第38話『海に還る者』
風が吹いていた。
誰もいない空を、誰も見ない海を、静かに撫でていた。
その風に乗って、命の残滓が流れていく。
焼かれ、砕かれ、散ったもの――それは、俺だった。
---
意識はなかった。
感覚も、記憶も、何もなかった。
ただ、海の底で眠っていた。
深く、深く――誰にも届かない場所で。
---
時間は意味を失っていた。
一日か、一年か、百年か。
ただ、魔力の渦が、俺の残骸を少しずつ集めていた。
---
海底には、誰もいない。
けれど、そこには“残響”があった。
声が、記憶の奥から響いてくる。
「朔くん……」
「お兄ちゃん、こっちこっち!」
「また一緒に、遊ぼうね!」
---
リリィ。
ミナ。
ユウ。
俺が守った者たち。
俺が、命を捧げた理由。
---
「リリィ……」
「ミナ……ユウ……」
その名を、俺は確かに口にした。
声にならない声が、海を震わせた。
その瞬間、海底の魔力が脈打った。
---
灰は形を持ち始める。
骨に、肉に、鼓動に。
命が、再び編まれていく。
---
150年後――
朝焼けの海辺に、赤子が打ち上げられる。
その瞳は赤く、手には剣の痣。
そして、誰にも聞こえないほどの小さな声で、こう呟いた。
>「……リリィ……ミナ……ユウ……」
---
その瞬間、世界がわずかに揺れた。
魔族の領域の奥深く――ネメスの屋敷。
氷の棺の中で眠るリリィの指が、ほんの少し動いた。
---
>「名前を呼ぶことは、記憶を繋ぐこと。
> そして、絆を蘇らせること」
この日、勇者は還った。
まだ誰も知らない。
この命が、世界をもう一度照らすことを。




