41 ずっと待ってたよ
日が射し込み始める海の底を泳ぐ鉄のクジラ。鉄とは思えない滑らかな動きで尾を揺らし、優雅に泳ぐ姿はとても幻想的だ。まぁ、それを見られるのはせいぜい海中に居るものたちだけだが。
だが、海中の魔物たちも、八十メートルはあるだろう巨体が泳いでる姿に困惑を隠せないのか、早々に住処へと逃げ帰ってしまったようで、海中は嵐の前のような静けさに包まれている。
そんなクジラの口の中。静かな体内で全員が静かに寝息を立てる中、一人の少女がゆっくりと起きあがった。彼女が辺りを軽く見回すと、見たこともない物体が置かれている。オレンジ色の珍しい色に照らされた空間はどこか安心できる。
フッと息を吐き出した彼女は思う。ここはどこだろう。
「あ、れ……? ここは……っ」
急に起きあがったせいか、頭がくらくらしたシュティレは額に手を当てて深呼吸を繰り返す。眠っている間に何があったのだろう。
最後に思い出すは――なんだっただろうか。シュティレはまるで靄でもかかったかのように何も思い出せないことに首を傾げた。が、隣で眠るエスティアへと視線が向いた瞬間、そんな考えなど突風のように吹き飛んでいった。
弾かれるように飛びあがると、苦しそうに呼吸を繰り返す彼女を見つめた。シュティレは青色の瞳が大きく揺れる。
「エスト!」
血まみれで気を失っているエスティアを抱き上げたシュティレは、困惑と驚愕の色を浮かべ、彼女の傷口を確認する。いくつもの切り傷のような跡が体中に刻まれていた。こびり付いた血の乾き具合から見て、傷を負ってからそんな時間は経ってないはず。
シュティレは傷口に触れる。完全に治っているわけではないようだ。押した傍から皮膚が破け、赤い滴が零れ落ちる。
「……お姉ちゃんがやってくれたんだよね……?」
どうやら、ばい菌が入らないように傷口だけを、おそらくエリザが塞いでくれたようだ。シュティレ以外の魔力しか受け付けないエスティアに、こんなことができるのは彼女ぐらいだ。
シュティレは先ほど触れた際に破けてしまった彼女の傷口に手を当て、すぐさま魔力を流し、治療を開始する。すると、他の閉じていた傷口が、内部を治すために蠢きながら開く。
タラリと涙のように赤い血が流れると、エスティアは苦し気に呻く。
完全ではないが、閉じていたものが開いたのだ。相当な苦痛が彼女を襲っている筈だろう。シュティレは瞳を伏せ、苦しむ彼女の頬を撫でる。
血がこびり付きザラザラとする肌。シュティレは手のひらに水を纏わせると、それで彼女の顔にこびり付いた汚れを取っていく。
「っあ……い……ッ」
「ごめんね、ごめんね、痛いよね……」
あらかた汚れを取り終えると、シュティレは周りが寝ているのを確認する。そして、小さく息を吸い込み――そっとエスティアの顔へと近づき、唇を押し当てた。
柔らかさを楽しむ間もなく、彼女の香りに交じって、血の臭いが鼻腔を突き抜けた。
ピクリ、とエスティアの体が震えた。瞼が震え、ゆっくりと黄金の瞳が青色の瞳を射抜いた瞬間、彼女はこれでもかと瞳を見開き、顔が真っ赤に染まる。
エスティアが驚きで声を漏らそうとした瞬間、シュティレは唇と唇の隙間を塞ぐように後頭部へと手を回した。そして、うっすらと開いた彼女の口内に魔力を大量に孕んだ唾液を流し込んだ。
「んん……っ!?」
喉を上に向けていたエスティアは抵抗する間もなく、流れ込んできた彼女の唾液を飲み込んだ。トロリと果実のような甘い唾液は喉を通り過ぎ、含んだ魔力をエスティアの体中にまき散らしながら胃の中へと消えていく。
スーッと魔力が染み込んだその瞬間、エスティアの体に突き刺さっていた“激痛”という名の刃がこぼれ落ちていく。すると、黄金の瞳に熱が浮かび、くぐもった吐息を漏らし、シュティレの裾をキュッと掴んだ。が、体力の限界が近いようだ。今にでも眠りに落ちてしまいそうな表情をも浮かべている。
その行動にシュティレの口元が思わず緩む。そして、無意識にエスティアのうっすらと開いた口に舌を滑り込ませようとした瞬間――
「もう、傷治ってるわよ」
静かな澄んだ声に、シュティレは大きく肩を跳ねさせ、弾かれるようにエスティアから顔を離す。そして、油の刺さっていない歯車のようなぎこちない動作で声が聞こえた方へと顔を向けた。頭の中に響く“ヤバイ、見られた”という言葉。
エスティアは体力の回復に専念するためだろう、シュティレにもたれかかりながら小さく寝息を立てている。その寝息が首筋にかかってくすぐったくもあり、嬉しくもある。が、にやけている場合ではない。
シュティレはエスティアを一瞥して、“エストのばかっ”と悪態をつく。だが、そんなことをしても意味はない。今はこの気まずさをどうするべきかを彼女は考えながら、おずおずと口を開く。
「あ、あ、お、お姉ちゃん……お、起きて……」
エリザは、微笑を携えているが、その瞳は氷のように冷たい。
「……幻覚系の魔術とかもそろそろ教えないとダメそうね」
「え、えへ……えへへ……」
ため息交じりの言葉にシュティレは乾いた笑い声で答えるしかできない。たとえ、幻覚の魔術が使えても、英雄であり魔術の師であるエリザの前では、シュティレの幻覚魔術などレースカーテン越しに景色を見るのと変わらないものとなるだろう。
エリザは疲れた表情で、目頭を軽く揉む。おそらく、このクジラを動かすにに大量の魔力を消費しているのだ。
「はぁ……別にダメとは言わないわ。でもね、今向かっている……帝国では控えなさい」
その言葉にシュティレは小さく首を傾げた。人前では一応控えようとは思っているが、どうしてわざわざ、エリザは“帝国”と強調するのだろう。
エリザは小さく「知らないか……」と呟くと、困ったように眉尻を下げた。
「帝国はね、私たちみたいな人のことを嫌っている人がとても多い国なの」
その言葉にシュティレは口元を歪める。私たち――つまりは、同性が好きな人間のことを指しているのは明白だ。
ずっと、シャールで暮らしてきて。姉とエリザを見て育ち。それが普通のことだと思っていたシュティレはガツンと心臓を殴られたような気分になった。そして、頭に浮かぶは、“どうして”という疑問だった。
ずっと館に住んでいたとはいえ、暮らしていた村では、エリザと姉のリーベが付き合っていても何も言われなかった。逆に、いつもお父さんに「いつ結婚するんだ?」と言われていたぐらいだ。
キュッと握られた拳を見たエリザは、そっとシュティレの頭を撫でる。
「ずっとシャールに居た貴女には少し考えにくいわよね」
「……変だよ。なんで、その人を好きなだけなのに……おかしいよ」
シュティレの気持ちが痛いほど伝わって来る。それもそうだ。ただ人を好きなだけなのに、そこに同性異性は関係ない。それを変に思う人がいる。理解できなかった。
「そんなこと、気にする人がいるなんて……」
シュティレの深海のように暗い声にエリザの表情が曇る。
彼女自身も、幸せそうにしているシュティレには言いたくなかった。だが、教えずに、帝国で心無い言葉を投げられるシュティレたちを見る方ががもっとツラい。それに、彼女には言わないが、エリザは知っている。最悪――処刑されてしまうこともあると。
エリザは、口を尖らせるシュティレの金髪を優しく撫でながら、口を開く。
「そうよね。でも、その人たちはおかしくないわ」
「……じゃあ、私たちがおかしいの……?」
そう言ったシュティレは、青色の瞳を潤ませ、真剣な表情で問いかけた。エリザは、目元を細めると、首を横に振った。
「おかしくなんかないわ」
「じゃあ、なんで――」
「慣れてないのよ」
「……え?」
エリザの一言にシュティレは呆気に取られた様に瞳を見開く。その表情は“意味わかんない”と言っている。
「嫌いだ、おかしい、っていう人たちはね。私たちのような人を見たことがないの。それに、ダメなことだって教えられてきているから……そうなると、出会う機会は少ないし、先入観も持ってる。シュティレだって、嫌いな人がいるって知って“どうして?”って思ったでしょ? それは、貴女にとっての普通だから。それと一緒」
「でも……」
「だから、帝国に居る間だけでいい。貴女たちが傷つくところを……見たくないの……」
声を震わせ、弱々しく肩を握るエリザに、シュティレはただ頷くしかなかった。
帝国の港から少し離れた人気のない海岸。
鋼鉄のクジラが波と共に海中から姿を現す。その際に大きな音が立つが、人気もないということもあり、誰かが様子を見ることは無かった。そして、クジラは胸ビレを器用に使い、砂浜へと体を乗り上げると、その巨大な口を開いた。
突風のように外気が内部へと流れ込む。
目を覚ましていたエスティアはいち早くクジラから飛び出した。そのまま振り向くと、次に降りようとしてくるシュティレに手を差し伸べる。そしてその手を優しく握り、下ろす。
すっかり治った体でグーッと伸びをし、欠伸をする。その呑気な表情を見せたエスティアも、ここが帝国だと理解すると、表情を暗くさせた。
懐かしい、閉鎖的な雰囲気に作られた息苦しさにエスティアは鼻で笑う。もうこの国には来ないつもりだった。大っ嫌いな生まれ故郷。たしか、ここから生まれ育った村も近い。
「……はぁ」
「エスト? 大丈夫?」
窺うようにシュティレはそう言って、彼女の頬へと手を伸ばしかけて、止める。エスティアはその行動がなにを思っているのか何となく理解した。が、寂しげに笑みを浮かべると、そっと金髪を撫でた。
その撫で方が、いつもとは違い、ぎこちないことにシュティレの表情が曇る。
「大丈夫だよ。少し、懐かしいなって思ってただけだから」
昔と全く変わらない景色。来たくないとは思っていても、やはり、感傷というものが浮かんでしまうのだろ。もやもやとした感情は砂時計のようにゆっくりと溜まり始めている。腰に収まる魔剣の鎖が、僅かに震えた。
この数年で発展した様子がないことに違和感を感じつつも、心のどこかでは、“もう一度見たかった”のかもしれない、とエスティアは自嘲する。
お父さんとお母さんは元気に暮らしているだろうか。きっと捨てた子どもなんて忘れて幸せに暮らしているのだろうか。そう考えて、エスティアは首を振った。
「はぁ、最低だ……」
エスティアがそう小さく呟いた瞬間――
「エストッ!」
「……へ?」
どこからやって来たのだろう。手を振りながら、パタパタと走り寄る茶髪の女性は、その髪をフワフワと揺らしながら笑顔を咲かせている。エスティアはポカンと口を開いたまま固まってしまう。
誰だろうか。どこかで見たことあるような、ないような。そんな感覚が脳裏を撫でる。
そして、女性はエスティアの前まで来ると、呆気に取られる彼女を飛びつくような勢いで抱きしめた。すると、彼女の鼻腔を懐かしい香りが横切る。
「エスト、エスト……会いたかった……ッ」
あまりに突然の出来事に動けなくなるエスティア。他の面々も呆気に取られたような表情で二人を見つめている。たいして、茶髪の女性は力いっぱい彼女を抱きしめながら、顔を上げた。
おっとりとした、たれ目気味の茶色の瞳を潤ませ、ピンク色の唇を震わせる――その姿にエスティアは見覚えがあった。スっと背筋冷たいものが落ちる。
エスティアは女性を見つめながら恐る恐る、口を小さく開いた。
「ま、さか……セメイア……?」
村でいつも一緒に遊んでいた。おっちょこちょいで、泣き虫だった“親友”。数年見ぬ間にすっかり大人っぽくなった彼女は、その言葉にセメイアはパァッと花を咲かせるような笑顔を浮かべる。
その懐かしさに心臓がドキリと跳ね、思わず息を呑む。が、背筋は冷たさを訴えている。どうしてだろう。
「よかった……覚えててくれてた」
ホッと胸を撫で下ろす彼女に、エスティアは懐かしさで心がいっぱいになる。その表情は昔と変わらず、聖母のような優しさを備えていたから。
セメイアは抱きしめていた腕を解き、一歩下がる。そして、もう一度、腕を伸ばしエスティアを抱きしめた。その抱擁は先ほどと違い、まるで壊れ物でも扱うかのように優しく繊細だった。
エスティアは思わず腕を彼女に伸ばそうとして、力なく下ろす。
「エスト……やっと会えた……やっぱり、生きてたんだね。よかった……」
「セ、セメイア……」
セメイアの瞳からは一筋の涙が零れ落ち、エスティアの胸元を濡らす。回された腕はフル、フル、と震え。そのことから、彼女の喜びがこれでもかと伝わって来る。
だがそれよりも、エスティアは“生きていた”と言う言葉に怪訝な表情を浮かべた。最初は比喩だと思ったが、彼女の言葉と涙が、比喩ではないと現していた。
「エ、エスト……その人……誰?」
シュティレの不安げな声に、エスティアは一気に現実へと引き戻され、そっとセメイアの体を離す。その時にセメイアは寂しそうに声を漏らした。が、すぐに申し訳なさそうな表情を浮かべ、一歩下がった。
シュティレは半ば睨むようにセメイアを見つめている。エリザとアリスは、お互いに顔を見合わせ首を傾げている。が、警戒心はヒシヒシとセメイアの体を貫いている。
セメイアは、全員を見回すと、軽くお辞儀をし、眉尻下げながら口を開いた。
「急にごめんなさい。私、セメイアって言います。エストとは同じ村の出身で、その……やっと……あえ、て……ッ」
セメイアはそこまで言って崩れ落ちるように砂浜へと両膝をつく。エスティアは慌てたように涙を流す彼女の前に膝を付くと、そっと震えている肩に手を置いた。その時、魔剣の鎖がジャラ、っと揺れる。
ほとんど変わらない見た目のせいで、エスティアの瞳には小さな頃のセメイアと現在の彼女が重なって見えた。
セメイアは恐る恐るといった感じに顔を上げる。そして、エスティアを映す茶色の瞳からはとめどなく涙があふれ砂浜へと落ちていく。
その表情にエスティアの心臓はこれでもかと強く締め付けられる。
「ご、めんっ……でも、私……っ」
「セメイア……」
エスティアは言葉を続けられなかった。たとえ、なんとなく理解していたとしても、聞くのが怖かった。自分がいなくなった後、どうなってしまったのか。そんな彼女がいったい、どんな気持ちでいるのか。
そんなエスティアの不安を感じ取ったのだろう。セメイアはそっと彼女の頬へと手を伸ばし、笑みを浮かべ――
「エスト、ずっと待ってたよ」
彼女の言葉にエスティアは黄金の瞳を大きく揺らす。その言葉だけで、エスティアは今にも泣きそうだった。
セメイアが静かに立ちあがる。エスティアも釣られるように立ちあがる。
「エスト、貴女に会えたら話したいと思ってたことがあるの。でも、ここじゃ意味がない……一度でいい」
小さく息を吸い込んだセメイア。
エスティアはグッと唇を噛みしめ、瞳を伏せる。そんな反応にセメイアは一瞬だけ寂しげに眉尻を下げた。が、言葉を続けた。
「私たちの村に帰って来て」
その言葉は波風のようにエスティアの心にさざ波を生み出した。




