16 早産
農場へとやって来た二人は、その光景に絶句する。
魔物除けの鉄策は無理やりこじ開けられたようにひしゃげ、同じようの意味合いであろう案山子は首元から折られ、体は鋭い爪で引き裂かれたかのようにズタボロにされている。
多くの果実がなっていた木はズタズタに引き裂かれ、辺りには食べかけの果実が無造作に転がっていた。どれも一口かじっては捨てていたようだ。
そして、何よりもそこで働いている農家たちは今にも死にそうな表情で、全く腰の入っていない動作で鍬を振るい。ボーっと座り込み、曇り空を眺める人。皆一様に覇気のない――全てをあきらめたような表情でいる者ばかりだ。
「これは……」
エスティアはそっと拳を握り締める。故郷と重なって見えてしまったせいもあるだろう。対して初めて見る光景にシュティレは言葉を失い立ち尽くす。
そんな二人に気付いた一人の麦わら帽子を被った中年男性が、覇気のない表情で近づいてくる、と声をかけた。
「すまねぇな。今年は見ての通りジャムは売ってねぇんだ」
よく日に焼けた顔と、しっかりと盛り上がった筋肉。たくましい体つきの彼は吐き捨てるように二人にそれだけ告げると踵を返す。
エスティアは咄嗟に彼を呼び止めると、彼は怪訝な表情を浮かべる。
「あ、あの……魔物に襲われたんですよね……?」
「……なんだ、おめぇら勇者か? ランクは何色だ」
「ブルーランクです」
エスティアの返答に彼は鼻で笑う。それを不快に思ったシュティレが抗議しようとするのを、彼女は片手で制し、言葉を続けた。
「ブルーランクでは手に負えない魔物なのですか?」
「はんっ、そうさ。あのクソ野郎はてめぇらみたいなガキはすぐに食い殺されちまうだろうさ。だから、そこにある森には入らねぇ方が身のためだ。お前みたいな勇者が何人か入ってたが、みーんな殺されたからな」
そう言った彼は右手が震えるほど強く握りしめ、怒りをあらわにした。だがその声色は酷く暗く、深い後悔も現していた。
魔剣の鎖が震える。彼の怒りに反応しているのだ。エスティアは彼に気付かれないように、魔剣に触れる。
「俺の……息子も殺された。だから、あの森には行かない方がいい……」
声を震わせ、今にも泣きそうな表情で彼がそれだけ告げると、今度こそ畑の奥へと去っていた。エスティアは彼にかける言葉が見つからず、そのまま奥歯を噛みながら伸ばしかけていた手を下ろした。
大切な人を失うのはとてもツラいことだ。あの魔物がいる限り、あるかもわからない死体を探しに行くことすらできない。それがどれほどツラいか……エスティアは隣に視線を向けた。
「森に行こう。いい?」
「いいに決まってる」
頷き合った二人は、彼が睨みつけていた森へと向かった。
森へとやって来た二人は、異様な雰囲気に包まれた森に表情を強張らせた。
曇り空のせいで薄暗いというのもあるかもしれないが、淀んだ空気が二人の気持ちを陰鬱とさせる。外と別世界のようだ。
「ねぇ、なんかおかしいよここ……鳥の声もしないし……」
シュティレは辺りに魔力を巡らせ警戒する。どこかに隠れてしまったのか、動物の気配が全くないのに加え、森の外では吹いていた筈の風がピタリと止んでいることに不安が蓄積されていく。木に阻まれているというのもあるかもしれないが、まるで怯えたように全く風が吹いていない。
隣に視線を向ければ、彼女も険しい表情で森の奥を眺める。
「……注意していこう」
「うん……」
少し歩けば、魔物のだろうか、クマのような大きな足跡らしきものはすぐに発見できたので、それを頼りに警戒しつつもドンドン奥へと歩みを進める。その間も、妙な緊迫感が二人の神経をすり減らしてく。
進めば進むほど、鬱々とした空気の濃度が濃くなり息苦しく感じてくる。それに比例するように魔剣が“近いぞ”と言いたげに魔力を鞘から滴らせる。二人はそんな魔剣に表情を苦くしながら、とある小川の前で立ち止まった。
「足跡が途切れてる……どこに行ったんだろう」
最後の足跡に手を当てながら、エスティアは慎重に見回すが……方向転換をしたような形跡もなければ小川の向こうに足跡もない。足跡からして木登りが出来そうには思えない。必然的に彼女は茂みをつついたりしながら探し回る。
だが、辺りに魔力を巡らせていたシュティレが何かを感じているらしく、キョロキョロと辺りを見回す。なんだか魔力の巡りがイマイチだ。何かに阻害されているような。そんな彼女にエスティアが歩み寄ろうとした瞬間――
魔剣が持ち主を守るように一気の魔力を放出する。黒い霧状となった魔力は頭上から落下してきた塊を弾き飛ばした。
「な……っ!?」
ゴロゴロ、と地面を転がったのは“頭部がない青年の死体”だった。健康的に日に焼けた体は鋭い爪で引き裂かれた様にボロボロで、殺されてから数日経ってしまったのだろう。こびり付いた大量の血は赤茶色に変色している。
エスティアはすぐさま、魔剣を鞘から引き抜き、青年の死体を片手で引っ張りその場から離脱。
背後に立っていたシュティレの後ろに死体を横たわらせる、といまだ姿を現さない“ソレ”がいるであろう場所を睨みつける。
シュティレは彼女に強化の魔法をかけると、不可視の弓を構える。
サァ、サァ、と不穏な風が吹き始める。
黒く淀んだ、常人が吸い込めば吐き気を催すような空気。
ガサリ、と小川の脇に生えていた大木が大きく揺れた。
ドスン、とその大木がまるで胎児を堕とすように暗い苔色の毛並みのナニカが姿を現した。
『グルル……』
低いうなり声を上げながら、ザクロのように爛々と輝く真っ赤な瞳を左右別々に動かしながら二人を睨みつけるのは――グリーガだった。ブルーランク程度の魔物で、二人に掛かれば障害にすらならない魔物だ。
だが二人の表情は険しいままだ。そっと、エスティアは魔剣を構え、シュティレを庇うように立つ。そして魔物を睨みつけたまま口を開く。
「シュティレ、なんかコイツおかしいよ。気を付けて……」
「うん、わかってる。エストもあんまり無理しないで」
ピンク色の血混じった唾液を半開きの口から垂らしながら、窺うように首を痙攣させるそれは、通常のグリーガとは大きくかけ離れた容貌だった。赤茶色に染まった爪で地面を蹴りながら、グリーガが駆け出した。
まるで狂ったかのように涎をまき散らし、垂れた舌を振り回したグリーガはドスン、ドスン、と魔剣を構えたまま立っているエスティアに鋭い爪のついた太腕を勢いよく――振り下ろした。
だが彼女は動かない。その表情に微笑を浮かべて。
「貫けっ!」
シュティレから放たれた一本の風の矢が、振り上げられていたグリーガの太腕を貫いた。そして彼女の「弾けろ」の合図で風の矢が、破裂音と共に弾ける。
その衝撃でグリーガの肘から先を木っ端みじんに吹き飛ばした。無数の風の刃で傷つけられた傷口からはどす黒い鮮血が雨のように溢れ出し、辺りに“腐臭”が立ち込める。
グリーガは痛みを感じてはいない様子だが、弾けた際に生じた勢いによって上体を逸らした。
「はぁぁぁぁああっ!」
その瞬間グリーガの喉元に赤い葉脈のような模様が浮き出た黒き刃が襲う。刀身に黒き魔力を滴らせた邪悪な剣。だが、グリーガはギョロギョロと、瞳をハチャメチャに動かすと、その獰猛な牙でその刃を受け止めんと大口を開いた。
刃と牙が衝突した音が響く。だが、それはほんの一瞬のことで、例え様子がおかしいと言っても所詮はブルーランクの魔物。
黒き刃は障害など感じさせないほどにあっさりと牙を斬り裂き、グリーガの頬肉を斬り裂いた。エスティアはそのまま素早く手首を返し、目にも止まらぬ速さで魔剣を振るい、グリーガのもう片方の頬肉を斬り裂き、その顔面を起点に跳躍し、距離を取った。
『グラァァァアアアッ!』
顔面半分をどす黒く染めたグリーガは、今にも地面についてしまいそうな下顎をぶら下げ、憎悪の篭った唸り声を上げた。
トン、とつま先で地面をつついたエスティアは静かに魔剣を構える。様子がおかしいので警戒していたが、この調子ならすぐに倒せる、と確信した彼女は体勢を低く構え――
『オォォ……ガァッ……ッ!』
「こ、今度はなに……?」
突然、苦しむようにグリーガが呻き声を上げながら、激しく地面に顔を打ち付ける。打ち付けるたびに牙が砕ける音や、骨が潰れる音、肉が引き千切れる音が響き、二人は呆気に取られたようにその光景から目が離せなくなる。
真っ赤な瞳が小石に当たり潰れ、ゼリー状の液体が地面を濡らし、不快な臭いが強まる。誰がどう見たってあの魔物が生きているとは思えないほどに頭部はグチャグチャに潰れている。だが、まるで振り子のように地面に顔面を打ち続ける。
『ギ……アァァァ……ト……ンッ』
打ち続けた結果。もう見る影もないほどにグチャグチャに潰れた頭部だった部分から、呻き声を漏らす。それは先ほどまでグリーガが発していた声よりも数トーン高く、弱々しい。
喉があった部分からビリビリ、と破くような音が響き、まるで、子どもが殻を破るように内側から何かが這い出ようとしている。言いようのない寒気が二人を襲う。
『トトトト……ン……ギガァ……ッ』
喉元の傷口が大きくなるたびに、その声が鮮明に届く。
エスティアは魔剣を握る手を震わせながら、睨みつける。あれは殺さねばならない。あれは、魔物ではない……“バケモノ”だ。この世に生まれていいものではないと本能が警報を鳴り響かせる。
だが――体が動かない。体があれに近づくことを拒否しているのだ。近づけば酷い目に遭う、逃げなければと体が訴える。彼女は細く息を吐き出す。
「大丈夫……大丈夫……っ」
こんなところで止まるわけにはいかない。表情を険しくさせ、彼女は駆け出した。
「ハァァァァァアアアアアッ!」
黒い魔力を帯びた刃を生まれようと蠢く肉塊に振り下ろした瞬間……それは叫んだ。
『トォォォォサァアァン、タスケテ……』
――ピタリ、と振り下ろしていた刃を寸でのところで止める。エスティアは困惑の表情を浮かべ、固まってしまう。
今、この肉塊は“言葉”を発したのか。彼女が停止したことにより、肉塊に潜むソレが姿を見せた。
裂け目から半透明の白濁した三本指の手を器用にひっかけ、こじ開けるように見せた正体を覗かせたソレには――顔が無かった。まるで真っ白のキャンパスのようにまっさらなソレは喉と思わしき部位を震わせ――
『タタタスケテテテテ……タタタスケテ……テテテ?』
発音も音程もめちゃめちゃなそれだが、辛うじて言葉を紡ごうとしていることが分かったエスティアは不快感を露わにする。
「コイツ……ッ!」
『タタススケテ……タスタス、テテテ』
「どこから声を出してんのか知らないけど……殺す」
彼女の言葉を理解していないのだろう。ソレは小首を傾げながら先ほどと同じ言葉を紡ぎ続ける。彼女は魔剣を振り上げ――一気に振り下ろした。
だが、その黒い刃が届くことはなかった。
「エスト! 危ないっ!」
「――おわっ!?」
その瞬間――ソレの母体であったグリーガの体が破裂し、肉片が辺りに四散する。その光景に地面に尻餅をついたエスティアは絶句する。
もしあのまま魔剣を振り下ろしていたら、衝撃に巻き込まれ大怪我は魔逃れなかっただろう。
そして、肉塊という殻から解き放たれた“バケモノ”は地面に這いつくばるように二人を見つめている。
「――貫け」
弓を構えたシュティレがそう呟くと同時に、音速を超える速度で射出された風の矢がバケモノの頭部を打ち抜いた。
『ギャ……ッ!』
風の矢が頭部を貫くと、まだ足元もおぼつかないバケモノが耐えられるはずもなく後ろに吹っ飛び大木の幹に衝突した。その衝撃で幹にスタンプのようにバケモノの形にへこむ。
だがまだ死なない。バケモノは呻き声を上げながらシュティレに顔を向ける。パーツが一つもない顔だが、彼女を恨めし気に睨みつけていることは火を見るよりも明らかだ。
『タスケ、タスケ……トォォサァン』
バケモノは走り出す。手足を使い走る姿は獣のようだが、速度は遅くエスティアは容易にシュティレを庇うように間へと踊り出て魔剣の切っ先を向けた。そして槍で突くように動かした。
走り出したはいいが、止まる術を知らないソレは自分から突っ込むように黒い刃へと向かい――大口を開いた。
「は……?」
なにも無かった顔に“口”というパーツが瞬時に作り上げられ、その黒い刃に噛みついた。鋭い牙が魔剣を受け止め、それ以上刃がバケモノの体に突き刺さることは無かった。エスティアの表情が凍る。
バケモノの目が創りあげられ、茶色の“人間の瞳”で彼女を睨み――笑みを浮かべた。
バケモノが刃に噛みついたまま、枝のように細い三本のかぎ爪がついた腕を彼女へと伸ばした。
彼女が反応する間もなく、さも当然の如く振るわれた細腕は彼女の左肩口から右わき腹へと斜めに斬り裂いた。
「あ……が……ッ」
傷口から真っ赤な液体が川のように流れ出る。心臓を守る肋骨全てが斬られ気絶しそうなほどに強烈な痛みが体を駆け巡る。だが、そのおかげで心臓は守られた。血の気のない表情で彼女は嬉しそうに笑うバケモノを睨みつけるが、それだけで精一杯だった。
バケモノは彼女が苦しむ姿を観察するようにそのまま動かない。
エスティアとバケモノは膠着状態へと移行する。
「エスト!」
青ざめた表情でシュティレはそう叫ぶと回復魔法をかけるが――ガラスが割れる音と同時に彼女の魔力が砕け散る。
それはまるで、彼女の魔法が弾かれるように。なら直接、と彼女が駆け寄ると、バケモノから漏れ出た醜悪な魔力が壁のように行く手を阻まんと立ちふさがる。
立ち止まった彼女は奥歯をかみ砕いてしまいそうな強さで噛みしめる。
「私は……また……ッ」
だが今回は違う。彼女は両手を天へと翳す。無理に壊さなくていい……今の彼女の実力では確実に壊せるかもわからない程に濃密な魔力。だが所詮は壁だ――超えればいいだけの話だ。
大量の魔力が彼女を取り囲み、それはらせん状に伸びる二本角が生えた“風の魔物”を形創る。巨大な風の槍を握り締めたソレは轟くような咆哮を上げ、禍々しい魔力で創りあげられた壁に手をかけ、覗き込むようにバケモノを睨みつけた。
「――壊してっ!」
そう彼女が指示を出せば、風の魔物は槍を振り上げ――バケモノの頭部へと振り下ろした。
『ガギャッ!?』
エスティアに気を取られていたバケモノは全く気付くことなく槍に頭部を貫かれ、悲鳴をあげた。だが風の魔物は止まらない。突き刺した槍を両手で握りしめ、押し込む。風の槍はバケモノの頭部を貫通し、地面へと突き刺さる。
そして風の魔物はまるで、鍋の中のスープでもかき回す様に突き刺した槍を動かす。バケモノは悲鳴のような物を上げながら、噛みついていた魔剣を吐き出し刺さっている槍を引き抜こうと両手で槍を掴む。
だが風の槍に触れた瞬間、バケモノの肉体はミンチ状になって跡形もなく消え去る。槍の形を形成していた風が斬り裂いたのだ。バケモノが驚愕の声を上げる、と同時に――力尽きたのだろう。ぐったりと力なくバケモノは項垂れると、その体が砂のように風化し消えていく。それと同時に役目を終えた魔物も弾けるように消えていく。
「エストッ!」
地面に倒れ血だまりを作る彼女に駆け寄ったシュティレは、そっと抱き上げた。
「……シュ……ティレ……」
「エスト! 大丈夫だからね? 今治してあげるから!」
苦しそうに荒い呼吸を繰り返す彼女の傷口に手を翳し、回復魔法を行使する。するとすぐに、斬り裂かれた皮膚や骨は自我を持ったかのように動き、治療を開始する。
傷口が蠢くたびにエスティアは必死に我慢しようとしているが、苦しそうに声を漏らす。シュティレは同時に鎮痛魔法も使用するが、効きが悪いのか逆に表情を険しくさせる。
「エスト……」
鎮痛魔法は、体内に入り脳に魔力が流れることで初めて効果を発揮する。こうして体表に魔力を流していては気休め程度にしかならない。
シュティレはキュッと口を結ぶ。そして若干頬を染めながら、そっと苦しそうに浅い呼吸を繰り返す彼女の頬に片手を添える。
「エスト……ごめんね……」
そう小さく呟き――シュティレはそっと彼女の唇に自身の唇を押し当てた。そのまま彼女の薄っすら開いた口を舌でこじ開け、魔力がたっぷり詰まった唾液を彼女の口内へと流し込む。
シュティレは“治療の為”と言い聞かせ、自分を支配しようとする快楽を必死に抑え込みながら、彼女に魔力を流し込み続けた。
シュティレのおかげですっかり傷が治ったエスティアは、気まずそうにうつ向く彼女の頭を撫でると、横たわる青年の死体に体を向けた。その表情は悲愴を浮かべている。
「これが彼の息子だったら……」
彼女は暗い声色でそっと呟く。シュティレはそんな彼女の肩に手を置き、重たい口を開いた。
「どんな状態でも、あの人は帰って来ることを望んでるよ。じゃなきゃ……認められないもの……」
「シュティレ……」
エスティアはそっと青年の死体を抱き上げる。強化された体では全く重みは感じなかったが、彼女の心は鉛のように重かった。




