第一章④ 燕尾服の男
アマネールが船着き場に降りると、男は朗らかに出迎えてくれた。相変わらず整った身だしなみだ。牛車で送ってくれたトムと同様、燕尾服に身を包み、袖口にカフリンクスをつけている。
一見ただのお洒落に見えるそのアクセサリーは、死後の世界ならではの代物。天結と呼ばれる、星霊を呼び出すための道具だろう。トムのとは違い、男の袖を飾る宝石は黄色に輝いていた。
「お待たせいたしました。アマネール様ですね、お話は聞いております」
男はそう言って一礼する。
軽く挨拶をかわしたのち、アマネールは招かれるままに船に乗り込み、中にある深紅の長椅子に座り込んだ。続けざまに燕尾服の彼が船首に立ち、ちらりと客席を振り返った。
「では、参りますよ」
船の前方の水面で、澄んだ黄色の魚がはねる。やがて船は静かに進み出した。
肌寒い川風を感じながら、アマネールは船に揺られている。その途中、アマネールは何隻かの船とすれ違った。ルエラが言った通り、水上の交通も発達しているようだ。
船と行き交うたび、少年はそれを牽く魚座の星霊を眺めていた。
舳先から垂らされた革製の紐の先で、二匹の魚が煌めいている。その色は船ごとに異なり、淡い水色や濃い紫色など、実に色彩豊かだった。星霊の放つ輝きは、それぞれの船主の天結をあしらう宝石に起因するのだ。
色は違えど、それらは等しく美しかった。水面間近から眺める星霊は、橋の上から見るよりも一段と映えていた。
そう言えば、アマネールの船を牽く星霊は一匹である。少年が不思議に思った旨を伝えると、運転手はさわやかに答えてくれた。
「魚は魚でも、私のは少し違います。私の星霊は、飛び魚座でございますから。ほら」
次の瞬間、船を牽く魚が水上に飛び出した。天結に添えられた宝石のように、黄色に透き通った細長い胴体からは、特徴的な四枚の羽が生えている。水中生物ながら飛翔する翼を得た進化の神秘、トビウオだ。
「魚座は二匹の魚で表される星座ですが、飛び魚座は一匹で描かれるんですよ」
滑空する要領で船を牽く星霊を眺めていると、アマネールは水面が鏡のように澄んでいるのに気づいた。黄色のトビウオがそのまま川に映っている。思わず船縁から身を乗り出し、アマネールは水鏡を覗き込んだ。
水面が映し出すのは、興味深げな少年の顔面だった。エステヒアの古めかしい雰囲気にはそぐわない、十四、五くらいの男児の顔である。
無造作な黒髪は、目にかかる寸前まで伸びている。癖のない前髪の間からは、灰色がかった切れ長の双眸が覗いていた。
数秒間、アマネールは川に映る少年をまじまじと見つめた。己に関する記憶がないため、もちろん容姿にも心当たりがなく、その少年とはこれが初対面だった。
しかし、アマネールが彼自身に違和感を持つことはなかった。アマネールは何ら抵抗なく、それを自分の姿として受け入れられたのだ。
ーー自分が何者かは否が応でもわかってくる。少しずつ、本当に少しずつだけどね。
ルエラとの会話を頭の片隅に、アマネールは水面を凝視した。首を右に傾ければ、反射する少年もその通りに動く。紛れもなく自分自身だ。アマネールはなんだか嬉しくなった。
ふと、アマネールは川の異変を感じ取った。水が澄んでいるどころではない。光り輝いている。然れどもこれは、水面そのものが光っているというよりーー。
振り返って空を仰ぎ、アマネールは息を呑んだ。視界に飛び込んできたのは、ただひたすらに美しい、満天の星空だった。天のいたるところで星々が輝き、おびただしい流星群が飛び交っている。悠々と流れる天の川はあまりに鮮明で、今にも手が届きそうだ。
「綺麗でしょう? エステヒアの星空は」
頭上の風景に圧倒されるアマネールを見て、燕尾服の男は誇らしげに言った。
アマネールは船に備え付けの長椅子に寝転び、天に思いをはせていた。幾万の光に彩られる夜空は、日が完全に落ちたのにも気づかないほど、神秘的な眺めであった。まさに彼が言う通り、星の都の名にふさわしい絶景である。これほどまでに幻想的な夜空を見たのは初めてだ。
でも......なぜだろう。これと似た景色を、昔どこかで見たような......。そんなえも言われぬ既視感に、アマネールは捉われたのだった。
「おや、運がいいですね。ないなか見れたものではございませんのに」
突然、男は陽気な声を上げた。手をかざし、上空を見つめている。釣られて同じ方向を見遣ったアマネールは、さらに仰天させられた。
頭部から徐々に細くなる流線型の胴体。体表に刻まれた独特な溝やしわ。水でも掻くように上下する胸びれに、左右に分かれて広がる尾びれ。その巨体が醸し出す圧倒的な風格には、あの世の帝王とでも言わんばかりの迫力があった。
くじら、である。よく知られた生物を象る、今にも消えてしまいそうな半透明の体からは、全く生気を感じない。儚くも美しいこの世界の象徴、星霊だった。
あろうことか、その星霊は空に浮かんでいる。満天の星空の一角で、白く透き通ったくじらが泳いでいるのだ。
「なに......あれ」
目を見開いたまま、アマネールは声を漏らした。変な夢でも見ている気分だった。
「本土からの配給です。本当に珍しいのですよ。ここ来て早々に拝めるなんて、よかったですね」
本土? 首を傾げるアマネールを見て、男はしでかしたことを悟ったらしい。彼は慌てて付け加えた。
「......申し訳ありません。私のような部外者に、それを語る資格はありませんでした。
よろしければ、次の水曜の晩、街の中心にあるハル・エトワーレ広場に足を運ばれてみてはいかがでしょう? きっといい話が聞けると思いますよ」
「そう、ありがとう」
いささか疑問はあるものの、アマネールはすんなりと引き下がった。問い詰めたところで、男は答えてくれそうになかったからだ。
それに、もう十分だった。これ以上突飛な話を聞いたら頭がパンクしてしまう。なんせ今、視線の先でくじらが泳いでいるのだ。しかも底抜けに綺麗な、数多の星辰を背に。
「ほんと、ありえないっての」
アマネールはつい呟く。
「ははは。そうですねえ。なにしろ世界が違いますから。ここは死後、見るもの聞くもの、最初は慣れないものばかりです。
ひいては自分が何者かすらあやふやな始末です。ときに、ご自身をご覧になっていかがでした? 記憶をお持ちでないゆえ、違和感を覚えたりもするでしょうが、大丈夫です。じきに慣れますよ」
アマネールは、先ほど川を覗き込んだのを思い出した。
「僕、別に変だとは思わなかった」
アマネールの何気ない返事に、男は度肝を抜かれたようだ。目を真ん丸にして「おお」やら「何と......」やらしきりに独り言ちている。
「僕、何かした?」
「......いえいえ、取り乱して申し訳ありません」
ーーついに、お越しになられたのですね。
「慣れないと言えばさ、もうちょっと気安く喋ってよ。僕、まだ子供だよ」
大粒の涙が一滴、男の瞳から流れ落ちたのに、長椅子に寝転ぶアマネールは気付かなかった。
ーー「シアステラ様、この度は本当に......なんとお礼をすればいいのやら」
ーー「その堅っ苦しい感じをやめてくれ、セルルス。僕にはそれで十分さ」
「......はい」
「いや、だからさ」
苦笑するアマネールをよそに、男は鼻をすすった。
しばらくアマネールは無心で、かつ無言で星空を眺めていた。どれだけ見ても飽き足らなかった。あまりに夢中だったので、船の停泊にも気づかなかった。
「ご到着ですよ」
燕尾服の彼が、非現実的な船旅の終わりを告げた。
船から降りたアマネールを迎えたのは、人一人がちょうど通れるほどの石畳の路地だった。ルエラと出会った大通りとはえらい違いである。どうやら船に揺られている間に、ずいぶん遠くまで来たようだ。
男に先導されるままに、アマネールは狭い一本道を進む。しばし歩くと、石造りの道が唐突に途切れ、穢れなき純白の階段が現れた。男は階段前で立ち止まり、おもむろにその口を開く。
「では、私はここで。おやすみなさいませ、アマネール様」
「ねえ、どうして僕によくしてくれるの? あなたは一体......?」
男との別れを悟り、アマネールはずっと気にかかっていたことを尋ねた。
「私はベントレー・セルルス。何てことはありません。世界で一番の、あなた様の味方です」
何てことはないどころか、何の答えにもなっていない。アマネールはもっと掘り下げたかったけれど、彼がそうさせてくれなかった。男は深く一礼したのち、そそくさと去ってしまったのだ。
ひとり残されたアマネールは、仕方なく雪白の階段を上る。上り切った先には、アーデント川に掛かる橋から目を引いた、紺青屋根のドームがあった。中には天蓋付きの豪華なベッドが置かれている。
よく見ると、シーツの裾に一輪のスズランが添えられていた。アマネールの頭に、スズランの花瓶を両側に配したスイーツの陳列棚がよぎった。
ーーせっかくだし、お礼させてちょうだい。
アマネールはふふっと笑って、ベッドにもぐりこんだ。




