18 その左手に希望を握り締め
厄介事という運命の悪戯は解決してくれる者に寄り付く習性があり、それはまたなの名を“神の試練”とも言う。
エスティアは、遥か昔に居たといわれる賢者の言葉を思い出していた。
朝食を食べ終え、食後の紅茶を飲んでいた時にそれは舞い降りた。
バタン! と乱暴に家の扉が開かれ、長い髪を垂らした女性が鬼気迫る雰囲気で呆気に取られているエスティアの両肩を掴み叫んだ。
「勇者様ッ! ルトとラーラを知りませんかっ!」
半ば悲鳴のようにそう言った女性が顔を上げる。エスティアはその女性に見覚えがあった――双子の母親だ。昨日話した時の温厚な表情とは正反対の表情をしていたせいで、気付くのに半歩遅れたが、気を取り直したエスティアは彼女を落ち着かせるために水の入ったコップを渡した。
取り乱しかけていた母親はその水を一気に飲み干す、と肩で荒い呼吸を繰り返し、泣きそうな表情で床に膝を付いた。
シュティレはそんな母親の背中を摩り、声をかける。
「いったい……何があったんですか」
「二人は……いつも……村の見回りと言って、毎朝友達の家に行くんです……ですが……っ」
母親は縋るような視線でシュティレを見つめ、絞り出す様に言葉を続けた。
「いつまで経っても帰ってこないし……そしたら……隣の子が――二人は森に行ったって……ッ! 森には行くなと言ってあるのですが……心配で……っ」
そこまで言葉を続けた母親は、床にうずくまるようにしその瞳から涙を零した。エスティアはシュティレに目くばせをすると、母親の前に片膝を付き微笑む。
「分かりました。お母さんは休んでいていください」
エスティアは母親の肩に手を置き優しく言葉をかけ、魔剣の鞘を一撫でしてから立ち上がった。
「私とシュティレで森に探しに行きます。あなた達は農場の中と周辺を探してください。絶対にあなた達は森に入らないでください」
「わ、わかりました。では、すぐに指示を出します。お二人もお気をつけて」
彼が言い終えると同時にエスティアは頷く、とすぐさま森へと駆け出した。
――小さな姉妹は、穏やかな木漏れ日射し込む森を全力で駆けていた。
どのくらい走っているのだろうか。小さな体に貯蔵されている体力はとっくのとうに尽きている。だが、少女たちは“止まれなかった”。ルトは泣きじゃくる妹の片手を引きながら前を向き続ける。
そんなラーラの左腕の中にはブルブル、と震える子猫が抱かれていた。
姉妹は酷く後悔していた。「森には入るな」と口を酸っぱくして言われていたにも関わらず、森に入っていく猫を追って入ってしまった軽率さにルトは悔し涙を流した。
そしてルトは先ほど見てしまった凄惨な光景を思い出してしまい、顔を真っ青にしながら走り続ける。
猫を追って森に入ってしまうまでは良かった。すぐ戻ればいいと二人は思っていたからだ。だが、子猫を咥えた猫の不審な行動を見てしまった――母親らしき真っ赤な猫が“自分の子どもたちを食い荒らしている”光景を。
そして、真っ赤な毛並みだと思っていたそれが“子猫の鮮血”だということを、彼女は理解してしまったのだ。
そして、逃げ延びた子猫を抱きかかえたラーラを――そのバケモノはニヤリと、口を三日月のように裂いて笑ったのだ。その瞬間、ルトは妹の手を引いて走り出していた。
「はっ……ハァ、ハァ……ラーラ! だ、大丈夫だからね!」
「ハッ、ハッ、う、うん……」
まだアレは追いかけて来ているのだろうか。ルトは振り向こうとしてやめる。今はとにかく逃げるしかない――背後からの足音のようなものは響いている。つまりはそういうことだ。
恐怖で立ち止まりそうになってしまう。だが、左手に握る温もりが彼女に走り続ける勇気を与える。
「お、お姉ちゃん! き、来たよ!」
ラーラの緊迫した声にルトは歯を食いしばり、スピードを無理やり上げた。そして、ラーラは肩越しに振り向いてしまった。
バケモノが姿を現す。元は美しかったであろう、ピンクゴールドの長い髪を振り回し、猫のような体つきのソレは、木々を飛び移りながら地面へと着地し、それは満面の笑みを携えながら駆ける。そんなバケモノの髪の間から覗いた赤色の“人間の瞳”がラーラの視線と交わる。
そして、ラーラは感じ取ってしまった。アレが――楽しんでいるということに。まるで猫がネズミをいたぶるようにアレはわざと二人の恐怖を助長させるために、絶妙な距離を保っているのだ。
「――ひッ!」
「ラーラ! 振り向かないで!」
ルトがそう叫んだ瞬間――二人は足を滑らしてしまい。悲鳴を上げながら崖へと落ちていく。それを追うようにバケモノも崖を駆ける。
大人からしたら大した高さではないが、少女たちにとっては脅威だ。打ち所が悪ければ大けがは免れないだろう。ルトは崖を滑りながらラーラを守るように強く抱きしめた。
抱きしめられたラーラが叫ぶ。
「お姉ちゃん! このままじゃお姉ちゃんがケガしちゃう!」
だが、ルトは「大丈夫だから!」と叫び、抱きしめる腕の力をより強くするだけだった。二人でそのまま落ちれば二人ともケガをしてしまう。ルトは“私はお姉ちゃんなんだ”と自分を鼓舞しながら、小石や生えてる枝に斬り裂かれる皮膚の痛みを必死に耐える。
だが、現実は残酷だ。遊ぶことに飽きたバケモノがいつの間にか二人に飛びかからんと跳躍していた。大きく開かれた口内で鈍く輝く真っ赤に染まった鋭い牙を見せびらかす様にバケモノが微笑んだ。
ラーラはグッとそれを睨みつけると――大切な姉を守るように左手をバケモノへと翳した。ラーラの左手が淡い光を帯びる。
いつも守られてばかりのラーラ。同じ日に生まれ、少し遅く生まれただけの彼女をルトはずっと守ってくれていた。
だが彼女たちは双子だ――守りたいという気持ちは等しい。光に希望を乗せてラーラが高らかに叫ぶ。
「お姉ちゃんを――守るんだぁぁぁあああっ!」
左手が彼女の勇気に応えるように一層光輝いた。
少女に牙を剥いたバケモノは不思議そうに喉を鳴らす。まるで少女たちを守るように現れた“小さな盾”はバケモノの牙を受け止め、彼女たちに届くことは無かったからだ。
ラーラは困惑の表情を浮かべ、盾を見つめる。だが、自分を抱きしめていた腕の力が緩んだことにより、一瞬だけ気を逸らしてしまった次の瞬間――まるで散らばるように半透明の盾が消え去る、と同時に左手の輝きが失われていく。
「……あ、そんな……っ」
ラーラの瞳に絶望が幕を下ろす。だが、あきらめきれない少女は最後の希望をかき集めるように左手を握り締めた。
喜色の笑みを浮かべたバケモノの牙がラーラの左手を食い千切るまであと一歩のところで――少女は希望を掴み取った。
「私の友達に――なにしてんだぁぁぁあああああッ!」
旋風のように振るわれた漆黒の闇に包まれた刃が、バケモノの頭部を捉え――吹っ飛ばされる。
ラーラはその光景を最後に「ゆうしゃ……さま……」と嬉しそうに呟き、意識を失った。少し遅れたシュティレはすかさず二人を抱きかかえると、華麗に地面へと着地し、二人が生きていることを確認した。
「エスト! 怪我してるけど二人は大丈夫!」
遅れて魔剣を握り締めたエスティアが着地し、バケモノが吹っ飛んだ場所を睨みつけながら、その言葉にホッと安堵の息を吐き出した。
だがすぐに、険しい表情を浮かべた。アレは恐らく先日のバケモノと同じようなものと直感したエスティアは魔剣を構える。
「シュティレ……二人をお願い」
「わかった。私も援護するから、無理だけはしないで……」
「……うん」
瓦礫から現れたバケモノがゆっくりと現れる、と同時にエスティアは一歩踏み出した。
『――ッ!?』
「ハァッ!」
一瞬でバケモノとの距離を詰めた彼女は思いっ切り魔剣を振り上げた。バケモノは反応する間もなく下顎に魔剣の刃が直撃。だが鋼鉄のように固い皮膚は魔剣でも斬り裂くことはできず、バケモノの体が大きく仰け反る。
エスティアは自分の手の甲の皮膚が裂けるほど強く柄を握ると、一気に魔剣の魔力を放出し――自身を車輪のように高速回転しながらバケモノの剥き出しになった腹部に魔剣を振るう。目にも止まらぬ速さで繰り出される連撃にバケモノは悲鳴すら上げることができない。
「これでぇぇぇッ! ぶっ壊れろぉぉぉぉおおおおッ!」
ドッ! と、天高くまで打ち上げられたバケモノを追って彼女が地面を蹴る。そして、漆黒の魔力と彼女の体から流れ出た“血”を纏った魔剣がバケモノを大地へと送り返すように振り下ろされた。
いくつもの衝撃波を起こしながらバケモノはそのまま地面へと墜落させた。地面にバケモノを中心とした巨大なクレーターが出来上がり、その周辺の地面にも亀裂が伸びた。
『ニャ、ガ……ッ』
「ハァ、ハァ……これで……死なない……の……ッ」
体中を血まみれにしながら地面へと着地し膝を付いたエスティアは、肩で呼吸をしながら吐き捨てるように呟く。彼女は文字通り木っ端微塵にするつもりだったのも関わらず、生きていることに苛立ちを隠せない。
「エスト! 危ないっ!」
シュティレがそう叫びながら右手に握りしめていた、岩石のように魔力を固め先端が槍のように尖ったソレを立ち上がったバケモノへと放った。だが、バケモノは猫の様に身を翻しソレを躱そうとするが――その魔力はバケモノを執拗に追いかけ、着弾。爆発音が響いた。
その間に彼女はエスティアの傷を回復させる。流れ出た血液を戻すことはできないが、彼女はそれだけで十分のようだ。ユラリ、と立ち上がった彼女は体勢を低くし爆風の中から飛び出してきたバケモノの懐へと飛び込んだ。
魔剣が彼女の血で真っ赤に染まった深紅と漆黒の混じった刃がバケモノの肩口に突き刺さる。
「封滅――血破ォォォォオオッ!」
血を喰らった魔剣はその鋭さを増した刃でバケモノの鋼鉄の皮膚を斬り裂きく。まるで“鮮血の変わりだ”とソーセージの中身が飛び出す様にミンチ状の腐った赤黒い肉が血のように流れ出た。
むせ返るほどの腐臭がエスティアを包むが、彼女はそのまま全体重をかけてバケモノの右前脚を斬り飛ばした。
『シャァァァアアアアアッ!?』
痛みに悲鳴を上げながら距離を取ったバケモノ。傷口から流れ出たミンチ状の肉が蠢くと、それは新たな前足を形成した。
あまりにもおぞましい光景と仕留めるつもりの攻撃を、うまい具合に躱されたことにエスティアは黄金の瞳を細めた。
そして、今の攻撃で使った血液がバケモノの“肉”に吸い取られてしまった。魔剣が今までに吸い取った魔物の血を攻撃に回してもよいが、また吸い取られたら……と彼女は考え、魔剣の血を使うのは断念し、もう一つの案を使う為に口を開いた。
「……シュティレ、強化の重ね掛けって、できる?」
「え……!? で、できるけど……そんなことしたらっ!」
強化された体を、もう一度強化すれば絶大な力は手に入るだろう。だが……それは諸刃の剣。下手をすれば死ぬ可能性もあるだろう。
シュティレは戸惑いの表情を浮かべ、右手を左手で押さえる。そんな彼女にエスティアは苦笑交じりに呟いた。
「大丈夫。“十秒以内”に終わらせるから」
「……わかった。十秒経ったら、問答無用で今かけてる分も含めて解除するからね」
「りょーかいっ! ありがとう、シュティレ」
「……むぅ――強化」
シュティレの右手から放たれた光がエスティアの体を包む、次の瞬間――彼女は全身を駆け巡る痛みに耐えるかのように咆哮を上げた。それはまるで、獣のようだ。
「オォォォオオオオオッ!」
呼吸をするだけで全身の筋肉が悲鳴をあげ、軽く柄を握っただけで手の皮膚がズタズタに引き裂かれ、黒ずんだ籠手の隙間から流れ出た鮮血が彼女の手と魔剣を濡らし、魔剣が歓喜の雄叫びを上げるように魔力を垂れ流し、干からびた地面をボロボロに風化させる。
秒針が動く。
エスティアはそのままの体勢で予備動作も見せず――一瞬でバケモノの目の前へと現れる。
『――ナッ!?』
人間のような声を発したバケモノは困惑の表情を浮かべながら、出来立ての前足を振り上げた――その瞬間、腕は縦真っ二つに斬り裂かれていた。バケモノは驚愕に瞳を限界まで見開く。
だがその瞳も、次の瞬間には横に斬り裂かれていた。魔剣の刀身には赤黒い液体が滴っている。
『ア、ア、タ、タスケ……』
バケモノの頭に“恐怖”という感覚が作り上げられてしまった。それ故にバケモノは一歩、また一歩、と後ずさるように動き助けを求めるように見回す様に首を動かした。
だが戦場にてその行為はこれ以上にないほどに“愚かな行為”だった。
「今更、人間のフリをしてんじゃねぇよ」
冷たい声がバケモノの耳に届くよりも速く――バケモノの頭部が宙を舞った。
エスティアは振り下ろしていた魔剣を軽く振るった。それだけで、目で捉えることすらできない無数の斬撃がバケモノの体を粉々に切り刻む。
バケモノは最後の言葉も、音も、光景をもその脳内に刻み込む前に黒い塵となり、この世界から消滅していった。
「――じゅう……びょ……う……き……っかり」
「エスト!」
エスティアはそう言ってシュティレまで歩み寄り――カラン、と魔剣から手を離し彼女はそのまま地面へと倒れ込んだ。
そんな彼女をシュティレは優しく抱き留め、回復魔法をかけながら、そっと背中を撫でる。
「エスト、お疲れ様」
エスティアの頬に口付けを落としたシュティレは、彼女を少女たちの隣に寝かせ、立ちあがり――
「シールドッ!」
風の膜が彼女たちを守るように展開。その膜は、木陰から飛び出してきた三つの黒い影を弾き飛ばした。
スタン、と着地した五体の黒い毛並みのオオカミ――グリーンランクのウッズウルフは唸り声を上げ、シュティレが展開したシールドの周りを取り囲む。
シュティレの表情が険しくなる。グリーンランクと言えど、それは“一体のみ”であればの話だ。三体以上の群れが形成されている場合からは、ブルーランクと認定される。
ウッズウルフが四方から一斉に飛びかかった。
シュティレは慌てず、冷静に魔力を操作すると、膜の表面が変形し、無数の針山となって飛びかかったウッズウルフを串刺しにしていく。だが、それで仕留められたのは四体だった。
「一匹残った……」
悔し気に奥歯を噛みしめる。もう魔力が残り少ない……彼女はフゥ、と息を吐き出すと右手を翳した。表面に棘を形成していた膜が、その棘を弾丸のように放つ。
ウッズウルフは必死に回避しようとしたが、無数に襲い掛かるそれに、足を打ち抜かれ、体を貫かれ、頭蓋骨の奥にある根幹も打ち抜かれ地面へと倒れ込んだ。
とりあえずホッと胸を撫で下ろしたシュティレは周囲の警戒魔法を続行しつつ、地面に手を置き魔力を流した。
「うーん。全員を運ぶには……あ、これにしよ」
魔力が流れ込み地面がブクブク、と盛り上がり、瞬く間に干からびていた地面は、頭に二本角を生やした巨大な魔物を創りあげた。それは、彼女に服従するように跪く。
シュティレは自分の魔力がゴッソリ減ったことにより、疲労感が一気に押し寄せるが、気を取り直し魔物の肩に乗り指示を出す。
魔物はまるで壊れ物でも扱うように、スヤスヤと眠る“無傷”の三人と子猫を両手で持ち上げると――農場へと向かって歩みを進めた。




