第四章⑬ ノクス・アズール(上)
十日後。禍黎霊との死闘を切り抜けたアマネールたちは、選手寮の一室に集まっていた。
部屋の中央にある木製のテーブルには、鎖の切れたネックレスが置かれていた。トップに据えられた宝石が、窓から差す日光を受けて紅に光っている。天結を気にかけるアマネールとミフェルピアの後ろに、ノア、グレイ、リディア、ユリが並んでいた。
「本当にいいの? 先に僕たちで記憶を見ても」
問うたアマネールの脇腹には包帯が巻かれている。ミフェルピアの左腕から胸部にかけても同様で、彼女の傷は特にひどく、ついさっきまで病院に拘束されていた。激闘から今日の集合までに十日を要したのはそのためだ。
「あんたたちが取って来たのよ。いいに決まってるわ」
リディアはあっけらかんとしていた。残りの三人もこくこく頷いている。
「じゃ、いくよ」
ミフェルピアが首飾りを手に取り、自身とアマネールの手首に掛けた。ネックレスに手を通してほどなく、アマネールの視界はぼやけ始めた。
見覚えのある景色だった。現在と多少の違いはあるものの、そこが選手寮のロビーであるのは間違いない。
ロビーの一角に、男はいた。背はアマネールより二回りほど高く、肩幅も広い。
だが、その顔立ちは瓜二つだった。さらりと伸びた癖のない黒髪に、灰色がかった瞳。紛れもなく父さんだ。アマネールに実父の記憶はなかったけれど、直感的に血の繋がりを悟った。ノクス・アズールがそこにいたのだ。
やっと、やっと会えた。アマネールは熱く込み上げるものを感じた。
手を伸ばし、近づこうとした。「父さん」と呼びかけたかった。しかし、思うように体が動かない。声も出なかった。たとえ記憶の追体験ができても、記憶そのものへの干渉はできないのだ。
それでも、幸せだった。父の姿を眺めているだけで、アマネールは救われる思いだった。母を失って空いた心の隙間を、父が埋めてくれるような感覚があった。
少しして、ノクスの元にあどけない少女がやって来た。かなり若い。ウェンディよりも年下だろう。彼女の首元には、アマネールも覚えのあるアクセサリーがついていた。綺麗な灰色に澄んだ宝石をあしらったチョーカーである。
「急に呼び出して悪いね、クレア」
ノクスは穏やかに語りかけた。
「夜遅くに何よ。明日試合でしょ? 早く寝た方がいいよ」
「お気遣いどうも。それより、少し時間をもらえるかな? 頼みがあるんだ」
「頼み......?」
「これを星斗会に届けてくれるかい?」
ノクスが懐から取り出したのは、一つの巻物だった。古い羊皮紙がくるくると巻かれ、封蝋で丁寧に留められている。
「私が? なんで?」
ノクスはゆっくりとしゃがみ込み、訝しがるクレアと視線を合わせて微笑んだ。
「噂によると、気難しい人らしいからさ。ちょっと意地悪したくなったんだ。情に訴えかけようと思ってね」
クレアは呆れたように口を曲げた。
「ノクス、そういうとこあるよね。子供っぽいというか、大人げないというか」
「逆にクレアはませすぎだ。それじゃあ、頼んだよ。それと、今日の話はミフェルには内緒だ。いいね?」
ノクスは念を押すように語気を強めた。その声音に何かを感じ取ったのか、クレアは神妙に首肯している。最後に「おやすみ」と声をかけると、ノクスはロビーから離れようとした。
「あ......あのさ」
立ち去ろうとするノクスを、クレアはぎこちなく呼び止めた。ほんのりと頬に赤みが差している。
「勝ってよ。頑張ってね」
「ああ。必ず倒すよ」
ノクスは断固として言った。微塵の怯みもない、決然とした眼差しだった。
「楽しみにしてる。何しろ、前人未到の三連覇だからね」
クレアはうずうずしている。
「前人未到、か。たしかに今は、僕にしかできないかもしれない。だけど、君もいずれは.......いや」
「私も?」
目を丸くして、クレアは自らを指さした。その仕草を見つめるノクスの瞳に、かすかに憐憫の色が浮かんだ気がした。が、ノクスはすぐに穏やかな表情を取り戻し、クレアの頭をそっと撫でた。
「だって君は、僕の一番弟子なんだろ?」
クレアの照れくさそうな笑みを最後に、アマネールの視界はぼやけ始めた。闇に呑み込まれるように、下へ下へと落ちていくような感覚に襲われた。
記憶の断片が途切れようと、アマネールの意識が現実に戻ることはなかった。
いつの間にか、少年は狭い裏路地に立ち尽くしていた。この道にも見覚えがある。本土にある裏道の一つで、選手寮と天煌杯の競技場を結んでいるものだ。
道の中央に、ノクスが泰然と佇んでいた。胸元から覗く天結に輝くルビーのように、鮮烈な深紅のもやが全身を包んでいる。クレアと話していた時の柔和な面差しは消え、正面を鋭く睨みつけていた。
ノクスと相対するのは黒装束の男だった。禍々しい漆黒のもやを纏う犬を両脇に従えている。ノアが語っていた猟犬座の禍黎霊使い、ヴィーネルザだろう。ヴィーネルザは歯を食いしばり、肩で息を切らしていた。
「何度やっても同じだよ。君と僕では格が違う。わかったら話を聞いてくれないか? 僕としても、あまり乱暴はしたくないんだ」
「おのれ......よくも。言わせておけば」
ヴィーネルザの顎から大粒の汗が滴ったのを皮切りに、彼は二匹の猟犬を猛進させた。
「馬鹿が。学習しろよ」
詰め寄る猟犬を一瞥し、ノクスは乱暴に吐き捨てる。
次の刹那、ノクスの背中から二枚の翼が生えた。雄々しさと気品を兼ね備えた、燃え上がるような紅蓮の翼である。メイエールの最高傑作と謳われた星霊使い、紅の鷲が見せる真の姿だった。
ノクスはひらりと宙に舞い、猟犬座の突撃を軽やかに回避した。そのまま反撃に転じ、一匹ずつ喉元を正確に打ち抜く。二匹の猟犬はその場にうずくまり、砂のように崩れ始めた。
息つく間もなく翼をはためかせ、ノクスはひとっ飛びに襲い掛かった。ヴィーネルザの首根っこを掴み、その体ごと道に強く叩きつける。数秒で敵を制圧したのだ。
......強い。アマネールは素直に感心していた。ノアによれば、ヴィーネルザには四人がかりでも苦戦したという。父さんはそれをほんの一瞬で......。
しかも、まだ手の内は明かしていないように思われた。猛獣が獲物を弄ぶような余裕をもって、父さんはヴィーネルザを痛めつけている。
「生憎、雑魚に興味はなくてね。君の上司に会わせてくれるかな?」
首を締め付けられ、泡を吹き始めたヴィーネルザに、ノクスは淡々と告げた。
「何を......言ってるんだ。私に仲間など......」
「塒。それが君たち組織の名だろ?」
冷徹な口調のまま、ノクスはきっぱり述べた。
「な......なぜそれを?」
「説明している暇はない。いいから僕を蛇座の男に会わせろと言ってるんだ。この首をかっ切られたくなかったらな」
......な、に? 全身から力が抜け落ち、世界がぐらついたような錯覚に見舞われた。
塒だと? 蛇座の男だと? 父さんの言葉から察するに、エステヒアで僕を襲った禍黎霊が......真の黒幕ということか? インフェリオールじゃなかった......僕は、大きな見当違いをしていたんだ。
動揺が極限に達するのと同時に、アマネールの視界が霞み始めた。今ほどの戦闘で刻まれた禍黎霊の足跡、くっきりと残る猟犬座の冥跡を最後に、少年の意識は闇に沈んでいった。




