第四章⑫ VS禍黎霊(その五)
どうにかして宮殿から抜け出さないと。早いとこミフェルを手当てしてもらわなくちゃ。それに、僕も。
アマネールは疼く脇腹に視線を落とした。槍に裂かれた傷口から、とめどなく血が流れている。止血の兆しは見えない。
しかし、アマネールの望みに反して、一見したところ出口はなさそうだった。やはり盾座の結界が作動したら最後、正規の脱出手段を断たれてしまうらしい。
あまつさえ、アマネールの背後で轟音がした。あろうことか、ケンタウルスが茶色の壁を砕いて立ち現れている。首筋に深い傷はあるものの、その巨体は堂々と立ち、人魂のように揺らぐ白い眼には闘志が宿っていた。
......なに? アマネールは息を呑んだ。声にならない驚愕が喉の奥で震えている。
ーー「仮に蛇が頭を切断され、絶命したとするわ。この場合も星霊は消え失せるのだけど、それはあくまで一時的なの。召喚式の星霊使いは、一定の時間が経てば再び星霊を呼び出せるのよ」
以前、ウテナから聞いた話が脳裏をかすめた。なにが一定の時間だよ。いくらなんでも早すぎるだろ。
例に漏れず、ケンタウルスは考える余裕をくれなかった。躊躇なく弓を構え、アマネールたちを狙ってきたのだ。
「ごめんミフェル。ちょっと揺れるかも」
十角形の広間の外周で追走劇が始まった。出口を探して逃げるアマネールを、ケンタウルスが執拗に追いかけてくる。一体どこに体力を温存していたのか、ケンタウルスの猛攻は一向に衰える気配がない。
どうしても渡したくないらしいな。アマネールは、ポケットにあるネックレスを服の上から握りしめた。
ふと、嫌な予感がした。アマネールが振り返ると、半獣が三本の矢を弓につがえている。
「くそったれ。やれるものならやってみろ」
アマネールはひらりと横へ飛び、近くの柱を足場にして天井へ移った。空中で巧みに体を翻し、天井を蹴って床に戻る。ケンタウルスが放ったそれぞれの矢は、床、柱、天井に深々と突き刺さった。だが、いずれもアマネールの残像を貫いただけだった。
「へ? どうなってんの?」
これだけ無茶に動いたからだろう。気を失っていたミフェルピアが目を覚ました。
「どうもこうも、見ての通りだよ」
ミフェルピアは数秒かけて周囲を見回し、大まかな状況を理解したらしい。
「多分、首を断ち切る寸前に私が力尽きたんだ。だから殺し損ねた」
ミフェルピアは俯いた。アマネールは、やけにケンタウルスの復活が速いことに合点がいった。そもそも止めを刺せていなかったのだ。
「気にしないで。元はと言えば、僕の力不足が原因だから」
「とにかく外に出よう。禍黎霊は人目についたらヤバいから、そしたら振り切れる」
そうできたら困ってないっつの。いやに自信げなミフェルピアの様子に、アマネールは内心突っ込まずにはいられなかった。
その時、何の前触れもなく、前方からおびただしい光の粒が差し込んできた。十中八九、外界に広がる星空であろう。突如として、外への出口が現れたのだ。まさに天の恵みである。アマネールは迷わず足を速めた。
「ちょっと待って。何考えてんの? 探すのは下へ向かう階段よ。とにかく、下を目指すの」
ミフェルピアが焦ったように声を上げた。アマネールは無視した。既に彼の心は決まっていた。
「こんなところから出たら......どこに通じてるかもわからないし」
今やミフェルピアは金切り声で訴えている。
「ここ、宮殿の最上階よ」
「どこに通じてるかだって? 簡単だよ。行ってみればわかる」
アマネールはからかうように微笑んだ。
「しっかり掴まってなよ」
「バカ! やめて! 飛び降りるくらいなら、むさい馬に踏み潰される方がましよ。私、高いところは苦手で......きゃああああああ」
アマネールの期待通り、ミフェルピアの憂慮通り、彼らは夜空へと躍り出た。バジュノン宮殿の最上階から離脱したのだ。飛び出した先は相当な高さである。当たり前だが、足場という足場はない。
しかし、二人が墜落することはなかった。アマネールは翼を広げて風を捉え、ゆっくりと滑空しながら下降していく。
「気分はどう?」
眼下のきれいな夜景を眺めながら、アマネールは喋りかけた。ミフェルピアは目をぎゅっと閉じている。
「もう。飛べるならそう言ってよ。死んだかと思った」
薄目を開けたミフェルピアは、ようやく落下していないことに気づいたらしい。そして、アマネールから生えた星空さながらに美しい紺青の翼を認めた。数多の煌めきに満ちた一枚一枚の羽根が、神々しい気品を湛えながら揺らめいている。
「......この翼。君、鳳凰座を宿す星霊使いなのね。ぴったりじゃない」
鳳凰とは、不死と再生を司り、燃えるように麗しい羽を持つ伝説の霊鳥である。かの聖鳥を象った星座こそ、アマネール・アズールに宿る星霊であった。
「早く降りよ。私、高いとこ無理。ったく、誰なの。あんな性格の悪い出口を設計した奴は。最悪よ」
ミフェルピアの指摘を受けて、アマネールに疑問が芽生えた。
そういやあの出口、まるで僕らを逃がそうとしたみたいだった。一体、誰が......?
妙に思って振り返ると、例の出口の奥に、青と白が一緒くたになった幽玄な光がちらついていた。半透明に煌くその光は、星霊特有の燦然とした輝きを放っている。あれは、たしか......。
「おーい! アマネール!」
聞き慣れた声がした。経緯は不明だが、ノアがクレアの腕から身を乗り出している。クレアは烏めいた灰色の翼をはためかせ、アマネールと同じように空を飛んでいた。
両者はすぐに合流し、互いの顛末を語り合った。猟犬座使いヴィーネルザを退けた話になると、心なしか、やたらノアの活躍が強調されている気がした。
「そういえば、あの犬......」
ふと、ノアが訝しげに呟いた。
アマネールは首をかしげる。聞けば、ヴィーネルザ以外にも犬型の禍黎霊が襲ってきたというのだ。考え込むノアの傍らで、クレアがさらりと口を開いた。
「きっと大犬座か小犬座か、奴らのもう一人の仲間でしょうね。どうやら三人組っぽいし」
瞬間、出し抜けに地上から歓声が沸き起こった。天煌杯の競技場がある方角からだ。何事かと目を向けると、会場の観客が皆立ち上がっていた。何本もの紫の旗が打ち上げられ、風になびいて宙を彩っている。
「あちゃ、負けちゃったか。残念」
そうぼやいたクレアは、ちらりとミフェルピアの表情を盗み見た。
「試合に負けて勝負に勝ったとはこのことよ」
ミフェルピアに悔しがるそぶりは全くない。
「無事奪えたんでしょ? ノクスの天結」
アマネールはポケットから現物を取り出した。ネックレスのトップには、煌々と輝くルビーが嵌め込まれている。
改めて父の形見に触れると、前世の記憶が鮮明に蘇った。戦闘中は押し殺していた母への想いが、母を失った深い悲しみが、堰を切ったように込み上げてくる。アマネールの心は鋭く抉られた。
「にしても、本当にあのインフェリオールを下すなんて。末恐ろしいわ」
クレアは他人事のような、それでいて感心したような溜息をついた。
「只者じゃないとは思ってたけど、この世界でまだ半年よね? まさかここまでとは」
間もなく一行は大地に帰還し、少年たちのかつてない大冒険は幕切れとなった。




