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宇宙の騎士の物語:個人の前歴;停止中  作者: 荻原早稀
カノン・ドゥ・メルシエ
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8. アニェス

 すべてを持って生まれた、といわれる。

 血統、階級、富、家族、美貌、健康、才能、将来、あらゆるものが与えられている。

 人々にそろっていない様々な物がそろえられ、人々が望んでも得られないたくさんの物を持っている。

 だからこそ、持たざる人々のためにそれら数々の与えられたものを生かさなければならない。奉仕しなければならない。義務を果たさなければならない。

 左様なものか、と思って生きてきた。いわれるがままに、なすべき努力をなし、出すべき結果を出してきた。

 カノンは帝立学院幼等部三年生がもうすぐ終わろうとしていた。

 帝立学院は九月から新学期が始まる。七月半ばのこの季節、カノンたち幼等部の子供たちは学年最後の試験が終わったタイミングだ。この後は成績に応じて二週間の補習期間が設けられ、その後休みに入る。

 帝都生まれ帝都育ちのカノンにとって、年度替わりの休みにどこかに帰省するというイベントは無縁だ。

 七月は夏、というのは宇宙時代にはそぐわない。あくまで地球の暦に合わせて作られた標準歴と、帝都惑星の季節とは全く関連がない。

 帝都惑星の自転周期は、かつてこの惑星をテラフォーミングした「大破壊時代」以前の文明が極めて強引に周期を地球に合わせたおかげで、ほぼ狂いなく標準歴の24時間である。おかげで一日が標準歴と惑星の動きとでずれがないのだが、季節はそうはいかない。

 帝都惑星の公転周期は四二三日と五時間二三分八秒七二九。標準歴の約三六五日とだいぶずれがある。

 この年の七月は、帝立学院があるあたりは初冬に当たる。冷涼気味の気候だから、既に毎朝氷が張る。

 張り詰めた空気の中、起床の時間がつらくなってくる頃だが、カノンは割と平然とした顔をしている。本当に平然としているわけではないが、苦痛や眠気を顔に出すのは皇族の名折れだ、と幼いころから躾けられてきた。帝立学院でも、苦痛を顔に出さないのは貴族の義務だ、と教えられてきた。いかなる感情も顔に出さず、出すべき表情を出すことに、カノンは慣れきっている。

 父帝の教えもある。

 父帝とカノンが不仲なのではないか、とジュスティーヌが思っていたりもするのだが、正確には不仲というほどの仲でもない。乳児の頃から両親の元をはなれ、女官や教育係の手で育てられてきた。親との親密な関係というものが、彼女は根本的に欠落している。皇族や貴族には珍しいことではなかったが。

 それが寂しいと思ったこともないし、親と一緒にいなければいけないという概念が欠けている。

 それでも、物心ついて以来たまに会う父帝からは、一つのことを言い聞かせられている。

「カノン、我ら皇族は、特に皇帝や皇太子といった者は、自らの政治的意志を持ってはならない。憧れられる正しさと美の象徴、道徳の導き手である分には良いが、良き政治、良き統治を志してはならない。それは臣民の代表たる貴族や元老、帝国議会の議員や官僚たちが行うことだ。我ら皇族は、臣民の鏡として生きるものだ。鏡は自身の意思を持たない。意思を持つ者が、己の姿を映し己の信念を確認するための鏡でなければならない」

 君臨すれども統治せず、のメディア皇帝が生きる道であり、統治原理に従う道でもある。君臨する者が統治に意欲を出せば、本来統治すべき者の行動に齟齬を来したり、蹉跌を生じたり、あるいは行動する気を失わせたり、無用の反発が生じたりするだろう。

 皇帝や皇族は自らの意志を表してはいけない。

 皇帝や皇族は自らの意志を行動原理にしてはならない。

 会うたびに、カノンは父帝から言い聞かせられていた。

 幼等部に入り、様々な人間と接し、視野が広がるにしたがって、カノンには父帝のいうことが何となくわかってきたし、父帝の言動がまさにその原理に従っていることを知るようになった。

 すべてを持って生まれた、といわれるカノンだが、そのすべてを自らの意志で発揮したり利用したりすることは許されない。統治する側の宰相や貴族や議員や官僚が望む形で才能を発揮し、利用しなければならない。

 あらゆるものを与えられて生まれたといわれるが、あらゆるものが自由にはならない。

 そんなものだ、としかカノンは思っていない。そういう暮らししかしたことが無いし、そういうものだと思っている人間しか周囲にいない。

 カノンは執着したものには驚異的な意志の持続性を発揮するが、そもそも執着が許されるものにしか飛びつかない。

 親がそばにいないことが寂しいと思ったこともないし、特定の女官に母を見出して執着したこともない。

 帝立学院内に特に親しい友人もなく、また関係性を築こうと努力する様子もない。

 彼女の高貴すぎる出自や恐ろしいほどの素っ気なさに、彼女に頼ろうとする者もいないし、彼女から頼られる人間もいない。

 幼年学校の寮では四人部屋で、一年の時から部屋のメンバーの入れ替わりが繰り返されても常に部屋長に指名されていた。だが、それがルームメイトとしての親密さを後押しすることはなかった。生活を共にしているのに、彼女は部屋の中ですら孤高であり続けた。

 すべてを持っているといわれるカノンには、唯一、情緒だとか情感だとか呼ばれるものが、あるいはごっそりと抜け落ちているのかもしれない。

 人間として、それはひどくいびつなものだ。

 周囲はそのいびつさを何となく察している。察しているが、それが貴種だと思っている。人間としていかに不幸であろうとも、貴種とはそのようにして生きるべきものであり、その犠牲のもとに臣民の平和が得られれば良いのであり、その代償として栄華と安寧な暮らしが約束されている。

 学年終わりの試験をすべて終えたカノンは、一般人の情動とは無縁の素っ気なさで三年生の生活を終えた。試験結果は、ひとかけらの忖度も加点も無しに、ぶっちぎりの首席である。

 旗士としての実力も、すでに中等部への修練に出ていることからもわかる通りぶっちぎりの成績であり、絵に描いたような完璧ぶりだった。

 ここまで完璧なのは不自然で気味が悪い、と人々に思わせるほどに。

 本人にはなにひとつ責任の無い話ではあるのだが。



 自分の娘がそのような子に育っているということを、母はどう思っていたか。

 エティション公爵家の嫡流に生まれ、皇帝に嫁した皇妃アニェスは、そもそもの立場が微妙である。

 皇帝の妃には厳密な序列がある。

 今上フィリップ八世の場合、初めての妃を「正妃」と呼んだ。

 正妃を若くして亡くし、その後に幾人かの愛妾を持ったが、それらの女性は「夫人」と呼ばれ、宮廷内で一定の地位は与えられたが、正式の婚姻とはされてない。

 アニェスはそれら「夫人」とは別格の、正式な婚姻として帝室に入った。「夫人」には帝室の一員を名乗る資格はないが、アニェスは婚姻の結果として当然ながら正式な帝室入りを果たしている。

 一方で、彼女には「正妃」に与えられる「国母」の称号は与えられていない。皇帝は「国父」であり、その正式な妃であれば当然与えられるべき「国母」の称号が与えられていないのは、彼女の出自に関係する。

 エティション公爵家が集権派貴族の代表格のような存在になりつつあり、分権派貴族や帝権派官僚群などとの政治的衝突を起こしかねない状況になっていたことが原因だ。

 政治的中立性、というより、政治との無関係性が帝室には求められるという思想の持ち主である皇帝は、「正妃」にはせずに結婚するという方法を選んだ。単に称号の問題だけではなく、「正妃」に与えられる皇帝と同格の儀礼序列も与えられないし、皇帝が何らかの理由でその職責を果たせない場合に代理を務める「摂政」に就く権利もない。

 かろうじて、皇帝の正式な妻として、「陛下」の称号は許されている。これは「正妃」と「皇妃」にしか与えられない特権で、国際儀礼上最上位の尊称であり、今はフィリップ八世以外には彼女にしか与えられていない。

 彼女の「皇妃」という称号には、そのような意味が込められていた。

 超絶美人だが地味で質素、と評される彼女は、そのような自分の立場をよく理解していたし、大貴族令嬢として娘カノンと大して変わりのない育ち方をした彼女には、肉親の情愛というものが欠落していた。

 自分の腹を痛めて産んだ子でありながら、新生児のほんのわずかな時間しか母として接することが出来ず、乳離れどころか姿かたちを記憶に留めることすらできないような別離を強制させられていたことも、原因といえるかもしれない。彼女自身、母の胸に抱かれた記憶もない。

 母としての自覚を持てといわれても、無理な話かもしれなかった。

 良くも悪くも、エピソードらしいエピソードを持たない彼女は、ひどくおとなしい女性としてなにやら神秘的なイメージを持たれていたが、皇帝を飾る花のような存在として、影の薄い印象を臣民に与えていた。

 その点、ややスキャンダラスな存在である側妾のイザベルの方が、印象として濃い。外国人で、女優で、愛人でありながら生まれた娘マリオンが皇族会議により皇女として認められたために「夫人」から「賓妃」に格上げされた女性。

 賓妃となると、皇妃ほど高くはないにせよ宮廷において儀礼序列が与えられ、貴族としての扱いを受ける。見た目の印象も、人並外れて美しくはあるがどこか生気の薄さを感じさせるアニェスより、造形美ではアニェスに劣るかもしれないが生気の強さで段違いの華やかさを感じさせるイザベルの方が、より与えるものが強い。

 宮廷史では、このような場合はたいてい取り巻きの女性たちが対立しいがみ合ったりして壮絶な戦いが始まるものだが、それもない。肝心な皇妃アニェスに賓妃イザベルと争うほどの気概がなく、また自分の優位性を確認したり高めようとしたりするという、当たり前といえば当たり前の心性を持ち合わせていなかったからだ。

 善良な、という表現は当たらない。おとなしい、という表現も違う。宮廷内での権威だとか、贅沢だとか、そんなものにまったく興味を持たない彼女の心には、何かが大きく欠落していた。

 娘カノンに対する思いのように。

 人間として、あるいは生物として、与えられて当然の愛情というものを受けずに育った人間が、凶暴な獣性を示したり、逆に獣ですら持っている感情を持たずに成長したりする、その一例がここにあったともいえる。

 そしてメディア貴族の子女に、このような例は珍しくも無かったから、誰も注目しなかったし、そういうものだろうと受け止めて一顧だにしなかった。一顧だにせずとも帝国は日々運営されていくし、何か困りごとが生じるわけでもなかった。



 エティション公爵が治める領内に、特殊な楽器を作る工房がある。

 メディア国内では割と有名で、熱心なファンも多い。パルサー、と呼ばれている。

 演奏者の神経パルスを読み取り、そのデータをもとに和音を自動生成するのだが、作動原理が至って電子的なのに、音を鳴らす原理は至って機械的だった。

 本体は木製で、琵琶のような形をしている。左手で竿の部分を持ち、右手で膨らんだ胴の中央部にあるピックアップに触れる。左手の位置や右手の位置から生じる位相差や接触圧、指の皮膚表面の皮脂やその水分量などで時々刻々と変わる静電圧などが、和音の複雑さと音の強弱を生む。

 音自体はパルサーの中に張られた一〇本の弦が震えることで鳴らされる。時に共振し、時にかき消し合い、玄妙な音を出したかと思えば鋭くかきむしるような音を出したりする。

 思い通りの音階を出そうとするものではなく、偶然に生まれてくる和音構成と流れを楽しむ楽器だ。音楽シーンのメインストリームにはなりようもないが、ひっそりと、だが根強いファンを持っている。

 パルサーは仕組みもそれなりに複雑だが、細かく演奏者に合わせて調整しないと音がひずんで使い物にならない繊細さを持つ。買って電源を入れればすぐ音は鳴るのだが、きれいな和音を響かせようと思えば調整がいる。

 素人仕事ではなかなか難しく、この技術を身に付けられるかどうかが素人と玄人の境目といわれる。

 アニェスのほとんど唯一ともいえる趣味がこの楽器であることは、ごく当たり前に世に流布されている。子供のころからこの楽器にだけは強い興味を持っていて、弾かない日は一日も無いといわれていた。

 別に害がある趣味ではなく、大した金がかかるわけでもなく、相当な腕前らしいのだが人に聞かせる気がないのでその真偽も謎という有様だったから、皇妃の他愛もない趣味としてほとんど放置されている。

 エティエンヌ工房といえば、業界マニア垂涎のパルサーメーカーだ。その工房から定期的にチューナーがやって来て機械の調整をしているのだが、これももはや日常の光景として定着しており、誰も何の感慨も持たずにいた。

 共通歴九一四年七月二〇日、エティエンヌ工房の女性主任チューナーが、一人で皇宮内の皇妃が暮らす宮殿に入った。幾重ものチェックを潜り抜け、数人の衛士を引き連れて大理石が豪奢にあしらわれた宮殿内を歩き、目的地に向かう。

 アニェスの幾十もあてがわれた自室のうち、パルサー演奏専用の部屋はその宮殿最上階、といっても三階にある。彼女はあてがわれた部屋の八割を使いもせずに放置していたが、この部屋は一〇数台のパルサーとその周辺機器が置かれ、十二分に活用されていた。

「皇妃陛下、お久しゅうございます」

 開けられた扉の前で深々と腰を折って最敬礼した主任は、訪いを許す声の代わりに、精妙な音階を幾重にも重ねた極上の技術から出されるパルサーの音を耳にした。よほど精密な制御が無ければ、この音は維持できない。指の動きをミリ単位でしか刻めないような手では、絶対にこの音は出ないのだ。

「相変わらず玄妙な音をお出しになられますね」

 感心した主任が、頭を上げながら思わず慨嘆すると、パルサーの音が溶けるように消えていく。

「……よう参られました」

 アニェスが、完璧さを目指しすぎたがために人としての温度を感じさせなくなってしまった美しすぎる彫像のような、単に冷たいともいい難い美貌に表情も浮かべず、視線を主任に向けながら静かにいった。主任はもう一度最敬礼し、入室した。

「皇妃陛下にはご機嫌麗しゅう」

「主任にもお変わりなく」

 淡々と挨拶をかわすと、アニェスに見惚れるでもなく、主任はすぐに作業に入った。いつものことである。アニェスには時候の話題でおしゃべりを楽しむという習慣がなかったし、主任も必要以上にこの部屋にいられる自由はない。

 アニェスが、今回は調整しないパルサーで演奏を再開し、部屋がその緩やかだが儚くもある和音の連なりに満たされる。

 音に満たされていながら、静かだった。逆説的ではあるが、音楽が流れず様々な雑音に支配されている部屋より、今この部屋は静かだった。

 この部屋には、主任のほか、皇妃付きの女官が二名と護衛の宮廷騎士が一名、その部下の衛士三名がいるだけだった。広さは一五〇平方メートル程度だから、宮廷の部屋としては決して広くない。天井が高いが、響きすぎて音響が悪いという理由で途中に仮設の遮音天井が張られているから、実質五メートルほどの高さだ。これも他の部屋と比べると半分強。

 女官も騎士も衛士も、常にこの音楽の時間を強制的に聞き流している。

 音のすばらしさはわかる気もするのだが、パルサーは聞く側にも一定の素養を求める。忠誠心をなぜか刺激しない皇妃のためにその素養を身に付けようとする物好きは皆無だったから、聞き流す以外に法がない。

 主任が持ち込む荷物は、当然ながらすべて宮廷の検査が行われる。特に皇族と接触する場合には厳重な検査が行われる。

 調整に使われるような道具は、事前に工房から宮殿に発送し、前日までに様々な検査を行われたうえで部屋に運び込まれ、使われるようになっている。凶器になりそうなものは当然持ち込みできないし、当日身に付けていたものはほとんどが一時預けられ、部屋には持ち込めない。

 主任も、当日着ていた服以外に部屋に持ち込んだものは何もない。

 この日は六台のパルサーを調整することになっていた。状態にもよるが、一台につき三〇分ほどかかる。アニェスはパルサーを丁寧に扱うから、分解調整もそれほどの時間はかからないのだが、パーツをどんなに手際よく磨き上げていってもそのくらいの時間はかかる。

 そのあたりは女官たちも良く知っているから、一時間交代で三回ほどもローテーションすればいいなと見当を付けていた。

 昼下がりの時間帯、眠くなるような頃合いだが、アニェスは目を閉じながら演奏に集中している。今日は特に静かな曲想を狙っているようで、ピアニッシモのハーモニーが不規則に、だが調和を取りながら揺蕩うように流れ出ている。

 パルサーに触れている時の皇妃は集中の持続が恐ろしく長い。主任が少々てこずりながら三台目の調整を終え、四台目に手を付け始めたころに女官たちが二度目の入れ替えを終えたのだが、その頃になってもまだ微妙な和音バランスを崩さずに演奏が続けられていた。微細な操作が要求されるこの手の演奏で、二時間以上も滔々と演奏が続けられているというのは、主任もそうは見た経験がない。

 演奏中に声をかけるのはさすがにはばかられるが、これだけの演奏をこの長時間続けていられるアニェスの才能は、あるいは持続する意志の力は素晴らしい。主任はお世辞抜きで本人に絶賛の言葉を贈りたくなっていた。



 そして運命の時が訪れる。

 一五時四三分。

 皇妃アニェスの緩やかな演奏は未だ已む気配がない。

 主任の作業は折り返し点を過ぎ、四台目の調整はほとんど清浄のみで済みそうだと当たりを付けていた。

 女官の一人がアニェスのために薔薇の香りが付いた鉱水を小さなテーブルに置いた。

 透けるようなきめの細かい肌の美しさと、そこにうっすら浮かぶ血の色とが、異様に美しい。女官はそんなアニェスの横顔を見るのが好きだった。側役に付けられたのは望外の喜びで、長いまつ毛を伏せたままじっくりと音と向き合う皇妃を見るのが、女官にとって無上の喜びだった。

 世間は作り物のような美しさだ、人間味がない、などという。当たり前ではないか。真の美とは神から与えられるもので、人間離れするものだ。人間味などという雑成分は、真の美を曇らせるだけだ。

 女官はそう本気で思っていたし、彼女が知る限り、そのような賛嘆に値する人間は、この世にアニェスただ一人だった。

 劇的なことは、なにも劇的ではない日常に訪れるからこそ劇的なのだと古人はいう。その通りであった。

 主任が宮殿に送っていた荷物のうち、パルサーの大型交換パーツを入れるための箱が、主任が作業する横に置かれていた。アニェスと荷物との間にはちょうど主任の体を挟んでいる。部屋内の位置としてはほぼ真ん中くらいだった。

 今のところその中のパーツを使わなければいけないような修理は出ていなかったから、自分で詰めた中身のことはよく覚えている主任は、箱を開けてもいない。

 その箱が、何の前触れもなく、爆発した。

 爆速が秒速九〇〇〇メートルを超える高性能爆薬を使った、とされる。

 炸薬の量は五キログラム程度だったと後日の調査で推定されているが、大した遮蔽物もない室内でそれだけの質量の高性能爆薬が爆轟を起こしたらどうなるか。

 中にいた人間すべてが、おそらく爆発自体を知覚することはなかったはずだ。神経系が処理を行う速度を遥かに超える速さで、衝撃波と熱とが、人体を構成していた物質を破砕してしまう。

 楽器を扱う部屋だが、密閉された防音構造にはなっていない。パルサーが大音量で扱う楽器ではないことと、自然の音との共演も大切とアニェスが考えていたからだ。

 だから部屋には大きな窓がある。だが初冬の帝都で窓を開け放つのは無理があったからしっかり締め切られていたし、窓ガラスは当たり前のように厳重な防弾処理が施され、防衛担当者はギアのレールガンの砲撃にすら耐えうると豪語していた。

 それは、部屋の内部に爆轟の衝撃波が押し込められる効果を生んだ。

 解放されたエネルギーは瞬時に部屋を破壊しつくすが、窓が耐えきれずに破壊されて吹き飛ぶまでのわずかな間に、何度も衝撃波が跳ね返っては圧力と熱を高め、部屋の物質という物質の温度を劇的に上げた。

 部屋中の酸素は瞬く間に喰われて無くなっていたから、温度がどんなに高くなっても燃焼は起こらない。沸点を軽々と超えた部屋内部の物質は気化し、やがて吹き飛んだ窓から一気に外に噴出した。

 爆発の開始からここまで、およそコンマ二秒。

 酸素に触れた部屋の気体は瞬時に燃焼を開始し、巨大な炎の柱が横倒しになったような噴流が宮殿の外に向かって音速を遥かに超える速度で逸出した。

 爆轟は衝撃波と共にあらゆるものを破砕し、周囲に拡大して爆音を生む。

 宮殿の三階部分は広範囲にわたって吹き飛び、数千度の熱で焼かれた。

 アニェスも、主任も、女官たちも、騎士たちも、隣室にいた人々も、自らの死を知覚することも無く、肉体のかけらも残さず消滅した。

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