越後侵攻。
筆が進まない……。
戦国の世も半ばを過ぎて、小勢力が乱立する状態を制した地方の覇者と言える存在が、日の本各地に出現していた。
中でも隔絶した力を持つ勢力が、天下統一を目指す畿内の織田家と、里見家を滅ぼしてから不気味にも目立った動きを見せない陸奥の南部家であろうか。
各地の覇者達は彼らの仲間入りを目指すような形で、戦いに明け暮れていた。
九州では島津、大友、龍造寺の三家による九州制覇を目指した三国志が展開されていた。
四国では長宗我部家が土佐(高知)を制覇した勢いに乗り、諸勢力に対しての攻勢を強めている。四国の統一も間近かと思われた。
中国地方では毛利家と織田家との戦端が開かれ、両者の間に位置する小勢力を巻き込んだ一進一退の攻防が繰り返されている。
一方、東に目を向けると武田、上杉、北条の大勢力同士がお互いがお互いを牽制しあい、大きく動く事が出来ない膠着した状況にあった。
何より一番の問題は、いつ攻めて来るか分からない巨大勢力、南部家の存在である。
三家の間で争いが起こったら、南部家は漁夫の利を得て、あっという間にその国を平らげてしまうだろう。
南部家の今までの行動から推察するに、必ずそうなるという半ば確信じみた予感が三者にはあった。
その危機感がそうさせたのだろう。
最初に言い出したのは、天正3年(1575年)に織田家との長篠の合戦にて、壊滅的な被害を受けた武田家であった。
内容は上杉、武田、北条家の三国同盟。
長らく争って来た三家だが背に腹は代えられない。
織田家、南部家などの外からの圧力は無視出来ない物となっており、過去の遺恨を乗り越えてここに同盟を結ぶに至ったのだ。
この同盟によって互いの後顧の憂いが無くなり、武田家は織田家に、北条家は南部家に、上杉家は両方に、それぞれ専念する事が出来るようになった。
しかしこの同盟は上杉家に起こった不測の事態により、脆くも崩れ去る事となる。
天正5年(1578年)上杉謙信、春日山城内にて急死。
上杉家は後継者が未だに定まっておらず、後継者候補であった上杉景勝と上杉景虎の両者の関係は急激に悪化した。
その結果、上杉家を真っ二つに割った後継者争いである、[御館の乱]が勃発する。
時が経つにつれ深まる内乱、それを彼の勢力が見逃す筈が無かった。
その最強の軍団は、当時こう呼ばれ恐れられていたとか。
黒軍
南部家の越後侵攻が始まった。
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「あの揚北衆が手も足も出ずに敗走しておるだと?」
本拠地、春日山城にて上杉景勝は驚愕の知らせを聞いた。
軍神と謳われた義父、上杉謙信にすら靡かず半独立勢力として越後北部を支配していた国人衆達が、南部軍の前に一方的に敗北して追い詰められているとの由であった。
彼らが時間を稼いでいる内に、上杉景虎方との交渉によって落とし所を見つけるつもりであったが、予定が大幅に狂ってしまった。
援軍を要請しようにも、武田家は前年の織田家との戦いの傷が癒えておらず期待出来るか怪しい、そして北条家は景勝にとって頼みたくない相手だった。
北条家の軍勢を無闇に引き入れてしまっては、故北条氏康の息子である対立相手の景虎に、後継者の座を奪われてしまうかも知れない。
尚、どちらにせよ北条家への抑えとして南部軍は関東でも戦端を開いているので、その心配は杞憂に過ぎないのだが、分裂した上杉家中では情報が錯綜しており、景勝はそれを知る由も無かった。
後継者争いでの内乱。迫りくる10万を越すとも言われる南部軍。
状況は正に八方塞がりである。
先は全く見えないが、一先ず軍を興さないと何も始まらない。
そう判断した景勝は陣触れを行う。
何一つ突破口が見えず絶望的な状況に一筋の光が指したのは、一週間後の事であった。
揚北衆をあっという間に下し進軍する南部軍を見て、自分と同じくなりふり構っていられなくなったのだろう。
景虎より内乱を一旦停戦し、協力して南部軍に当たりたいという旨の書状が届いたのだ。
更に時を同じくして、武田勝頼が上杉家救援のために出陣したという知らせも入る。
その生涯で誰も彼をも裏切り続けた武田信玄が生み出した、諸侯の武田家への信頼に対するツケを払うべく、身を切る思いの出兵だっただろう。
だがこの戦の裏には南部軍の総大将、南部晴継の仕掛けた鬼手が水面下で蠢いていた、彼らがその全貌を知る事になるのは全てが終わってからだった。
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南部晴継より三者に宛てられた書状を、内容を掻い摘んで説明しよう。
上杉景勝宛
[南部家は上杉領に侵攻すると言っても、何も上杉家を徹底的に滅ぼすつもりではない。
上杉家には恐れ多くも南部家の傘下に入って貰う事になるが、それは織田家に対抗するための一時的な物である。
南部家においては越後代官として上杉家を任命し、当然ながら多少の介入はさせて貰うが、概ね今まで通り越後国を纏めて欲しいと言うのが、父上を含めた家中の総意である。
そして現在の上杉家の苦しい内情も分かっているつもりだ。
当家としては勿論景勝殿を正当な当主と心得る。北条景虎など、外様の謀反人に過ぎぬ。
此度の戦場にて、不幸な行き違いが起こらぬ事を願っているよ]
上杉景虎宛
[南部家は上杉領に侵攻すると言っても、何も上杉家を徹底的に滅ぼすつもりではない。
上杉家には恐れ多くも南部家の傘下に入って貰う事になるが、それは織田家に対抗するための一時的な物である。
南部家においては越後代官として上杉家を任命し、当然ながら多少の介入はさせて貰うが、概ね今まで通り越後国を纏めて欲しいと言うのが、父上を含めた家中の総意である。
そして現在の上杉家の苦しい内情も分かっているつもりだ。
当家としては景虎殿を正当な当主に推すつもりでいる。残念ながら良好とは言えない当家と北条家の関係を改善するために、貴殿に橋渡し役となって貰いたいのだ。
上杉、北条、南部、これからは協力して中央の織田政権に対抗する時代だ。
景勝など謙信の上杉家の亡霊に過ぎない。共に彼の邪魔者を誅しようぞ。
此度の戦、どうするのが上杉家、ひいては北条家のためになるのか、良く思案して頂きたく]
武田勝頼宛
[南部家の当主として非常に残念に思っている。
甲斐源氏という家祖を同じくし、先代の信玄公よりの友邦であった武田家と、何の間違いかこうして矛を交えようとしているとは。
この機会にもう一度、考え直して頂けないだろうか?
互いにとっての仇敵である上杉家を協力して征伐し、上杉家の領土を山分けするのは、それ程難しい事であろうか。
信玄公でも為し得なかった越後征伐を完遂すれば、貴殿を甘く見ていると聞く武田家の家臣達も、貴殿を認めざるを得ないだろう。
我々としてはこの戦の後は北条家をも滅ぼす所存。その際に武田家が協調してくれるのなら、北条領を全て武田家に譲るのもやぶさかではない。
南部と武田、東国の二大巨頭として中央に対抗していこう。
ご安心めされよ。多くの人間の恨みを買い、肥大化し過ぎた織田の天下など、そうそう長く保つ筈が無い。
信玄公でも不可能だった功績を、甲斐源氏棟梁武田勝頼様、貴殿が成し遂げるのです。
此度の戦にて、いざ戦友となり申さん]
近年見つかったこの三通の書状が、後世の人間からドン引きされ、晴政に操られていただけなのか、晴継もヤバい奴だったのか、事実は分からないが、それまでに語られて来た南部晴継像を覆し始めているのは確かである。
だが敢えて言おう。
晴継は間違いなく、晴政の息子であった。




