第三百三十七話 地獄
ゾッとアナトの背筋を冷たいものが走った。
それは、メルトロンの使った杖のせいだ。
彼は、『スカリオーネ』とは比べ物にならないと言った。
天使教徒以外の信者の命を吸い取るという凶悪な聖具。それを、上回るものだと。
「あなた……それはなに?」
アナトの言葉が伸びなくなった。
それほど、今の彼女に余裕はなかった。
メルトロンが……忌々しい笑みを浮かべている天使がマスターに何をしたのか。
ただ、そのことが知りたかった。
「ふはははっ!なんだ、人工天使。必死な顔をするじゃないか。この魔王は、そんなにお前にとって大切な存在なのか?」
「答えになっていないわよ?……答えろ」
アナトの殺気は、もしかしたらオーガをもにらみだけで殺してしまえるほどのものだった。
しかし、メルトロンはそれを平然と受け止めて嘲笑う。
余裕の笑みを浮かべている女も、こんなにも切羽詰った顔をするのだ。
そのことが、愉快で仕方なかった。
そして、その女の顔が絶望に染まった顔を見たくなった。
「なに、安心しろ。これも、『スカリオーネ』と一緒だ。私の……天使の敵の命を吸い取る素晴らしき杖よ」
「……そう~、それならぁ」
安心だ。アナトの顔がほころぶ。
一般的な魔族の命すら吸い取れないのであれば、マスターの命を吸い取れるはずがない。
また、その魔族たちの意識が失われる……もしくは何人か命を吸い取られるかもしれないが、マスターに比べれば安いものだ。
「ただ、その対象をこの戦場にいる者たちではなく、魔王ただ一人に絞ったがな」
「ッ!?そ、そんなことが……!?」
『スカリオーネ』は、対象とした範囲が広く数も多すぎたために命を吸い取ることができずに意識を奪う程度に収まった。
しかし、その対象を一人に絞ったら……?
しかも、今回のそれは天使の力をまねた『スカリオーネ』ではなく、本当の天使の聖杖である。
アナトがバッとマスターの方を振り向くと……。
「可能だ。ほら、魔王を見てみろ」
「ま、マスター……?」
マスターはそこに立っていた。
倒れていない。しかし、顔も上げていなかった。
いつも優しい微笑みを向けてくれていた彼の顔が、見えない。
まさか……とアナトの頭に最悪の状況が思い浮かぶ。
しかし、幸いなことにメルトロンは残念そうに首を横に振った。
「いや、死んでいないな。まったく、呆れる。どれほど生命力が強いのか……まるでゴキブリだな」
マスターをゴキブリ呼ばわりしたため、ただでは殺さず生き地獄を味わわせることは確定した。
しかし、彼が死んでいないということにアナトは心の底からホッとする。
やはり、マスターは普通の人とは一線を画しているのだ。
たとえ、天使の力でも彼を殺すことは不可能なのだ。
「だが、それだけではない」
だが、アナトの喜びを打ち砕くように、メルトロンは嗜虐的に笑った。
「言っただろう?この杖は、『スカリオーネ』とは比べ物にならんと」
メルトロンの言葉を裏付けるように、魔力が渦巻く。
それは、マスターの足元で広がり、ぽっかりと大きな穴をあけた。
「こ、この穴は……!?」
今まで見たことのない光景に、アナトが普段の余裕をかなぐり捨てて驚愕する。
そんな余裕を失ったアナトを見て、嬉しそうにメルトロンは話す。
「天使の敵を地獄に叩き落とす。これが、この杖の力よ」
「ッ!?」
つまり、その穴は地獄につながっているというのか。
存在するか存在しないのかもわからない世界に、あの穴は繋がっているというのか。
しかし、確かにアナトがかつて聖女であったころ、そのような話を聞いたことはあった。
「死ななかったのは予想外だったが……まあいい。生きたままでも地獄には落とせる」
マスターが命を落とさなかったことは目を見張るべきことだが、それでもメルトロンの勝利は変わらない。
地獄に落とされるのだから、勝負も何もないのだから。
「地獄はつらいぞぉ?何もない空間だ。あるのは、以前この杖で地獄に送られた者たちの死体だけ。誰もいない、何もない。そんな空間で、知性のある生物が生きていくことなど不可能だ」
メルトロンの言葉に絶望しかかっていたアナト。
彼女にとってマスターが生きる目的そのものなのだから、それを失うと分かればそうなっても仕方ない。
だが、絶望されかかっていたメルトロンの言葉で、ふとある考えにいきつく。
誰もいない、何もない空間。
…………あれ、チャンスじゃね?
「……それだったらぁ」
「何の思惑があるのかは知らんが、お前は無理だぞ人工天使」
アナトがマスターを一人にさせまいと自分も付いて行こうとしていると考えたメルトロン。
嗜虐的な笑みを浮かべて、その考えを否定する。
「何でよぉ!私も地獄に落としなさいよぉ!マスターと一緒にぃ!せっかく二人きりになれるのにぃっ!!」
「な、何故?」
まるで、愛おしい人を独占しようとするヤンデレみたいで、少し頬を引きつらせるメルトロン。
「いえ、ここはマスターの奴隷であるこの私が……」
「いやいや、お前たちじゃ不安だ。やはり、一番戦闘能力が高い私が……」
「いやいやいや、あんたには妹もいるじゃない。ここは、マスター以外に身寄りのないあたしが……」
「……何で地獄行きにこいつらはそんなに前向きなんだ?」
そして、次々に地獄行きを望んで手を挙げだす『救世の軍勢』メンバーに困惑を隠しきれないメルトロンであった。
普通、嫌がるものなのだが……。
「まあ、お前たちが望んで地獄に行きたいとぬかすなら、私は送ってやらん。そっちの方が、お前たちが悲しみそうだからな」
「だから天使ってクズなのよねぇ!!」
アナト、怒りの絶叫。
せっかく、鬱陶しい『救世の軍勢』メンバーを出し抜けると思っていたのに……。
手助けしてくれるのならば、数十発全身を殴るだけでメルトロンを許してやろうとも考えていたが、それは撤回である。
なお、アナトの力で数十発も殴ったら大抵の生物は死ぬ。
「ほら、見ろ!お前たちがくだらない話をしている間に、魔王はもう――――――!!」
アナトのクズ発言にかなりはらわたを煮え繰り返しながらも、メルトロンは狂笑を浮かべていた。
不快な魔王は、今地獄に落ち……ずに平然と宙に浮いていた。
「……もう…………」
メルトロンの口からは『もう』しか出てこなかった。
そんな彼を見ながら苦笑し、マスターはふわふわと浮いて穴の外に出た。
「もう……何かしらぁ?」
アナトはニヤニヤと馬鹿にしきった笑みを浮かべて、メルトロンを見下ろしていた。
彼女が……『救世の軍勢』の面々の余裕の秘密は、これにあった。
確かに、命を吸い取る凶悪な聖杖がマスターに使われた時は肝を冷やしたが、マスターの顔を見ると彼は少し疲れた陰りはあったものの笑みを浮かべていた。
だからこそ、彼女たちは正気を失わずに済んだのである。
「な、何故だぁっ!?何故、地獄に落ちない!?」
だが、メルトロンには何故マスターが穴に落ちないのか、理解できなかった。
あれは、空が飛べるから回避できるなんて生易しいものではない。
抵抗しようとも、穴に吸い込まれて地獄に叩き落とされるはずだ。
マスターは苦笑しながら、何も分かっていない彼に教えてやる。
――――――だって、本当の地獄じゃないじゃないか。
「なっ……に……!?」
メルトロンはポカンと口を開ける。
彼は知らなかった。
天使が地獄と称して突き落とす場所は、単に天使教の……天使たちの気に食わないもしくは邪魔な存在をこの世界から追放するための疑似空間であることを。
疑似とはいえ異次元なので、それでも落とされてしまえばその空間から抜け出すことはほぼ不可能なので地獄と称するのもあながち間違っているわけではないのだが、偽物の地獄に吸い込まれるほどマスターの闇は浅くない。
それに、彼が偽物の地獄に落ちるはずがなかった。
――――――君を、本当の地獄に落としてみよう。
「ほ、本当の地獄、だと……!?」
マスターの言葉に頬を引きつらせるメルトロン。
ハッタリだ。そう言おうとした瞬間、彼の足もとがドプッと黒く染まった。
そこは、まるで底なし沼のように踏みしめるべきところがなく、あがいても抜け出せない。
しかし、メルトロンは天使である。
その自慢の白い翼をはためかせて無理やり飛び上がろうとしたが、そんな彼を絡め取るように黒い沼から細い手が伸びてきた。
「ひっ、ひぃぃいぃぃぃぃぃっ!!なんだ、これはぁ!?」
少し前まで嗜虐的に笑っていた男は、今心の底から怯えて醜く顔をゆがめていた。
端整に整った顔も台無しである。
「お、お前、いったい何者なんだ!?魔王ではないのか!?」
メルトロンの詰問に、マスターは苦笑する。
魔王とは、彼の長い人生の中でほんの少し前にもらった称号である。
マスターを表すのに、それはあまり適切ではないだろう。
彼は、少し地獄を統括する存在と親交があり、ごく少数ではあるものの生物を地獄に落とすことが許可されているだけだ。
「くっ、くそがぁっ!この私が……崇高なる天使である私が、地獄に堕ちるわけがないだろうがぁぁぁぁぁっ!!」
普通の人間ならすでに引きずり落とされているだろう。
しかし、メルトロンは激しく抵抗する。
光の槍を作りだして伸びてきた腕を切り捨て、翼から何条もの光を放つ。
天使の敵を屠るはずの聖なる力は、しかし黒い沼を消し去ることはできなかった。
それはそうだ。たとえ、超常の存在を自称する天使でも、個人によっては地獄に落とされることだってあるのだから。
一本の腕では引きずり込めないと考えたのか、沼から何本も腕が伸びてくる。
それらすべてが自分を求めて手を広げてきている光景を見て、メルトロンははっきりと絶望した。
アナトにさせようと考えていた顔を、今まさに彼がしているのであった。
「ひっ、ひぁぁぁぁあぁぁぁっ!?た、助けろぉぉぉっ!!」
手数でどうしようもないと悟ったメルトロンが次の手段としたのは、彼が下僕と認識している天使教徒たちであった。
身体に何本も腕を巻きつけられながらも、必死の形相で彼らに命令する。
「何をそこでじっと見ている!?私を助けないか!貴様らの信仰対象だぞ!!早く助けろぉぉぉぉっ!!」
だが、彼の望みも空しく誰も動かなかった。
皆、気まずそうに顔を逸らすのみである。
それもそのはず、もはやここにいる天使教徒たちは、今はメルトロンに対する信仰をほぼ完全に失っているのだから。
デニスを殺し、自分たちを下僕と呼んで命を散らせようとした男のことを、彼らはこれ以上信仰することを止めたのである。
もちろん、それでも天使にその身を捧げようとした者たちは大勢いる。
「あー、疲れたわね」
「最後は完全に作業みたいになっていたな」
「…………」
だが、そういった者たちはすでに死んでいる。
先ほどの、マスターを助けに行かせないために天使が『救世の軍勢』メンバーを足止めに行かせた結果、狂信者は全て殺されていた。
クーリン、リース、シュヴァルトは大したダメージを負っている様子もなく、多少の疲労感を見せる程度であった。
「そうだ、身代わりになれ!私の代わりに、ここにいる全ての天使教徒を地獄に落とせ!取引だ!もう、私は天使教の布教を止めさせる!お前たちマスター教が好きにすればいい!だ、だから……!!」
そのことに気づいたメルトロンは、マスターに取引を持ちかける。
だが、これは取引にもなっていないただの命乞いでしかなかった。
そもそも、マスターとしてはマスター教の勢力拡大は望んでいないので、別に天使教がなくなってくれる必要はないのである。
メルトロンの尺度で彼を測っても何の意味もない。
だから、メルトロンが天使としてのプライドをかなぐり捨てて命乞いをするのを見ても、マスターは穏やかに微笑むだけだ。
アナトの過去を掘り返したのだから、それ相応の罰を受けてもらおう。
「うわぁぁぁぁぁぁぁっ!!嫌だぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
メルトロンは少しでも腕から逃れようとして暴れるが、微塵も動くことができない。
脚、腿、腹、胸、首と次々に穴に落ちていき、ついには頭頂部まで完全に飲み込まれてしまうのであった。




