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第八十五話 近接戦闘

 









「……なんだ、これ?」


 ルーセルドは、自分の拳が握りつぶされたことを理解することができなかった。

 自分の放った拳は、確実にマスターの顔面を捉えるはずのものだった。


 それを、受け止められるどころか、使い物にならなくなるくらい完全に破壊されてしまい、理解が追いついてこないのである。

 さらに言えば、マスターの見た目とやったことのギャップが大きかった。


 ニコニコと穏やかで、ルーセルドから言わせればヘラヘラとした緊張感も何もないヘンテコなマスター。

 そんな彼が、友好的な握手をするような笑顔と雰囲気で、まったく真逆の行為である人の拳を握りつぶしたことに、大きすぎる違和を感じていたのだ。


「う、嘘だろ……?」


 ルシルはその光景を呆然と見つめていた。

 確かに、マスターが強いのであろうことは、これまで一緒に魔物と戦ったりしていたことから分かっていた。


 しかし、それでもここまで強いとは思っていなかった。

 むしろ、魔物とよく戦っていたソルグロスの方が、マスターよりも強いのだろうと思っていたほどだった。


 アポロたち三人をあっけなく殺し、自分の攻撃も簡単に相殺するあまりにも強いルーセルド。

 そんな彼の攻撃を、なんでもないように受け止めて、逆に拳を破壊したマスターの底が知れない。


「マスターは本当にお強いでござるなぁ。大事なところがうずいてしまうでござるよ」

「ああ、強い……あれ?」


 横から聞こえてきた言葉に何となく返事をしてしまうが、ルシルは不可解に思って首を傾げる。

 今、この場に自分と会話をする者がいただろうか?


 アポロたち三人はすでに死んでしまっている。

 マスターとルーセルドは、未だ近距離で睨み合ったままだ。マスターは微笑んでいるが。


 では、残った人物は……。


「ソルグロス!?」

「……何でござるか?」


 バッと横を慌てて見ると、きょとんと首を傾げたソルグロスがいた。

『何、いきなり大声出してんだ、馬鹿じゃねえの』といった目を向けてくるので、ルシルは激しく抗議する。


「えぇっ!?お前、ルーセルドにやられたんじゃあ……」


 ルシルの記憶には、ソルグロスが散々にやられていたことしか残っていない。

 腹に腕で穴をあけられ、さかさまにされた後は内臓がやられているであろうと簡単に推測できるほどの強力な蹴りを、横っ腹に叩き込まれて吹き飛ばされていた。


 一応、彼女もルーセルドの心臓に刃を突き立てているのだが、絶望的なまでに強力なルーセルドの力の前にかすんでしまっていた。


「いや、言ったでござろう?拙者、あれくらいじゃあ死なないでござるよ」


 確かに、倒したと油断していたところに攻撃を仕掛けられて吹き飛ばされたのは事実だが、別にダメージで動けなくなるなんてことはなかった。

 では、何故戻ってくるのに少しとはいえ時間がかかったのかというと……。


「あれ?ソルグロス、腹の傷が……」

「うむ。少々時間がかかったでござる」


 ルシルの視線の先には、ぽっかりと穴をあけられていたはずのソルグロスの腹があった。

 すでに、そこは何事もなかったように、風穴が塞がっており、微妙に青の混じった肌が見えている。


「まあ、これは拙者がスライムだからできることでござるよ。湖の水を吸収して、身体を構築することなんてたやすいことでござる」

「へぇ……え?スライム……?」


 とんでもない衝撃的な事実を聞かされた気がして、ルシルはソルグロスを凝視する。


「……スライムって、あの弱い魔物の……?」


 ソルグロスは他にもとんでもないことを言っていたのだが――――水を吸収したら身体に開いた穴を塞げること――――、それよりもルシルの意識を持って行ったのは唐突な魔族発言である。

 まあ、魔族ということに驚いたというわけではない。


 もともと、人から逸脱したような戦闘力を持っていたソルグロスのことだ。

 同じく、自分よりも格上のルーセルドがアンデッド系の魔族だと聞かされたら、それほど衝撃は受けない。


 しかし、問題はソルグロスの種族であるスライムである。

 ルシルの頭の中にあるスライムとは、この世の中でもワーストを争う弱い魔物である。


 彼も駆け出しの冒険者のころ、よく倒したポピュラーな魔物だ。

 そんな弱いスライムが、こんなに強いのだろうか?


「うむ。拙者もあの時マスターとお会いできなければ、どこぞの冒険者にあっけなく殺されていたはずでござる」


 人外じみた戦闘力を持つソルグロスだって、産まれた時から完成していたわけではない。

 彼女も、液体の塊としてうぞうぞと地面を這っているような魔物の時代だってあった。


 それが変わったのは、やはりマスターと出会った時だ。

 ソルグロスは、穏やかな風が吹く平原の情景を思い出す。


 その時、初めて自分とマスターが出会ったのだから。


「おっと。今は、マスターの勇姿を目に焼き付けておかねば」


 幸せな過去の記憶に浸るのは、後でマスターのベッドに顔を突っ込んででもゆっくりとしよう。

 そう考えたソルグロスは、再びマスターとルーセルドへと視線を戻すのであった。












 ◆



「……っ!!」


 ボタボタと、音を立てて血液が地面に垂れ落ちるのを聞いて、ようやくルーセルドは意識を取り戻す。


「ふっざけるなぁぁっ!!」


 ルーセルドはまさかの反撃を受けたことに激昂し、拳を掴まれたまま右足を鞭のようにしならせてマスターに向かって薙ぐように脚を動かす。

 脳のリミッターがぶっ飛んだアンデッド特有の怪力で、その蹴りのスピードは凄まじいものだった。


 ソルグロスを一撃で湖まで吹き飛ばすほどの威力を持つ蹴りが、マスターに襲い掛かる。

 しかし、マスターはその攻撃を、身をかがめることによってあっさりと躱してしまう。


「ちっ……!」


 お返しだとばかりに微笑み、握りつぶした拳から手を離して今度はルーセルドの腕をつかむ。

 そして、グイッと上に向かって振り上げると、なんといとも簡単にルーセルドの身体が宙に浮いた。


「が……っ!!」


 さらに、マスターはルーセルドの身体を強かに地面に打ち付けるのであった。

 受け身もろくにとることのできなかったルーセルドの全身に、凄まじい衝撃が襲い掛かった。


 アンデッドということで痛覚など存在しない彼であるが、息ができなくなるほどの衝撃を受けて大きな苦しみを味わっていた。

 全身がバラバラになるようなダメージを受けて、身体を動かすことができなかった。


「…………ッ!?」


 だが、ルーセルドにゆっくりとダメージを回復させてくれるような時間は与えられなかった。

 マスターが微笑みながら、脚を振り上げたのだ。


 その穏やかな表情からはまったく結びつかないような危機感を、ルーセルドの今までの経験が感じ取って警笛を鳴らす。

 うまく動かせない身体に無理やり言うことを聞かせ、アンデッドの人並み外れた怪力でその場を飛び退く。


 その一瞬の後、マスターの脚がルーセルドのいた場所に踏み下ろされたのであった。


「ぐぁぁぁっ!?」


 直撃は何とか避けることができたものの、マスターの踏み付けの威力は凄まじいものであった。

 地割れが起き、衝撃と共に割れた地面が破片となってルーセルドに襲い掛かった。


 一つの瓦礫が彼の頭に当たり、出血を強いる。


「……ソルグロスのご主人って、こんなに強ぇのかよ」


 この短時間に間に起きた戦闘に、ルシルはほとんど付いていけていなかった。

 自分と絶望的なまでに力の差があったはずのルーセルドが、逆に圧倒されているではないか。


「……ララディ殿の件でマスターが素晴らしいということは再認識していたでござるが、まさかここまでとは……。拙者も、予想外でござる」


 そして、ソルグロスもまた驚愕していた。

 確かに、彼女が初めて会った時のマスターの実力は知っている。


 しかし、長年(自分たちの欲望で)ギルド本部に引きこもっていたマスターが、少々力を失っていると思っても当然ではないだろうか。

 件のララディのマスター連れ去り事件の際、『救世の軍勢(イェルクチラ)』が誇るツンデレ女、クーリンが操って随分と強化されたオーガを封殺していたことで、認識は変わっていたのだが……。


 オーガよりも何倍も高い戦闘力を持つ『鉄の女王(アイニーケン)』のギルドマスター、ルーセルドをこうまで弄ぶマスターの底が知れなかった。


「くそがぁぁぁぁぁっ!!」


 ルーセルドは傷だらけの身体をおして、悲鳴を上げる膝を殴りつけて立ち上がる。

 そして、憎き『救世の軍勢(イェルクチラ)』のマスターを睨みつける。


「あぁ、確かにテメエは強ぇな!でもよぉっ!アンデッドの俺は、どれだけ傷つけられても死なねえし、痛みすら感じねえ!!今のうちに調子に乗っていてもいいが、結局最後に勝つのは俺だ!『鉄の女王(アイニーケン)』だ!!あひゃひゃひゃひゃっ!!」


 ルーセルドは血走った目のまま、笑い続ける。

 確かに、彼の言葉の通り、マスターから受けた傷がすぐに回復し始めていた。


 頭から出血していた傷跡も、すぐにふさがってしまった。

 こうなると、どちらも決め手を打つことができないジリ貧になるだろう。


 しかし、このままいくと最後に勝つのは疲れ知らずのルーセルドだ。


「(ま、そうなると、拙者がルーセルド殿を殺すでござるが)」


 相手が不死で自己回復を持つ特殊なアンデッドであるルーセルドであろうと、殺せないことはないとソルグロスは思っていた。

 彼女が体液を返還させて強力無比な毒薬を作ればいいのだ。


 それこそ、身体に付着した瞬間に全てを溶かしてしまうような猛毒に。

 それなら、いくら回復することができると言っても、全身を溶かされてしまったら容量オーバーしてしまうことだろう。


「(マスターの格好いいところも充分に見られたことだし、そろそろ交代するでござるかな)」


 ソルグロスがそう思って脚を踏み出そうとすると……。

 ルーセルドの言葉に、マスターが成程と腕を組みながら納得したように頷く。


 その後、彼は自分の胸に手を当てて、何らかの魔法を行使する。

 マスターの全身が、一瞬淡い二色の光に包まれたのであった。


「……おい。テメエ、何をしやがった」


 接近戦でボコボコにされた結果、マスターに対して強い警戒心を抱いているルーセルドが聞く。

 そんな彼の質問に、マスターはニッコリと微笑みを返すのであった。





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