3. ジャン-バティスト
帝立学院の幼等部の朝は、起床を告げる当番の上級生たちの声から始まる。上級生がいない最上級生なら寮監たちの声だ。
起床後は自分の寝具を自分で片付け、定刻通りに朝食の席に着く。
朝食を時間通りに終えると、一度自室に戻る。部屋は四人部屋で、貴族といえど従者などはいないから、自分でその日の準備を行う。低学年には部屋に一人寮監が付き、指導を行う。
帝立学院に入れられるような子供なら、事前にある程度一人で何でもできるようにしつけられている場合が多い。親兄弟や親戚筋にも学院の卒業生がいくらでもいることが多いから、それをしないと本人がどれだけ苦労するかがわかっている。
寮は幼等部の学舎の隣なので、準備が出来たらそのまま登校する。
学校では一クラス二〇人程度が集まる。帝国全土の貴族の子弟が集まるので、その称号も様々だが、少なくとも学院の中では身分差や宮中序列などは関係ない。カノンが皇族だろうと、ジュスティーヌが侯爵家令嬢だろうと、教師の前では一人の児童でしかないし、寮監の前では寮生の一人でしかない。
午前中の授業が終わると、子供たちは一度寮に戻り、昼食をとる。机を前にした学習は午前で終わりなので、教材などは一度自分の部屋に戻す。
昼食後は休憩時間を挟んだ後、午後の学習に移る。
旗士の力を持つ子供たちは、持たない子供たちと午後から別課程になる。
旗士が持つ力「基力」は、様々な発現の仕方があり、一定ではない。ただ、多くが肉体的な能力や空間把握の力となって発現する場合が多いから、その能力を高めること、あるいは制御することを学ぶ必要がある。
特に制御は重要だ。
基力の制御ができずに爆発的な筋力を発揮してしまえば、身の回りの人間を傷つけたり、殺してしまったりすることもあるし、自身も傷つかずには済まない。とくに貴族のような自律が求められる環境の人間にとって、基力の制御は必須だった。旗士としての力が制御できないような人間を、貴族社会は一人前としては決して扱わない。
まして、学院出の旗士はほとんどが帝位争いの対象になる。
将来の皇帝候補たちに、品位のないバカに育ってもらっては困るのだ。学院側の旗士教育が、特に制御面に集中するのも当然といえた。
カノンが幼等部に入った時、ジュスティーヌは最上級の七年生だった。
寮のルールで、最上級生は当番で一年生の面倒を見なければならない。起床のときもそうだが、基力を制御するための訓練のことでもその義務があった。
カノンが入学した時点で、幼等部最強の旗士の一人とされていたのがジュスティーヌだった。豪奢に波打つ光るような金髪もうつくしい彼女は、「学院の薔薇」の異名を取りつつあった。
「美しいが棘がある」
という意味だろう。
ここまでの日々で旗士としての素養は完璧に磨かれている。体の成長と共に増大する基力をもとに、彼女は旗士としての戦闘能力を高めていた。
帝位争いがある以上、旗士として貴族の家に生まれた連中はすべてライバルといえる。蹴落とすべき相手だ。
ジュスティーヌは目立つから、特にその標的とされる運命にあったが、彼女の魂の強靭さはそのようなものを常にはじき返した。
もちろん低学年のうちは上級生に負けることもあったし、屈辱を味わうことも多かったが、幼等部の四年にもなるころには幼等部でジュスティーヌを地に這わせられる者などいなくなった。少なくとも同級生でジュスティーヌに屈服させられていない者はごくわずかだった。
薔薇は、己の力で咲き誇り始めていた。
「なぜ私が雛の躾などせねばならぬ」
ジュスティーヌはぼやいたが、「理屈がわからない子供に教えることで自らの力の制御について改めて学ぶ機会にもなる」という正論の前にはぐうの音も出ず、自分もかつてそのような教育を受けたおかげで今があると思い起こせば、まじめに取り組まざるを得ない。
もとより、帝立学院は規律と服従を学ぶ場所だ。いくらジュスティーヌでも、学校の伝統に反するような真似はできないし、そんな真似をしたら帝位レースから即脱落だ。最下級生をせいぜい慈しんでやらねばならない。
「雛たちもかわいいものだよ」
と彼女に笑顔を向けたのは、同級生の旗士の中で唯一彼女と張り合える少年、ジャンだ。
「かわいがればきちんと応えてもくれる」
幼等部生としては背の高いほっそりとした少年で、ジュスティーヌ同様輝くような金髪を持っている。彫りが深めの顔立ちは充分に秀麗といってよく、「学院の薔薇」ジュスティーヌの個性に負けない美少年として、女子たちから非常に高い人気を誇っている。
彼は雅語は使わない。家の方針だという。貴族がすべて雅語を使うわけではなく、ジャンも実家は大貴族だが、一族中見渡しても雅語を使うのはそのような家から嫁いできた人くらいだという。
「その方なれば可愛がれもしようが……」
とジュスティーヌがいったのは、きれいな顔をした優しい先輩というオーラをまとうジャンによく下級生がなついていたからで、少々雰囲気がきらびやかすぎるジュスティーヌは、敬遠されるというほどではないが、なつかれることがあまりない。
「君は少し構えすぎているんだ。相手が非力すぎて戸惑っているんだよ」
ジャンは一年生にまとわりつかれながらいう。
そんなことをいわれても、と思ったジュスティーヌだが、同級生の男子では飛び抜けて大人びているこの少年相手に逆らう気にもなれなかった。
「あの『薔薇』を手懐けた」
などと大人たちや中等部高等部の連中が感心していることをジュスティーヌは知っているが、手懐けられているかどうかはともかく、最も親しい男子であることは間違いない。男女の情があるかと問われれば、否定するより先に呆れただろうが。
ジャン-バティスト・クリトン・ドゥ・フォントヴロー、フォントブロー辺境伯クリトン家の次男坊であり、「分権派」の領袖たちの中でも特に武の伝統を強く引き継ぐ名家の出である。
武技においても基力においてもジュスティーヌに劣らず、時に上回る。実力では幼等部最強と目され、それを知っているからこそジュスティーヌはジャンには喧嘩も売らないし屈服させようともしない。ジュスティーヌが対等に相手をする、非常に貴重な人物だ。
この二人にとっても、皇女カノンの存在は特別だ。
はじめて目の前で皇女を見た時、ジュスティーヌは少なからず衝撃を受けた。
さまざまな媒体でカノンの姿を見てはいた。だが、学校の校庭で実際に見たカノンは、自らの美にもそれなりの自信を持っているジュスティーヌの目にも、恐ろしく美しい子供だった。
この頃になるとカノンの髪は黒々としており、まだ細い毛は少々ばらついていたものの、揺らぎのないまっすぐな毛質をしている。
その眉目の整いようが尋常ではない。人々が理想とする美少女像をそのまま具現化したような、輝くような美貌だった。まだ六歳だというのに、その美貌はすでに完成に域に達していた。
ジュスティーヌの視線に気付いたカノンは、相手が誰であるかを知っていたらしく、並んで立っていた二人の金髪の大諸侯子女に向かい礼をした。
「先輩方、カノン・ドゥ・メディアと申します。以後どうぞご昵懇に」
声が意外にかわいらしい。美貌に圧倒され、どんな大人びた声を出すのかと思っていたが、六歳の子供としてごくまっとうな声だった。
ジャンはそれを笑顔で迎え、「こちらこそ。ジャン-バティスト・ドゥ・フォントブローです」と受けている。
あまりの美貌に圧倒されていたジュスティーヌは出遅れたが、ジャンが応答している間にどうにか立て直した。
「ジュスティーヌ・ドゥ・サントだ。今後共に学ぶことになる。よう励め」
この時点ではジュスティーヌはベリゴーヌ子爵に叙爵されていないので、名乗りはサント侯爵令嬢になる。
カノンは二人に目礼すると、新入生が集められている場所に向かって歩いて行った。
「なんとも……」
とジャンがつぶやいた。
「……恐ろしいね、ああまできれいってのは」
男のジャンも、カノンほど傑出した美貌を前にすると威圧されるらしい。かわいいと感心するとか、鼻の下を伸ばすとか、そんな余裕はなかった。見慣れればまた違うのだろうが。
ジュスティーヌはなおさらだった。
その誕生とともに強く意識させられていた相手である。皇帝の座をめぐる争いで、最大のライバルになるだろう相手だ。
直接会って、見下すことができる相手なら良かった。が、見下すどころか、見た目だけで威圧されてしまうような相手だったことに、ジュスティーヌは少なからぬ衝撃を受けていた。
目だ、と思った。目が違う。他の子とは目が違う。
エメラルドグリーンの透き通った瞳は、強烈な意志の力と共に相手の心まで射貫くような力がある。本人がそれを狙っているとは思えない。見る側が、そう感じてしまうのだ。
基力か、と気付いたのはしばらくしてからだ。
電磁波流を任意に操る能力、と説明される基力は、様々な現れ方をする。皮膚の表面に強力な基力を流せば銃弾や増幅放射光を防ぐこともできるし、筋力を異常増大させることもある。
基力を持っている者同士であれば、その力を使って心を読み取ることすらできる、とする者もいるが、こちらは眉唾である。人の脳内で起きる電気信号のパターンは複雑極まりないもので、双方にその気があったとしてもシンクロできるようなものではない。
だが、ごく単純なパターン、例えば感情の高まりなどを伝えることはできる。もっとも、多くの人間は基力など使わなくとも相手の表情や顔色でそれを読み取ることは可能だし、テレパシーと呼ばれるような能力につながるようなものでもない。
カノンの瞳に宿る力は、あるいはその類のものかもしれない。彼女の中にある強力な意志の力が、基力を強く持つジュスティーヌに反応し、貫くような感覚を感じさせたのかもしれない。
怖い子だ。
ジュスティーヌは、意味もなく皇女を見下すのは危険だと思った。
皇帝への道で、最も大きな壁になるのは、血筋の問題ではなく彼女だ。そう確信した。
ジャンは最上級とはいえ幼等部生だが、一族ゆかりの者たちにとっては、学院内のボスである。年齢は関係ない。そういう血統だ。
分権派貴族の中でも、大諸侯フォントブロー辺境伯家は大きな力を持つ。
一族で恒星系を一つ領し、本家は恒星系唯一の有人惑星を領する。領内の人口は三千万人を超える。常備軍は兵力一〇万人、宇宙戦力でも帝国軍の常備一個艦隊に匹敵する戦力を持つ。これだけの戦力を持つ諸侯は数少なく、たとえばジュスティーヌの家などもその数少ないうちの一つだ。
武の名門として、フォントブロー辺境伯を長とするクリトン家は誇り高い一族として名を馳せる。
ジャン自身は物腰の柔らかい、優しい少年だが、武門の御曹司として一族の同世代を率いていく立場にある。長男である年の離れた兄は既に帝立学院は卒業していたが、彼が将来辺境伯家を継いだら、ジャンはその部下の長として軍を率いることになるだろう。
「まさか皇女殿下の指導を御曹司が手掛けることになるとはな」
旗士として帝立学院高等部に通いつつ、帝家の血は継いでいないために皇帝位争いには関係がない、フォントブロー辺境伯の分家筋に当たる小伯家の少年がいう。
「別に僕が手掛けるわけじゃない」
ジャンが軽く否定する。
「最上級生として少し絡むだけだよ」
「それにしても奇縁だ」
奇縁、という言葉はその通りだったから、ジャンもうなずく。
「女官連中によれば相当強情なところもあるって話だけどどうかな」
別の高等部生がいう。これは伯爵家家宰の家系だ。帝室付きの女官からの情報も、これほどの大諸侯になれば直接手に入るルートを持つ。
「そうだね……意志の強さは感じたよ。帝室は美形ぞろいだけど、殿下は特別製だ。きれいなだけじゃなく、強力な棘も持っていそうな気がする」
ジャンも、ジュスティーヌとそれほど変わらない感想を持っていたらしい。
「皇帝レースの先頭を走りそうか?」
「走るだろうね。陛下のご息女であられ、あれだけ強烈な血筋を持っていたら、旗士として生まれた時点で皇帝に推したくなるのが人情だし。少なくともあれだけの面構えのまま育ったら、元老会議は全会一致だろうね」
ジャンの言葉に、周囲からため息が漏れる。
少なからず、彼の才質に帝位への期待感があったことは確かだ。カノンが生まれていなければ、あるいはジャンが帝位を襲う目もあっただろうに、と。
「……まあ、帝位は、いい。我々が欲しているのは帝位ではなく、正当な統治者が正当性を持って統治にあたれる世の中を作ることなんだから」
「そうだな、帝位は手段にすぎない」
「諸侯の領地は諸侯と人民の手に。自由都市の領域は都市議会と市民の手に。当然のことだ」
「帝権だの有司専制だのといっているような集権主義者どもに帝位は渡せない。まして成金どもや木端役人どもの手になど渡せるものか」
高等部や中等部の生徒たちが口々にいう。ジャンにとっては口に出すまでもないことだから黙って聞いている。
「サントの小娘でも構わないが、あれはちょっと我が強すぎる。帝位になど就いたら、祖父君が何かと口出ししてきそうだしな」
と、ジュスティーヌの名も出た。彼女の祖父サント侯爵もうるさ型の人物で知られているし、うっかり外戚にでもなれば政治に容喙しかねない我の強さがある。同じ大諸侯で、政治的にも似たような立場だから共闘の目もないではないが、できれば遠くで幸せになってほしいタイプである。
「その小娘を飼い慣らしている英才がここにいるじゃないか」
と肩を叩かれ、ジャンは苦笑する。
「慣らしてないよ」
「いやいや、あるいはだ、サントの小娘が帝位に就いたとして、その帝配におさまって帝位ごと可愛がってやる道もあるぞ」
帝配とは皇帝の配偶者のこと。女帝が出た場合に使われる用語である。ジュスティーヌが帝位に就いたらジャンが口説き落として結婚してしまえという話だ。
「それも一案だな」
「ああいう女は一度落ちたらべたべたの甘々になるんだ」
「御曹司が皇帝、小娘が皇妃のペアで売り込む手もある。大諸侯二家が全力で帝室を支えるといえば、元老どもにもそれなりに響くんじゃないか」
他人事だと思って好き勝手なことをいっている。ジャンはだまって聞き過ごすしかない。
位でいえばジャンがぶっちぎりの最高位だが、年齢でいえば彼が最年少。領地に帰ればともかく、帝立学院にいる間は彼が上に立てるわけではない。そういうことに耐えられる心性がある、というあたりに、次男坊としてのこれまでの苦労の程がしのばれる。
また、女性蔑視や血筋の過度な重視は、貴族の子弟の悪癖として太古の昔から延々と受け継がれ、未だにしぶとく生き残っている。人種差別が混血の進行と共に薄れ、今では差別の概念すら失われているのとは対照的だった。
「だがサント侯爵の動きも最近妙だぞ。我が分権派の急進勢力などは戦争も辞さずといっているのに、最近どうもかの侯爵どのは歯切れが悪い。他国との政治的なやり取りも多くなっていると聞く」
「中枢官僚どもの自領への口出しをあれほど嫌っていたのにな」
「分権派のイニシアティブを取り損ねているのが気に食わんのかな? 結局お山の大将だからな」
「すねてるってことか」
「可能性はあるだろう。理想があってやってるわけじゃない、かの侯爵は自分が大将でなくなったら急にやる気をなくすタイプに見える」
「まさかそれで集権派にすり寄るっていうのか?」
「可能性だよ、可能性。でも、そうしかねないお人だろう」
「だが先のクーデター騒ぎを知らんわけでもないだろうに、中途半端な態度は身を亡ぼすということがわかってないのか?」
先のクーデターというのは、これより一四年前に起きた事件のこと。
共通歴八九七年に、分権派と呼ばれる諸侯の一部が過激化し、宰相や中央官僚たちを一網打尽にすべく決起したがあえなく鎮定された。
フォントブロー辺境伯もサント侯爵もその動きには加わっておらず、むしろ帝国の治安を乱す輩として討伐に協力したのだが、過激な分権派貴族はまだ残っているし、火が消えたわけでもない。そのことを、少なくともフォントブロー辺境伯一族の者ならここにいる若者たちでも知っている。
クーデターは支持しない、討伐に協力する。
その態度を素早く示すことができたからこそ、同じ分権派の貴族でありながら生き残ることができた。
中途半端に振る舞って多くの勢力からの疑惑を招き、クーデター計画に加わっていなかったにもかかわらず取り潰された貴族もいる。フォントブロー辺境伯は、暴発した過激派貴族に正義無しと見たからこそ素早く方針を決め、クーデター後にむしろ権勢や発言力を増すことができた。
「いずれにしろ」
ジャンは無軌道になりかけた議論を戻そうと口を開く。
「皇女殿下の入学で皇太子冊立への動きはいよいよ本格化してきた。我がフォントブロー辺境伯家は分権派の領袖として行動するが、その分権派も決して一枚岩じゃない。サント侯爵家は穏健派などと称して、時に帝権派に秋波を送る気配もあると聞く。我々はどんな動きが生じようと即応できるよう、団結する必要がある」
たかだか一二歳の子供がこれを語っているのだが、彼の才質には一点の疑いも持っていない上級生たちは、主筋の少年に対し背筋を伸ばし、座ったままでかかとを鳴らした。諒、の意だ。
「まあ、まずは帝位を目指して最後までしっかり戦うさ。これは大前提なんだ。その上で、何かあれば団結して立ち向かおう。みんなの誠心誠意の協力を期待する」
再び、全員がかかとを鳴らした。




