第六十九話 正義が必ず勝つというわけではない
腕の切断面から、大量の血が噴き出す。
それは、ソルグロスの腕を斬り飛ばしたラストの身体に返り血として付着していく。
頬にもぺちゃりと付いたが、ラストはそこを歪めて大きな笑みを作った。
「うぐっ!?」
追撃とばかりに、今度は盾でプッシュしてやろうとしたのだが、それはソルグロスが彼の腹に蹴りを叩き込んだことで中断させられる。
「はははっ!まんまと騙されたな!」
腹に受けた強烈な蹴りはかなりのダメージをラストに与えたが、それよりも悪である闇ギルドの構成員の腕を斬りおとせたことが、彼にとって狂気とも言える感情を与えていた。
ソルグロスは片腕を斬りおとされてうまく体勢をとることができないのか、フラフラと二の足を踏む。
「おぉ……。これはまた、バッサリといかれてしまったでござるなぁ」
「…………」
そうしたら、ソルグロスは何とものんきな声音で呟き、まじまじと切断された腕の断面を眺めるではないか。
悲鳴やら、苦痛の叫びを聞きたいと思っていたラストからすれば、何とも拍子抜けの反応である。
しかし、このような反応も仕方ないだろう。
ラストは知らないことだが、ソルグロスに痛覚など存在しないのだから。
「随分とのんきだが、片腕を失ったお前はもう俺と戦えまい」
「うむ?」
「万全の状態で俺と互角だった。武器を持つ腕が一本減れば、その分手数も少なくならざるを得ない。そんな状態で、いったいどれほど俺と打ちあえるかな?」
そもそも、この戦いにおいて自信を持っていたラストであったが、今に至って自身の勝利を確信する。
獰猛に笑みを浮かべ、剣に付いたソルグロスの血を舐めとる。
普段、正義を掲げる彼はこんなことはしないのだが、大悪である闇ギルドの構成員を倒せると思うと、ついつい興奮してやってしまった。
それを見て、ソルグロスがあっと声を漏らしていたが、怯えているのかとほくそ笑む。
「さあて、そろそろ終わりにしよう……か……」
威勢よくソルグロスに話しかけていたラストであったが、どんどんと声が小さく弱くなっていき、ついには途切れてしまった。
その理由は、至極簡単であった。
彼の口が回らなくなるほどの、あまりにも強大すぎる殺気が彼にぶつけられたからである。
「ぁ……ぇ……?」
その殺気を放つ人物は、片腕を斬りおとされたソルグロスのものではない。
彼女の後ろにいて、穏やかな笑みを浮かべている男であった。
ソルグロスがマスターと呼び慕う彼は、特に何もしている様子はない。
ラストやソルグロスのように武器を構えたわけでもなければ、魔法攻撃を放つ予兆である魔力を集めることすらしていない。
ただ、そこに立って微笑んでいるだけである。
それなのに、強き正義の剣士であるラストが身を硬直させ、言葉を介せなくなるほどの殺気をぶつけてきていた。
「拙者のために怒ってくれることに大興奮でござるが、殺気がめちゃくちゃ濃いでござる。……ちょっと、当てられてみたいでござるなぁ」
ソルグロスなどは蕩けた表情でマスターを見てそんなことを言っているが、ラストにとってはそれを気にする余裕などまったくなかった。
あまりの強大な殺気に頭はフラフラとするし、しっかりと大地に脚を踏みしめておくことすら怪しくなってくる。
「はぁ……はぁ……」
息を荒げるラストは、殺気を自分にも当ててくれと言ってマスターと、彼に迫っているソルグロスをぼやける視界で睨みつける。
マスターはすでに自分から目を離し、苦笑しながらソルグロスをあしらっている。
……おかしい。
なら、何故まだ自分はこの苦しみを味わっているのだろうか?
「……ん?ラスト殿には、すでにマスターの殺気はぶつけられていないでござるよ。そもそも、マスターの殺気を直接ぶつけられたら、十秒もしたら死んでしまうでござる」
「……は?え……」
そんなラストの疑問に答えるように、ソルグロスがチラリと振り返って事実を告げる。
そう、すでにマスターは殺気をラストにはぶつけていなかった。
しかし、それでもラストの感じる苦しみは一向に改善しない。
ついに、彼は地面に倒れ伏してしまった。
「な、何で……?」
どうして自分が地に伏しているのかさっぱりわからず、弱弱しく言葉を紡ぐ。
その顔には、先ほどまでの勝利を確信した表情はなりを潜め、ひたすらに疑問と不安を表していた。
「いやいや、拙者の血をそんな不用心に浴びたら、そうなるのも仕方ないでござるよ」
「血……?」
ソルグロスはマスターから名残惜しくも視線を外し、ラストに種明かしをしてやる。
「そう。拙者、普通の人間ではないでござるゆえ、血液もまた特殊なのでござるよ。ま、血液と言っても、それに似せただけの液体でござるが」
ソルグロスはラストが斬りおとした腕を見せて、ほれほれと自慢する。
「拙者の血液は、拙者の任意で様々な液体に変えられるのでござるよ。ラスト殿が浴びられた血液は、強力な麻痺毒でござる」
「ま、麻痺……っ!?」
ソルグロスの言葉に慌てて身体を動かそうとするラストであったが、身体はピクリとも動かなかった。
かろうじて動くのは、眼球と口だけである。
「おっと、安心してほしいでござる。それは、筋肉の活動を抑える毒ではないゆえ、呼吸ができなくなったりという効果はないでござる」
ソルグロスの説明に、ホッと安堵するラスト。
しかし、安堵してしまった自分に対して、怒りを覚えるのであった。
「くそ……っ!!」
「さぁて、この者はどうするでござるか、マスター」
毒づくラストを横目に、まずはご主人様であるマスターの意見を求めるソルグロス。
意見を聞かれたマスターであったが、彼は珍しく苦笑するだけであった。
大体、ギルドメンバーが暴走するのを止める役目の彼であるが、今回は止めるつもりはないらしい。
それを、ソルグロスは自分が腕を斬られたからだと確信した。
自分たちギルドメンバーのことを娘のように思ってくれている――――嬉しいが不本意な時もあるが――――マスターは、ラストに対して怒りを覚えているのだろう。
「いやー、照れるでござるなぁ」
でへへっとだらしない笑みを布の下で作るソルグロスを、マスターは首を傾げて見つめた。
「さっさと治せ!」
そんな二人に対して、ラストが吼える。
いや、するわけねえじゃん、とソルグロスは心の中だけ素に戻ってしまった。
「うーん……。簡単に殺してやるのも、なんだか気に食わないでござるなぁ。かといって、マスターを作戦とはいえ狙ったことは絶対に許せないでござるし……」
ソルグロスは顎に手を当てて、うーんと唸る。
比較的マスター以外には友好的な態度をとる彼女であるが、それはマスターに手を出さない者に限られる。
そして、一度彼女の怒りの線に触れてしまうと、普通には殺されない。
マスターはすでに、ラストの処遇を彼女に任せると明言している。
うんうんと唸っていたソルグロスだが、ついに納得できる処分を思いついたのか、ポンと手を合わせて嬉しそうに言った。
「よし。では、ラスト殿には拙者たちの記憶をなくしていただくでござる。その後は、無罪放免ということで」
「……は?」
ラストは呆然とソルグロスを見上げた。
そんな、そんな軽い処遇なのだろうか?
ただ、彼女たちの記憶忘れるだけで、自分は解放されるのか?
自分たちは彼らを殺しにかかったというのに……。
「そ、そんなことだけで……?」
「む?もちろんでござる。貴殿には拙者とマスターのことは忘れてもらうでござる。さて、早速始めるでござるよ」
「ふん!さっさとやれよ!」
ありえないものを見るように視線を向けてくるラストに、ソルグロスはニッコリと笑ってコクリと頷いて見せる。
ひょいひょいと軽い仕草で近づいてくる彼女を見ながら、ラストは心の中で大笑いしていた。
「(馬鹿がっ!!どのような薬物を使うかは知らないが、そんなものうちのギルドの回復魔法使いが簡単に治せる。そうすれば、またお前たちを思い出して、今度こそ殺してやる!今度こそ、正義を……っ!!)」
心の中を全てぶちまけてやりたかったが、そうすれば今度こそ殺されるかもしれない。
だから、屈辱ではあるが、今は大人しく黙っておくことにした。
もし、『誇りの盾』のメンバーでは解けないような毒だったとしても、正規で中堅のギルドということもあって、高位の回復魔法使いにもつてがある。
いざというときなら、助けてくれるだろう。
そう考えてにやけていたラストであったが、次のソルグロスの言葉に顔をサッと青くさせるのであった。
「ラスト殿も準備はバッチリみたいでござるし、早速『脳を弄る』でござるよー」
「……え?」
ウキウキとした様子のソルグロスを、今度は悪い意味で呆然と見上げるラスト。
そんな彼をお構いなしに、ソルグロスは彼の頭に手を伸ばそうとしてくる。
「ちょ、ちょっと待て!どういうことだ!?く、薬を飲ませるんじゃないのか!?」
「はん?いやいや、それだったらラスト殿が苦痛を味わわないでござろう?これは、マスターに手を出そうとした罰なのでござるから、それなりの痛みは味わってもらわないと困るでござるよ」
慌てて質問するラストに対して何を言っているのかとやれやれと首を横に振るソルグロス。
「(の、脳を弄るだと……!?)」
いったい、そのことにどれだけの苦痛を味わわなければならないのか?
想像するだけで背筋が凍るような感覚に襲われる。
「でも、拙者は脳を弄るのがへたくそでござってなぁ。記憶以外のものも弄ってしまうこともあるでござるから、その点はご了承をお願いするでござる」
ソルグロスはラストの目の前に指をさしだし、指の形を溶けさせてドロドロの液体に変える。
うじゅうじゅと、獲物を求めるように蠢く液体を見て、ラストはひっと喉の奥で悲鳴を漏らす。
「ふ、ふざけるなぁ!!どうして、俺がこんな目に合わなければならんのだ!貴様らは悪だ!国民を虐げ、弄び、殺す悪逆非道の闇ギルドだ!なのに、どうして正義の俺が痛みを味わわねばならん!苦しまねばならん!どうしてだぁっ!!」
ラストは目を血走らせ、唾を吐き散らしながら喉を張り裂けんばかりの怒声を上げる。
そうだ。自分は王国のため、正義のために闇ギルドを討伐しようとやって来たのだ。
それなのに、どうして自分が地面に突っ伏しているのだ。
どうして、これから死よりも恐ろしいことをされようとしているのだ。
「……勘違いしているようでござるから、言っておくでござるが」
はあはあと荒い息をして麻痺毒で地面に突っ伏しながらも、強烈な殺意を孕んだ目で睨みあげてくるラストの目を、なんでもないように見返すソルグロス。
「拙者たち『救世の軍勢』は何の理由もなく犯罪行為をしたり、虐殺をしたりといったことはないでござるよ」
理由があれば、平然とそれを断行するということである。
「おそらく、同じく闇ギルドである『鉄くず』……もとい、『鉄の女王』と同一視されているんでござろうな。いやー、困った、困った」
ソルグロスは、ラストがこれほどまでに強く闇ギルドを敵視するのは、ほぼ間違いなく『鉄の女王』のせいだろうと確信していた。
情報を秘匿して陰に生きる『救世の軍勢』と違って、彼らも闇に生きる者たちであるにもかかわらず、頻繁に表世界で犯罪行為を繰り返していた。
まったく、目障りこの上ない。
「ま、それはそうとして……」
ソルグロスはラストの側にしゃがみ込み、綺麗な声で告げた。
「――――――マスターに手を出そうとしたことは、十分『救世の軍勢』の制裁原因になるでござる。脳をかき回される覚悟は良いでござるか?」
「ひっ、ひっ……!」
ラストの目には涙が浮かんでいた。
こんなはずではなかった。こんなはずでは……。
ラストが最後に思ったことは、そんなことであった。
その後、彼の絶叫が森中に響き渡ったのであった。




