30 知っているからこそ
「――というわけで、今日から私も同行することになった。エリザ・ロイエよ。よろしくね、エスト」
「……は?」
エスティアが目を覚ましたころには、沈みかかけていた太陽は再び世界を照らしていた。いつの間にか、民家のベッドで横たわっていたエスティアは、起きた直後にそんなこと言われ、訝し気な表情を浮かべ、エリザを睨んでいた。
あの時向けられていた敵意とは真逆の感情を感じ取ったために、エスティアは余計にその瞳に懐疑の色を浮かべる。それを見たエリザは、息苦しそうに笑みを浮かべ、エスティアの次の言葉を待つ。
「さっきはシュティレを取ろうとしてたクセに……なんで、いきなり? しかも、その雰囲気だと、シュティレに全部聞いたんだよね」
棘を含んだエスティアの言葉に、エリザは静かに頷く。
「アンタの仲間を殺そうとしてるんだよ? それでも、来るの?」
「私の命はシュティレに捧げたわ。それに、気になるのよ。王国勇者という人間が、どうしてただの奴隷商人の子たちを殺したのか」
「……シュティレは、いいんでしょ?」
エスティアは、シュティレへと視線を向ける。エスティアは、エリザを仲間に加えるつもりだ。王国勇者であり、シュティレの師匠。そしてなによりも……エリザは奴隷を、商品とではなく「この子たち」と言ってくれた。
他の人が聞けば、単純だと思うだろうが……それだけで、エスティアはいいのだ。ほんの少しでも、彼らを人間として見てくれるだけで、全幅の信頼を寄せるだけの価値があると、彼女は思っているのだから。
「私は、いいと思ってる。というよりも、居てくれた方が心強いかな」
「まぁ、私も、こっちのやりたいことを理解してくれてるなら、こっちから頼みたいぐらい」
エスティアは立ちあがり、エリザへと右手を差し出すと笑みを浮かべた。
「私の名前は――エスティア・リバーモル。まぁできれば“エスト”って、呼んでくれると嬉しい。これからよろしくね、エリザ」
「えぇ、こちらこそよろしくね、エスト」
二人を眺めていたシュティレは小さく笑みを零した。そんな三人を祝うように一陣の春の匂いが風立つ。
――太陽が頂点から少し西に傾く。聖都の中心部にある大都市イアンデルトへと、一人でやって来たエスティアは帰りたい気分だった。
聖都には、貴族や身分の高いものが多く住んでいることで有名だ。しかもイアンデルトには、神族が住んでいる天空の塔があるということもあり、余計に煌びやかな人たちで賑わっている。チラ、ホラ、と勇者らしき人もいるが、そのどれも一目で一級品と分かるほどの豪華な装備を身に着けている。
エスティアは大きくため息をついた。そして“丸腰で来てよかった”と、内心で呟く。そして、エリザに渡されたメモを見つめた。
エスティアは、シュティレがエリザに魔術を教わっている間は暇だろうとエリザに言われ、こうしてお使いを頼まれたのだ。頼まれたものは日用品と食材。渡されたお金と交互に見やったエスティアは、まずはどこから行こうか、と辺りを見回す。
できるだけ、最短ルートかつ、短時間で終わらせたいエスティア。そして、最初に目についた果物屋へと歩みを進めた。
「――ありがとうございましたー!」
明るい店員に見送られ、色とりどりの果実が入った紙袋を抱えたエスティアは店を後にする。そして、次の店へと向かおうとした瞬間――怒号が響き渡る。
それに釣られるように、群衆と共にそこへと顔を向けたエスティアは……小さくため息をついた。
「おうおう! お母さんよぉ、こんな場所うろついてたら危ないぜぇ? とっとと退けや!」
「おいおい、そんなに叫んだらかわいそうだぜ? ほら、隣のボクちゃんもビビってるしさ。くくっ」
そこには、いかにも周囲から弾き出され、グレてしまったような若い青年の二人組。
そして、転んでしまったのだろう。銀髪の女性は地面へとへたり込んだまま、ロングスカート裾を握り締めうつ向いている。子どもだろうか、白い髪の少年は女性を庇うように青年に立ち向かっているが、その表情は今にでも泣き出してしまいそうだ。
そんな彼らを、群衆は遠巻きに見つめるだけで、何もしない。誰でも思うかもしれないが、貴族も例にもれず、面倒事は嫌いなようだ。うんざりとした表情の者も多い。
「……はぁ」
エスティアは本日何回目かのため息をつくと、紙袋片手に青年たちのもとへと歩み寄る。
「ねぇ、そこのお兄さんたち。そこの人、私の友達なんだけど」
首筋に手を当てながら、エスティアが気怠げにそう笑みを浮かべて言うと。不安げにエスティアを見つめる白髪の少年を、一瞥した青年たちは顔を見合わせる……と、大げさに仰け反りながら笑い声を響かせた。
下品な笑い声にエスティアが眉を顰める。すると、気付いた青年の一人が彼女の肩へと手を置き、口を開く。
「あー、いきなり笑って悪いな。んで、お前なに? 友達を助けて、ヒーロー気取りか? あ? うぜぇんだよ、クソガキが」
笑顔から一変。威嚇するように下卑な笑みを浮かべた青年は、毅然とした態度でいるエスティアへと顔を近づけ、吠える。その隣の青年は、茶化す様に「あーあ、お前死んだな」と言って笑う。
「……」
「おいっ! 黙ってねぇで、なんか言っ――てぶっ!?」
無言のままでいるエスティアを、怖がっていると勘違いした青年は、嬉々とした表情で殴り掛かろうとした瞬間、逆に青年が地面へと倒れ込んでいた。困惑した青年は、殴られた頬を抑えながらエスティアを睨みつけた。
「おいっ! 何しやがった!」
「このクソガキ……ッ!」
隣に立っていた青年がエスティアに殴り掛かろうと、詰め寄る。だが、エスティアは表情を変えることなく躱すと、そのまま、青年の顔面に拳を叩きつけ、カウンターを喰らわせる。青年は、痛みに顔を歪めながら後退すると、鼻っ面を抑えながら睨んだ。
立ちあがった青年は、怒りを浮かばせながらもう一度殴り掛かる。
「死ねやぁッ!」
大きく振るわれた拳。エスティアはそれを片手で防ぎ、無言で睨んだ。
青年はその気迫にたじろぐと、助けを求めるために、隣へと視線を移し――言葉を失った。そこには誰もいなかったからだ。遠くの方で駆ける音が響く。
そう、青年は見捨てられたのだ。顔中に脂汗を垂らしながら、残された青年はエスティアへと視線を戻す。
「あ、あはは、はは……」
「次、この人に手を出したら……」
凄むように冷たい声で言い放つエスティアに、青年はブン、ブン、と何度も縦に首を振る。友達にも見捨てられ、勝てないと悟った以上、青年ができることは一つだ。
子犬の様に怯えた表情でいる青年から手を離したエスティアは、そのまま走り去る青年を暫く睨み続ける。
青年の姿が完全に見えなくなると、聖都は普段の生活を取り戻す。眺めていた貴族などたちは、興味を無くしたように立ち去ってい行く。
エスティアは、チラリ、とうつ向いている女性を一瞥すると、ばつが悪そうに瞳を伏せるとそのまま、流れに乗って立ち去ろうと踵を返した瞬間、彼女の紙袋を持っている手とは逆の右手を掴まれる。訝しむように視線を向けると、そこには、笑みを浮かべる白髪の少年。
「お姉ちゃん、助けてくれてありがとうっ!」
パァッと、太陽のような笑顔を見せる少年の姿に、一瞬呆気にとられたような表情を見せたエスティア。が、すぐに微笑みを浮かべると、少年の目線に合わせるように屈む。そして、その雪のように真っ白な髪を撫でる。
「怪我してないみたいでよかった……お母さんも、平気ですか?」
「はい……その、ありがとう、ございました……」
女性は静かに立ちあがると、顔を上げた。エスティアが、その女性の顔を見て、言葉を失う。白く滑らかな肌、恐らく二十歳は過ぎているだろう。髪型さえ変えてしまえば少女のようにも見えるその女性の目元は――白い包帯で覆われていた。
女性を見つめたまま、エスティアは石のように固まってしまう。そして、呼吸すら忘れてしまい、気付いたのだろう。女性が首を傾げる。
「あの、どうかしましたか?」
女性の声で意識を戻したエスティアは、苦笑を見せた。
「いえ、なんでもありません。それでは、私はこの辺で、聖都と言えど、最近は物騒ですからね。お気を付けて」
エスティアは、そう言って立ちあがり踵を返そうとして、踏みとどまり。
「あの……もしよかったら、一緒にお茶でもどうですか?」
そう、言って恥ずかしそうに頬を掻いた。
公園の見えるカフェへとやって来たエスティアと、親子。
コーヒーの香りに混じって、鼻腔をくすぐるのは春の香り。すがすがしいようで優しい草や風の匂いに女性は気持ちよさそうに深呼吸をし、エスティアへと顔を向けた。少年は座っているより遊びたいお年頃の為か、二人の見えるところで遊んでいる。
「その、いきなり誘ってしまってすみません」
「いえ、私も貴女にはお礼をしなければいけないと思っていたので、気にしないでください」
そう言って微笑む女性。ネモフィラのように可憐な笑顔に、エスティアの表情も自然とほころぶ。だが、女性の目を覆う包帯がエスティアの心を奪う。
もしかして、彼女は目が見えないのだろうか。それは病気だろうか、生まれつきによるものなのだろうか、という考えばかり浮かんでしまう。エスティアはそんな考え出さないように細心の注意を払いながら、運ばれた紅茶を一口味わう。
「そう言えば、まだ名前を言ってませんでしたね。私はエスティア・リバーモルです。できれば、エストと呼んでくれると嬉しいです。それでよかったら、お名前を聞いても?」
同じように紅茶を飲んでいた女性が、僅かに動きを止めた後、静かに頷く。
「リーザベル・フェレオルです。気軽にリーザと呼んでください。あと、私に敬語は使わなくても平気ですよ」
「リーザベル、いい名前だね。私のほうにも敬語は使わなくてもいいよ。あんまり敬語で話されるのって慣れてなくて……」
エスティアの商売相手は貴族であり、丁寧な人は敬語で話すが、大体の人は敬語ではない者のほうが圧倒的だった。それにエスティアは、リーザベルに会ったばかりにも関わらず。まるで、同郷の友達のような親近感を感じていのだ。
それゆえだろう。初対面のリーザベルに対しても、自然と笑みを零していたのは。
「ねぇ、エスト……」
話し続けて気が付けば夕日が顔を覗かせ始めていた時。笑顔から一変して、暗い表情でリーザベルは空になったティーカップの縁を指でなぞりながら呟いた。その声は暗く、エスティアはそんな彼女を心配そうに見つめながら、首を傾げる。
「私ね、本当は……怖くて逃げてきたの」
「えっと、それって……」
まるで別人のような暗い声色で呟くリーザベル。エスティアの脳内に咄嗟に浮かんだのは、家庭内暴力だった。だが、顔や腕などの露出部分に傷はなく、纏っている衣類も質素とはいえ清潔だ。違うなという決断に至ると、エスティアはリーザベルの言葉を待つ。
「エストも気になってたと思うけどね……私、生まれつき目が見えないの」
「そう、なんだ……」
「そんなに暗くならないで。確かに不便だけど、皆が優しくしてくれてるおかげで何とかなってるもの」
瞳を伏せたエスティアの手を優しく握ったリーザベルは、口元に笑みを浮かべる。その様子に、エスティアは微かだが、彼女に違和感を感じた。が、すぐに頭の片隅へと追いやると。
「リーザは優しい人に囲まれてるんだね」
そう言ったエスティアの表情は、どこか暗かった。だが声色に変化を見せないようにしていたためか、リーザベルは嬉しそうに頷く。
「えぇ、皆優しいわ……わざわざ私の為に、瞳を探してきてくれたり……でも……」
「リーザ?」
エスティアの手を握っているリーザベルの手が、微かに震える。眉尻を下げたエスティアはそんな彼女の暗さに懐かしさを感じる。そして思う。
恐らく怖がっているのだ、と。小さな時の自分自身と重なって見えたエスティアは、そっとリーザベルの手を握り返した。リーザベルが恐る恐る、伺うように顔を上げる。
「リーザ、実は私も、一時期ではあるけど、目が見えない時期があったんだ」
「え……そうな、の……?」
「うん。最初は普通に暮らしてたんだ。家族や村の皆と楽しく暮らしてた……だけどある日、村に来たお医者さんに言われたんだ“君の瞳は危険だ”ってさ……変なところなんて一つもなかった。普通に見えて、みんなと少し色は違ったかもしれないけど、それでも……普通だったんだ……」
リーザベルは小さく息を呑む。
「それである日、私の手術が眠っている間に行われた。散々、手術はイヤだって泣き叫んでたからね。きっと眠らされたんだろうね……そして、目が覚めた時に――私は一人ぼっちになってた」
夕日に照らされたエスティアの表情に続くように暗い声色が、その悲しさを物語るように思ったリーザベルはそっと、彼女の手を強く握りしめる。
「本当に一人ぼっちだったんだ……初めての世界、全く身に覚えのない場所、周りには誰もいない。その時、悲しいかな……私気付いちゃったんだよね。もしかして、捨てられたのかもって……そう思ったらさ、涙止まんなくて……」
「エスト……辛かったのね……」
「確かに、辛かった……でもさ、その時に私はある人に出会った」
そう言ったエスティアの表情と声が弾んだように明るくなる。リーザベルはその変わりように面を喰らいながらも、話を聞く。
「その人はさ、泣いていた私を黙って抱きしめて“一緒に帰りましょう”って言ってくれたんだ。そこからはずっとその人と暮らして……目の見えない私に生き方を教えてくれた。いつか、目が見えるようになったらと言ってね」
「じゃあ、今もその人と暮らしているの?」
リーザベルの言葉にエスティアは小さく首を横に振った。その表情はどこか寂し気だ。
「ううん。何年か前ぐらいかな……ある日、その人は“目が見えるようになったらどうしたい?”って聞いてきたの」
「なんて答えたの?」
「貴女の顔を見て、お礼を言いたいって言ったの」
エスティアはそう言って思い出す。彼女の“バカな子ね”と言って笑ったあの時の声色を。嬉しそうでいて悲しそうな不思議な声は、余りにも美しくて人間が出せる声なのかと疑ったな、と。
「そんで次の日、ぐらいなのかな……目を覚ました私は――目が治っていたの。その時は私は、嬉しくてさ、ベッドから飛び起きてその人の部屋に行ったんだ……だけど……」
エスティアは自分の瞳を手で軽く撫ぜる。その表情と声から今にでも壊れてしまいそうなほどの危うさを聞き取ったリーザベルだが、かける言葉が見つからず「エスト……」と声を漏らすだけだった。
「……誰もいなかった。まるで、最初から誰もいなかったかのようにもの家の空だった部屋を見た私は、また泣き叫んだ……だけど、あの人が来てくれることは無くて……暫く泣いてた私は数日……っと、ここからはまぁ、また、いつか話そうか。それでね……リーザ、君に聞く――目が見えるようになったらどうしたい?」
「え……?」
エスティアの声はどこまでも優しく澄んでいる。
「怖いんだよね。目が見えるようになって初めて見る景色が……生まれた時からその世界を知っているからこそ、変わるのが怖い。ほんの少しだけどわかるよ。どんなものであれ、変化と言うのは怖いものだもん」
「……わ、わたし……怖いの……みんなの顔を見るのが……目が見えるようになったら、誰も私に優しくしてくれなくなるんじゃないかって……でも――」
リーザベルは小さく息を吸い込み、真正面からエスティアを見つめるように向かい合う。
「私どうしても、見たい景色があるの。いつも優しくしてくれるみんなの顔を。笑顔って何だろう、悲しい顔って何だろう、いろんな“表情”が見たい」
「リーザ……大丈夫。きっと君の家族は、君を待っているよ。君がみんなの顔を見ながら笑うのを、泣くのを……どんな表情だとしても待っている筈だよ」
ポン、とリーザベルの頭を撫でたエスティアがそう笑いかけると、リーザベルは小さく頷き、口を開いた瞬間。
「リーザ。お迎えが来たよー!」
白髪の少年がブランコに乗ったままそう叫び、大きく手を振る。そんな少年の隣には、背が高くがっしりとした体格の青年が立っていた。夕日が射し込んでいるせいで顔は見えないが、夕日に照らされたオレンジ髪の青年は少年のブランコを押しながら、二人を見つめているようだ。
リーザベルは弾かれるように立ちあがると、エスティアへと向き直る。その吹っ切れたような表情を見せるリーザベルに、エスティアの表情が緩む。
「エスト、今日は本当にありがとう! 私、手術受けてみようと思う。だから……またいつかあったら、今度は、貴女の顔を見て、お礼が言いたいわ!」
「リーザ……ッ。そうだね、私も、今度は君の眼を見ながら話したいしね」
「えぇ、絶対、また会いましょうっ!」
リーザベルはそう言って――エスティアの頬へと口づけを落とした。
「……へ?」
呆気に取られるエスティアに微笑むと、リーザベルは速足でその場を後にしていく。去り際に青年がコチラを見つめていることすら気付かないエスティアを笑うように、夕日はゆっくりと沈み始めたのだった。




