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星の紡ぎ人  作者: 日向かげ
第四章 紅の鷲

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第四章⑭ ノクス・アズール(下)



 次にアマネールが降り立ったのは、というより召されたのは、非現実的な空間だった。大地が灰色にくすんでおり、踏みしめる実感が得られない。その上、いやな浮遊感が全身を包んでいる。


 しばらく経って、アマネールは大まかな状況を把握した。足元にうねる鉛色の塊の切れ間から、本土の街並みが覗いている。大地の正体は雲だったのだ。アマネールは本土の上空に浮いていたのである。


 あたりを見回すと、紅玉を投影したような光が差していた。光の主はノクス・アズールだ。深紅のもやを纏った彼は、翼を広げてかすかな風に身を委ねている。厚手の外套を羽織っており、ルビーをあしらったネックレスは衣の内に隠されていた。


「ようやくお出ましか」


 ノクスがぽつりと呟く。雲を裂くように現れたのは、かつてアマネールも対峙した、禍々しい漆黒のもやを纏う大蛇であった。


 岩場を這う(まむし)のように、波間を泳ぐ海蛇のように、大蛇は雲の隙間を抜けてくる。全長十五メートルはあろう蛇の頭部には、一人の人間が佇んでいた。純黒のローブに身を包み、フードを目深に被っている。顔の全容は見えなかった。


「やっと会えたな。君に辿り着くまで、随分と苦労したんだぞ」


「どうして私の存在に気付いた?」


 男の声だ。意外なほど若い。声色のみで断定するのは危険だが、インフェリオールに比べればずっと若いだろう。四十代、三十代......いや、もしかすると......。


「とある情報を仕入れてね。発端はそこからさ」


「情報......?」


「教えるかよ。まあ、最初は僕も半信半疑だった。禍黎霊使いなど実在しないと思っていたからね。だが調べを進めるうちに、不審な痕跡が随所に見つかったんだ。驚いたよ。本当に、こそこそと悪事を企む鼠がいる。それも、一匹や二匹じゃないときた」


 大蛇の頭に立つ男は答弁をしなかった。冷徹な威厳を放ち、ノクスの話に耳を傾けている。


「答えろ、お前が禍黎霊使いを束ねる組織、(とぐろ)の頭だな?」


「いかにも」


「お前ら、何が目的だ?」


「破壊、そして創世だ。この手で世界を作り替える。絶対的な力のもとに、過去の愚行を正してやる」


 ノクスはこれといった反応を示さず、さらに質問を続けた。


「謀略の実行を部下に押し付け、頑なに表に出たがらないのはどういうわけだ?」


 男は冷笑で応じた。まともに取り合う気がないようだ。


「答えたくないか。とんだシャイボーイめ。なら問を変えよう。三百年前にアリスが施した封印を解いたのはお前だな?」


「ああ。手駒が欲しかったのでね」


「そうか。気前がよくて助かるよ。恥ずかしがり屋さんのくせに」


 にやにやするノクスが癪に障ったのだろう、男の口元が不快そうに歪んだ。


「問題ない。じきに貴様は死ぬ。貴様の知った真実もろとも、跡形もなく葬ってやる」


「僕を殺すのは、はたして、僕がお前らの存在に気づいたからか? それとも......」


 ノクスはほくそ笑んだ。


「予言に記された力が欲しいからか?」


 この発言は、蛇座の男には全くの予想外だったらしい。初めてたじろいだように見える。


「僕に気があるのは、こちらとしても好都合だったよ。君を一目拝みたかったからね」


「それでみすみす死地に出向いたのか。それも、我々が組織と知りながら一人で来るとは」


「冷静に考えろよ。今お前たちと渡り合えるのは、この世界で僕くらいだろう?」


 ノクスは寂しげにほほ笑んだ。選ばれた者の矜持か、使命を背負う者の責任か、その笑みが意味するところは判然としなかった。


「貴様は何もわかっていないな。いいだろう。この私と渡り合える者など、世界のどこにもいないことを思い知らせてやる」


「わかってないのはお前だよ」


 ノクスの表情が豹変した。その眼差しは底知れぬ軽蔑をはらんでいる。


「力をもって世界を作り替えるだと? 笑わせるな。か弱き者を排斥した果てに、真の栄光などありはしない」


 男の顔面に、あからさまな失望の色が浮かんだ。救いがたい愚者を見るような嫌悪を隠そうともせず、唇の端を歪ませている。


「......残念だ。貴様のように恵まれた者が、そうも腑抜けた思想を掲げるとは。やはり私の読み通りだ。貴様は鷲座の星霊を宿すに値しない。さあ、力を渡してもらおうか。不遜にも(とぐろ)に楯突いた、一人の間抜けを滅ぼしてやる」


「今はまだ、お前らに張り合えるのは僕だけだ。だから僕は一人で来た。だが、いつの日か必ず現れるぞ。お前らに牙をむき、塒を滅ぼさんと団結する者たちが。断言しよう。この世界の行く末は、到底お前の思い通りにはならない」


「なら手始めに証明してやろう。宣言通り、私が貴様を殺してやる。私が第一に掲げる、絶対的な力を以てしてな」


「絶対的なのは力じゃない。それは古くからの願いであり、将来への希望であり、不滅の意志だ。たとえ命が尽きようと、その人が掲げた想いは消えない。人から生まれ、生物としての掟を超越し、後世に連綿と紡がれてゆく。決して目には見えないが、限りなく強固なものだ。そうした繋がりが、そうした結びこそが、不変にして絶対の理なんだよ。


 かつてアリスが世界に抗ったように、僕はお前に立ちはだかる。仮に僕が敗れようが、その意志を継ぐ者が現れる。僕がどうなるかなんて、この際どうでもいいんだ。アリスと僕、そして未来の誰かは、同じ星空の下に結ばれた、悠久の繋がりに生きる同志だから。誰かが必ずお前を討つ。それで十分なんだよ。今日、僕はその架け橋を作りに来た。お前の存在を世間に知らしめ、いつか塒を滅ぼす獅子を呼び起こすためにな」


 白く光る大蛇の瞳孔が鋭く細められた。ノクスの予言めいた宣言が、想像以上に男の神経を逆撫でしたようだ。


「私の存在が周知されることはない。なぜなら、貴様の言う繋がりをここで完全に断つからだ。架け橋だと? この身の程知らずが。既に告げたはずだ。貴様はここで死ぬのだと。何一つ遺さず、跡形もなく消えるのだとな。私と相対した者に、生還という道は断じてありえない」


「それはどうかな?」


 ノクスはしたり顔で、首から下がるネックレスを引っ張り出した。外套の内から現れた天結に留められた宝石は、煌々と星のように発光している。


「天結を持たないお前に、人々の繋がりを軽んじるお前に、この意味がわかるか? 今まさに、僕はお前と出会った記憶を天結に込めている最中だ」


「......それがどうした? くだらん装身具もろとも滅ぼすと言ってるんだ。置き土産などさせはしない」


 男は一瞬、言葉に詰まった。が、たちまち持ち直したようで、皮肉めいた笑みを浮かべた。


「一つ教えてやろう。とっておきというのは土壇場で明かすものだ。焦っているのか? 貴様、種明かしをするには早すぎるぞ」


「やなこと言うなよ。こちとら、人前じゃ格好つけたい質なんだ」


 そう言うと、ノクスはネックレスを引きちぎった。銀のチェーンを握る手がかすかに震えている。


「冥途の土産だ。お礼に僕からも不思議な噂を教えてやる。知ってるか? 落とした物は二度と帰らない。死後の世ならではの、底なし沼なんだぜ?」


「......貴様、よせ!!」


 男の上ずった制止を振り切って、ノクスはぱっと手を開いた。ネックレスが真っ逆さまに落ちていく。


 両者は同時に動いた。男が頭から跳び退くや否や、大蛇は鋭利な牙を剥き出しにする。そのまま長い首を鞭のようにしならせ、ネックレスに食らいつくように飛びついた。


 ノクスも即座に応じた。天結を手放した彼の全身が、黒いもやに包まれ始める。瞬く間にもやに覆われたノクスは、その輪郭を失いながら新たな姿へと変容した。結束式の星霊使いの奥義、霊体化(れいたいか)である。


 次の瞬間、鷲と蛇が激しく絡み合った。鷲そのものに変化(へんげ)したノクスが、蛇の頭部に爪を食い込ませ、その動きを阻んでいる。


 空中で螺旋を描く二体の禍黎霊は、もはや一つの巨大な怪物と化していた。遥か地上からは、この異様な光景を目にした人々の悲鳴が聞こえてくる。


 ほんの数秒の出来事だった。両者がもつれ合う間に、ネックレスはとうとう回収されることなく、一直線に紺碧のエリダヌス川へと沈んでいった。


 揺らぐ水面越しに禍黎霊が交戦する中、アマネールの視界は次第にぼやけてきた。天結に込められた記憶が終わりを迎えようとしている証だ。



 絶叫したい衝動を、アマネールは必死に堪えていた。叫んだところでどうにもならない。それでも、現実が受け止められなかった。父さんと離れてしまう。今ここで離れたら......もう二度と............。


 川の流れに逆らうように、残酷な現実に抗うように、アマネールは懸命にもがいた。もう誰も失わないと、この前誓ったばかりだ。もう二度と、僕の手からこぼしてなるものか。


 紅の鷲は亡くなっている。そんなことはわかっていた。わかっていたのに......。ようやく辿り着いた父の面影を断ち切られ、金輪際会えない事実を悟ったアマネールは、身体の芯まで強く打ちひしがれていた。


 この目で彼を見る今の今まで、どこかで赤の他人のように感じていた。けど、違った。紛れもなく、彼は僕の父親だ。いやだ、父さん......行かないで。もう、誰も失いたくないんだ。僕はもう......やめてくれ......。お願いだ......もう僕から奪わないでくれ。父さん、僕を置いてかないで......!



 アマネールの精神が砕け散る瀬戸際、とても穏やかで、優しさに満ちた声が胸の奥に響いた。


「最後に僕の前世の記憶......いや、思い出話をさせてくれ」


 それはノクス・アズールの、アマネールの父の肉声だった。


「ちなみに、僕はこれから小恥ずかしいことを言うけど、直に伝えるわけじゃないし、死にゆく男の置き土産だと思って許してほしい」


 控えめにはにかんだ笑い声が続く。アマネールの心臓は躍った。


「二人、大切な家族がいたんだ。ソアレとアマネール。僕の妻と息子だ。ソアレは眩しい人だった。いかなる境遇にも左右されず、常に希望の光を見出していた。彼女と過ごした日々のおかげで、僕は何があろうと前を向けるんだ。


 アマネールは、今年で六歳かな、可愛い息子だよ。やんちゃで好奇心旺盛、とにかく小さい頃の僕そっくりだった。ごめんな、傍で成長を見守ってやれなくて。でも頑張れよ。母さんは頼んだからね。僕も負けずに頑張るよ。何十年後、お前も来るだろう世界の未来ために。


 さ、照れくさい話はこれでお終い。この記憶さえあれば、いざというとき星霊を引き継げるはずだ。それじゃあね。ありがとう、ソアレ、アマネール。二人は僕の宝物だ。幸せにな」


 再び霞み始めた視界など、アマネールにはどうでもよかった。


 僕が、壊れる。


 愛しい母を失った記憶と、父が家族に遺した言葉。彼を奪った男への憎悪が綯い交ぜになって、延々とどす黒い渦を巻いている。アマネールにはそのはけ口がわからなかった。


 どうすればいい。僕は一体、どうすればいいんだ。人生と共に母を失い、果てに父を殺され、そうやって何もかもを、僕から奪って......。


 次第に大きくなる渦が、アマネールを深淵へ陥れようとしていた。慈悲も出口もない奈落が、少年の心を呑み込もうとしていた。


 ......僕には............もう何もない。アマネールは抜け殻のようにえずいた。意識が選手寮に戻ったことすら理解できていない。手首から滑り落ちたネックレスが奏でる音は、まるで耳に入らなかった。



 その時、アマネールの背に何かが当たった。


「ねえ、アマネール」


 ある少女の拳が、彼の背中をそっと突いていた。震える拳とは裏腹に、澄んだ声は驚くほどまっすぐだった。


「一人じゃ、ないんだよ」


 アマネールは振り返れなかった。代わりに涙が一つ、ほほを伝って零れ落ちる。二つ、三つ。アマネールが抑えようとしても、溢れる想いに歯止めは効かなかった。


「君と出会い、天煌杯に出て、冥跡を目撃し、禍黎霊と戦った。同じ志を抱く私たちは、ときに誰かを支えて、ときに誰かに支えられてきた。そうして紡がれた繋がりの輪に君がいて、私たちがいる。君の隣にね」


 透き通った声で、されど燃え滾る意志がこもった声でユリは続ける。


「私の誘いで選手寮に来てくれた日、嬉しかったよ。あの日から今日までの道のりを、私たちは一緒に歩んできたでしょ?」


 アマネールは言葉に詰まった。嗚咽で呼吸が乱れているせいか、口がうまく回らなかった。


「この数か月、皆と過ごせて幸せだった。何日後も、何年後も。そうやって私たちは明日を迎えるの。だから、大丈夫だよ」


 ふふっと笑ったユリの拳は、未だアマネールに添えられている。その小さな拳が、少年にはこの上なくありがたかった。アマネール自身を支えてくれる存在が、ここにはいた。



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