第四章⑮ エピローグ
「それじゃあ、全ては女王様の策略ってことですか?」
クレアは驚きで声を裏返らせた。
一月下旬。バジュノン宮殿には寒々しい風が吹き抜けている。宮殿の二階に併設されたバルコニーで、クレアは石造りの柵に腰を掛け、足をぷらぷらと揺らしていた。
「だからそう言ってるだろ?」
バルコニーの内側で胡坐をかき、男はぶっきらぼうに答えた。長い睫毛の映える中性的な顔立ちを、艶やかな黒髪が縁取っている。彼の首元には、月光さながらに幽玄な光を放つ宝石をあしらったネックレスが掛かっていた。
「ウテナはとにかく聡明だ。どんな思考を巡らせているんだか、世界の動向を手に取るように読んでいる。そのうえ決断力も申し分なく、ご丁寧に俺たちを護衛につけるほど用心深い。非の打ち所がないよ。俺も頭が上がらないね、アミタユス家には。さすがは三百年前、一族で世界の命運を背負っただけはある」
男は深い感嘆の息を漏らした。
「もしかして、この度の禍黎霊使いの動きも想定済み?」
「だろうな」
「そうなんですね。私、あまり知らなくて」
クレアは小さく肩を落とした。
「それだけお前が大切にされてんだよ。よかったじゃないか」
「え?」
「あの姫さんは、核心的なことほど口にしないのさ。余計な心配させたくないんだろう。あれだけ気に掛けているアマネールにだって、話してないことは全然ある。
ノクスの天結を隠したのもそのためだ。ミフェルピアやアマネールのように、彼にゆかりのある者には辛い記憶だからな。きちんと段階を踏んだならまだしも、ほいそれと見ていいものじゃない」
「それは初耳でした。なら良しとしましょうか」
クレアは胸をなでおろすと、何かを察したように男の方を振り返った。
「質問いいですか?」
「さっきもしたろ。今さら改まって何だ」
「八年前は、ノクスが戦端を開きましたよね? でも、今年は奴らの方から仕掛けてきた。此度のような襲撃は、まだ続くのでしょうか?」
「続くだろうな。しかも、以前のように八年も隠密に動いたりはしないはずだ。お前も考えればわかるだろ? 奴らはウェンディを器に選んだ。ってことは......」
「勝負を急いでる」
「その通り」
男は迷いなく言い放った。
「......例の、蛇座の禍黎霊についてはどう思います? エステヒアで直に対峙したんですよね?」
「一言で言えば、不気味だよ」
「というと?」
「たとえほんの少しでも手を合わせれば、おおよその実力は推察できる。はっきり言って、あの蛇、そこまでじゃなかった。決して弱くもないが、霊体化まで会得した鷲座の使い手が負けるとは思えない。
基本的に部下任せで、頑なに表に出てこないってのも不可解だ。かと思えば、昨秋にはエステヒアを襲ったりしてな。とにかく、何か裏があるぞ」
◇◇◇◇◇◇
一方その頃、バジュノン宮殿の三階に来客が訪れていた。癖のない黒髪に、灰色がかった切れ長の瞳。右耳には紺青に煌めく宝石をあしらったピアスを着けている。
「あら、いらっしゃい。久しぶりね、アマネール」
ウテナは笑顔で挨拶した。頭に空色のクリスタルが輝くティアラを戴き、ガラス張りの大窓から本土の景色を見遣っている。彼女の側近であるセフィド・ムルパティは見当たらなかった。
「ほんとだよ。肝心なときにいないんだから」
アマネールも笑って返した。今では腹の傷もだいぶ良くなり、包帯も取れている。
「思いのほか大丈夫そうね。顔色もいいし。元気そうで安心したわ」
ウテナは拗ねたように唇を尖らせる。アマネールは困惑し、眉間にしわを寄せた。
「前世の魂に刻まれた記憶も、かつてお父様が遺した記憶も、穏やかじゃなかったでしょうに。案外けろっとしてるのね。あーあ。私の助けはいらないってか。ったく、あの子には負けるわ。ちょっと妬けるわね」
ウテナは悪戯っぽくにやにやしている。
「勘弁してよ」
「君はこれからどうするの?」
一切悪びれた様子もなく、ウテナは問いかけた。
「僕、一度エステヒアに帰ろうと思う」
「そう」
「だから、船を出してほしくて......。あとさ、一緒に連れて行きたい人がいるんだけど」
アマネールは本土で出会った友人たちを、故郷で世話になったルエラや長老に紹介したかったのだ。
「私が断ると思うの?」
「ありがとう」
アマネールは晴れやかに笑った。
「それで、今日はお別れをしに来てくれたの?」
「うん。それと、これを返そうと思って」
アマネールはポケットからネックレスを取り出した。トップには鮮やかな深紅のルビーが嵌め込まれている。
「あら、どうしたのこれ。よく見つけたわね」
ウテナは実に白々しく言った。
「何を今さら。そう仕向けた張本人が」
「さあ、何のことかしら? にしても、君が持ってたのね」
「ミフェルが預けてくれたんだ。これは僕が持つべきものだって。だけど......」
「あいにく私も同意見よ。このネックレスはアマネールが持つべきだわ」
アマネールは手のひらにあるネックレスを見つめた。父の穏やかな声音がほんのりと思い起こされる。
「いいの? 僕が持ってたら、また連中に狙われたりしない?」
「いいえ。しばらくは安全よ。奴らがこの天結に執着するとは思えないもの」
ウテナが言うなら間違いないだろう。それに、彼女の同意があればアマネールは十分だった。アマネールはネックレスをそっとポケットにしまい込んだ。
「ねえ、いくつか聞いてもいい?」
「どうぞ」
「父さんの力は、予言のせいで狙われた。すなわち、蛇座の男が固執してるのは予言なんだ。ってことは、エステヒアが奴に襲われたのも予言に関係が......?」
「はて、どうかしら」
ウテナは遠くを眺め、曖昧に答えた。食い下がっても無意味だと察し、アマネールは話題を変えた。
「さっき、父さんの力はしばらく安全って言ったけど、それは父さんの力に限った話? 他の理由で奴らは攻めて来ると思う?」
「......来るでしょうね。私たち、塒の根本を叩いたわけじゃないもの」
少し間を置いてから、ウテナは慎重に口を開いた。
「そっか」
やけにあっさりとしたアマネールの返事に、ウテナは面食らったようにまばたきした。
「ずいぶん冷めてるわね。何も思わないの? 怖かったり......しないの?」
「もう、大丈夫だから」
アマネールはゆっくりとかぶりを振った。
「いろいろとありがとう。いつか、また会いに来るよ」
最後に温かく微笑んで、アマネールはバジュノン宮殿を後にした。
ゆっくりと去る少年の後ろ姿を見届けながら、ウテナはきっと口を結んだ。彼女に想起されたのは、三百年の歳月を超えた記憶だった。
「ようやっと終わったな、アリス」
「そうかな?」
アリスの煮え切らない返答に、ハルは無言で眉をひそめた。
「奴らは力だけで序列を決める生き物だ。それなのに、オリオンとケンタウルスは互角の状況にある。要するに、突出した強者がいないんだ。だから統率が取れてない。有り体に言えば、奴らはその力の割に隙だらけだった」
「何が言いたいのさ」
「星霊の時代は始まったばかりだ。天結を機にその流れは加速すると思う。つまりだ。いずれ稀代の巨悪が台頭し、禍黎霊使いに絶対の統率者が現れる。その時こそが、本当の戦いになるだろうな。悪いけど、ハル。未来は君の子孫に託したよ」
◇◇◇◇◇◇
アマネールが宮殿の外に出ると、友人たちが待っていてくれた。今日は行きつけの福腹亭で夕食の予定なのだ。五人は連れ立ってトレッフュ商店街へと歩き出した。
「結局、君が持つことにしたのね」
アマネールのポケットからはみ出すネックレスの鎖を見て、ユリは微笑んだ。
「うん。ウテナがそうするべきだってさ」
「よかったじゃん。私もそう思うよ」
五人は談笑を交わしながら進む。西に傾いた日が、あかね空を染め上げていた。
「にしても、散々だったわね。女王が本土を離れたばかりに」
リディアはため息混じりに言った。これにはグレイが激しく頷いている。
「ウテナは多分、何もかもお見通しだったんだと思うよ」
アマネールが続けた。
「もちろん危険だったし、散々な目にあったけど、それすらもウテナは織り込み済みだったと思う。きっと、段階を踏んで力をつけた者が、禍黎霊に立ち向かうのを期待してたんじゃないかな。
だから僕にヒントをくれたり、学校の保管庫に秘匿性の高い資料を隠したりしたんだ。僕たちを本気で禍黎霊から遠ざけたいなら、危ない資料なんて破棄すればいいだろ? 第一、僕を本土に呼ばなければよかったわけだし」
「まあ確かに、その通りなんだけどさ」
グレイは今なお多少の不満があるようだ。それを見て取ったリディアが、「大した怪我もしてないくせに」とからかっている。
「何だかんだ面倒見がいいし、結構じゃないか。クレアだってウテナの差し金みたいだしな。じゃなきゃグレイ、君は今ここにいないぜ」
「そうよ。本当によかったわ。あたしたちの船まで用意してくれるなんて、ありがたいじゃない」
そうこうする間に、彼らはトレッフュ商店街の入り口を潜り抜けていた。薄紫に染まった夕闇の彼方で、一筋のほうき星が帯を引いていた。
◇◇◇◇◇◇
二月下旬のある日。アマネールたちは、バジュノン宮殿前の庭園に出揃っていた。庭園の中央には、淡紫に澄んだ豪華な船が鎮座している。アルゴ座の星霊、アルゴー船だ。
エステヒアへの帰還を望むアマネールたちのために、ウテナのご厚意で星斗会が船を出してくれたのだ。
グレイたちは興奮をあらわにして乗り込んでいる。はしゃぐのも無理はない。アマネール以外に星雲海を航行した経験がある者はいないのだ。
先を急ぐように乗船する彼らを、船の主であるハウレットが出迎えた。両肩から緑のラインが映える白装束に身を包み、胸には金枠で縁取られたブローチを着けている。
五人が甲板に揃うと、船は静かに上昇を始めた。眼下の街並みが少しずつ小さくなっていく。
この季節、どれほど船が高度を上げようと、濃い霧が周囲を包むことはない。それもそのはず、二月下旬には星雲海の霧が一時的に消失するのだ。普段は星霊を顕現しないと意識を保てない星雲海だが、この数週間だけは、誰もが明瞭な意識のまま渡航できるのである。
一帯の霧が晴れた星雲海に広がるのは、ただひたすらに、美しい星空だった。数多の綺羅星が照らす夜空を、いくつもの流星群が交差している。悠々と流れる天の川はあまりに鮮明で、今にも手が届きそうだ。
「君たち、星雲海は初めてかい?」
息を呑むほど美しい眺望に魅了され、見惚れている少年少女たちに、ハウレットは声をかけた。その口元は意地悪そうに吊り上がっている。
「ようこそ。星霊の住処へ」
慌ただしく甲板から乗り出す友人たちを横目に、今度はアマネールの口角が持ち上がった。
「まさか、違うよ。童話じゃないんだか......ら?」
アルゴー船の真下から姿を現したのは、巨大な流線型の胴体を持つ、白く透き通った鯨座の星霊だった。星の光を全身に纏い、夜空をゆったりと泳いでいる。
鯨を追いかけるように、紺碧に澄み切った奔流が湧き上がった。本土を流れるエリダヌス座の星霊だ。川面に目を凝らせば、群れを成す魚座の星霊や、水しぶきを散らす飛び魚座の星霊が見える。さらに彼方の空では、鳥たちの星霊が星影を背に羽ばたいていた。
「若き英雄どもの凱旋だからね。これくらいはしてやらないと」
ハウレットは満足げである。
この幻想的な光景に、ノアとリディアは歓喜の声を上げていた。ユリやグレイも魅入られている。
つくづく不思議なものだ。ご多分に漏れず、アマネールは神秘的な星霊たちに目を奪われていた。
今、僕が生きているのは、空に浮かぶ星座を霊体として顕現させた、星霊という不思議な力のある世界。星座と共に、天上と共存する世界である。それは、まさしくーー。
煌めく星々に手をかざし、アマネールはにやりと笑った。
「らしくなってきたじゃないか」
ご愛読ありがとうございました。
一生懸命書いたので、よろしければ評価していただけると嬉しいです。もっと時間があれば作家になりたかった




