日のこと……で……お話が――あ」
「あ」
「あ」
部屋の扉が小さな音を立て、開く。
開かれた扉の先に立っているアリスは二人を見つめたまま固まってしまう。ほぼ同時に扉へと振り向いた二人も同様に固まる。
まるで空間が凍り付いたように、時計のチク、タク、という音だけが響く。
シュティレの脳裏にエリザの言葉が浮かぶ。アリスの出身がどこかは知らないが、“マズイ”。もし、彼女が否定的な人だったらどうしよう。
だが、その考えは杞憂だったようだ。アリスはいつもの無表情だったが、その琥珀色の瞳は気まずそうに伏せている。が、悪感は感じられない。ホッと胸を撫で下ろす。
アリスは、キュッと拳を握り締め、小さく咳ばらいをすると、何事もなかったように口を開いた。
次の日。
エスティアの故郷であるクロックギウム村へとエスティアとシュティレは徒歩で向かっていた。帝国の首都である帝国近郊にあるので、街道を歩いた方が逆に早いのだ。
街道に人は全くおらず、静かでどこか息苦しく感じる空気を噛みしめながら、エスティアはそっと隣を歩く彼女の握っている手に力を込めた。すると、シュティレは軽く握り返す。
「久々に二人っきりだねっ」
嬉しそうに声を弾ませたシュティレは笑みを浮かべ、エスティアへと顔を向けた。
アリスとエリザは調べ物がると言って同行はしなかった。いつどこに危険が潜んでいるかわからないのに、とエスティアは思っていた。が、心のどこかでは安堵していた。まぁ、夜には宿に戻らなければいけないのだが。
エスティアは笑みを浮かべ、隣へと顔を向ける。
「うん、そうだね。今頃、二人は何してるんだろうね」
「さぁ? 調べ物って言ってたよね……でも、今ぐらいは私のことだけ考えてよ」
ぷくっと頬を膨らませたシュティレはそう言って、握ったエスティアの手に爪を立てる。すると、エスティアは痛そうにしながらも、あっけらかんとした口調で返す。
「何言ってるの。いつも、シュティレのことしか考えてないよ? なんなら、頭の中見せてあげたいくらい。なんたって私はシュティレ依存症だからね」
「もうっ……ばかっ」
冗談めかして、ニヒッと歯を見せて笑う彼女に、シュティレはプイっとそっぽを向く。が、微かに覗かせる耳は真っ赤に染まっている。
だが、これは間違いではなく真実。昨日の夜、二人を呼び出したエリザはこう言ったのだ。
――エスト、これからの為に言っておくわ。貴女は“シュティレ依存症”よ。
そう言ったエリザはエスティアのことを見てため息をついた。
どうやら、シュティレの魔力が予想以上に体に馴染んでしまっているらしく、自分の魔力と融合し始めているらしい。だが、シュティレの魔力を自分の体内で生成することはできない。
万が一、シュティレの魔力が完全になくなると体のバランスが崩れ、最終的には魔力欠乏症に陥って死ぬ可能性もあるということだった。そうならない為にも、シュティレから定期的に魔力を貰わないといけない。
つまりは言葉通り――身も心も彼女なしでは生きていけない体になってしまったというわけだ。
それを聞いた時、エスティアは思わず笑ってしまった。それにより、エリザには珍獣を見るような眼で見られてしまったが。
「そうだよね……エストは私が居ないと本当に生きていけないだもんね……」
吐息のように吐き出した言葉は、嬉しさと悲しみが混じっていた。嬉しさを感じていても、ほんの少しの罪悪感のような物をシュティレは感じているのだろう。
エスティアはそんな彼女の頭をわしゃわしゃと乱暴に撫でる。
「まぁ、こうなる前から。私はシュティレ無しじゃ生きていけない体なんだけどね」
「え……?」
ポカンとした表情で見上げるシュティレにエスティアは、歯を見せて笑う。
その子どものような笑みにシュティレの心臓がドキリと跳ねあがる。そして思い出す。家族の為にと悲し気に笑い。戦い続ける彼女とは、たったの二歳しか差がないのだと。
そう思った瞬間、酷く悲しい気分になった。いつも気丈に振る舞う彼女に頼りっきりになっているのではないかと。
「ほら前に、言ってたじゃ……あれ? シュティレ、どうしたの?」
笑みを浮かべ、言葉を続けていたエスティアが覗き込むように首を傾げる。シュティレの様子が変だ。何故か急に顔を伏せ、覗き込めば、今にも泣きだしそうな表情をしている。
「エスト……」
「ん?」
「……ううん。なんでもないっ」
そう言ってシュティレは笑みを浮かべ、エスティアの手を握ると、エスティアが訝しむようにシュティレを見つめた。
「本当に? 私もしかして、変なこと言った? もしそうなら言ってね。頑張って直すから……」
不快にさせたと勘違いしたエスティアはシュンとした表情で、シュティレを見つめた。その子犬のような表情を彼女は可愛いと思いつつ、首を横に振る。
彼女に変な心配をかけてはダメだ。そうなると、また彼女は自分の為に無理をしてしまう。嬉しいがそれは心苦しい。
「いーの。エストはそのままでも。ねぇ、エストの村ってどんなところなの?」
「え? あぁ……そうだね……」
若干、無理やり話題を変えてしまったとシュティレは思っていたが、エスティアは気にすることなく顎に手を当て唸った。
「うーん。見た方が早いと思うよ。ほらっ」
不意に前方を見つめたエスティアは、懐かしむような微笑を浮かべ、シュティレの両肩に手を当てながら前方を向くように促す。
シュティレは不思議に思いつつも、前方へと顔を向け――言葉を失った。
「――わぁ……」
小さな村には似つかわしくない、巨大な時計塔。そして村から聞こえてくるはカチ、カチ、と秒針のコーラス。一糸乱れぬそれはまるで芸術だ。
ここが、彼女の生まれた村。シュティレは口元に手を当て言いようのない感覚に心を浸す。
エスティアは、そんな彼女を見ながら、笑みを浮かべると、村を紹介するように前と立つ。少し複雑な気分ではあるが、この変わらない風景に罪はない。
「ようこそ、ここが私の生まれた村――クロックギウムだよ」
秒針のコーラスが応えるように、鳴り響き。一斉に分針のカチリ、という音が響いた。




