第四章⑪ VS禍黎霊(その四)
光溢れる剣を振りかぶり、ミフェルピアが水平に跳躍した瞬間、ケンタウルスは不気味に口元を歪めた。刹那に長槍を弓に持ち替え、弦を引き絞る。ケンタウルスの武器は、槍だけではなかったのだ。
結果的に、ミフェルピアの稼いだ距離が仇となった。一拍の間もなく放たれた矢は、眩い剣尖が怪物を捉える前に、宙を舞うミフェルピアを貫いた。
跳びかかる勢いが矢の衝撃を和らげたのだろう。ミフェルピアはよろめきながらも体勢を保っていた。しかし、左肩には確実に矢が食い込んでいる。ペルセウス座の星霊が施した金色の鎧を貫通したようだ。ミフェルピアは苦痛に眉をひそめている。
......ミフェルの利き腕が潰された。あれでは満足に剣が振るえない。ぐったりと下がった左腕を見て、アマネールは血の気が引いた。
ケンタウルスは猶予をくれなかった。再び弓を構え、矢をつがえる。それも、今度は二本だ。白く冷酷な目を光らせ、半獣はそれらを一斉に放った。
アマネールを庇護するように、彼の正面に黄金の盾が現れた。黒い帯を引いた矢が盾に突き立つ。同時に、ミフェルピアが後方に吹っ飛んだ。今度は推進力がなかったため、矢の凄まじい威力をそのまま食らったのだ。
勢いよく褐色の壁に打ち付けられた少女は、そのまま力なく座り込む。ミフェルピアの右胸には、深々と矢が刺さっていた。矢尻の周りから血が噴き出している。
「......ごめん......しくじった」
ミフェルピアは蚊の鳴くような声を漏らした。
「面白い。まだ言を述べるか」
ケンタウルスは愉悦に浸っているようだ。嘲るような笑みを浮かべ、瀕死の少女を見下ろしている。
「どうして、僕を庇ってまで......」
ケンタウルスが射った矢は二本。盾で自分を守りさえすれば、ミフェルピアは無事で済んだのに。
「左手が潰された時点で、私はもう足手まといだから」
......だからって、君は......。アマネールは声が出なかった。体がわなわなと震えている。
アマネールの反応を待たずに、ミフェルピアは懸命に口を開いた。途切れ途切れの呼吸が、アマネールの胸を余計に締め付けた。
「大丈夫、君ならできるよ。天煌杯で戦った時、君は私より速かった。君のお父さんだって......そうだったの。大丈夫だよ。君なら、きっと............」
その囁きを最後に、ミフェルピアの首はうなだれ、身を包んでいた鎧が霧散した。顔を上げる気配はない。気を失ったのだろうか、それともーー。
「ふん、哀れな子娘め。楽にしてやろう。この蹄で心臓を踏み砕いてやる」
ケンタウルスの一言は、アマネールには届かなかった。半獣が四肢に力を込め、まもなく駆け出そうとする気配すらも、アマネールは感じ取れずにいた。
アマネールの瞳には、炎々と燃え盛る業火だけが映っていた。眼前で身を低くする半獣が纏う、炎の如く揺らぐ漆黒のもやが、少年に眠る緋色の世界を呼び覚ましたのだ。
死後の世に来て、幾度となく見た景色だった。不定期に想起され、何度も夢に見たその光景は、アマネールの魂の欠片に刻まれた前世の記憶に他ならない。
回を重ねるごとに、緋色に染まった記憶の輪郭は明瞭になっていた。陽炎のように揺らめく空気、一帯に立ち込める黒煙、焼け焦げて炭と化した梁。目に映るすべてが、今では生々しいほどに鮮やかだ。
猛り狂う炎の隙間に、アマネールはとうとう見出した。燃え尽きた間仕切り壁の奥で、横たわる人の姿を。
その時だった。ふと、かすかな声が、アマネールの耳に届いた。
「......生きて」
......母さん! 瞬間、アマネールは身が張り裂けるような感覚に襲われた。思い出した。何もかも。
母との決別にまつわる記憶。己の無力さ故に、最愛の人を失った記憶。それが戻ったアマネールに、前世に悔いのある少年に、しかし今、後悔はなかった。
生きて。これこそが、僕に眠る言葉だった。母さんからの、最後の贈り物だった。
ありがとう、母さん。あなたのおかげで、僕はここにいる。
アマネールは静かに瞼を閉じ、脚に力を入れた。途端に、星屑のような光を湛えた紺青のもやが噴き出す。
目を開けると、あたりを支配していた炎が晴れた。母の幻に代わって浮かび上がったのは、ケンタウルスに踏み潰される間際のミフェルピアだった。
誰かを失うのは、もうたくさんだ。アマネールは全身全霊を込めて床を蹴った。紺青のもやに包まれた体躯が、風を切り裂いて宙を滑る。ケンタウルスの蹄が振り下ろされる寸前、アマネールはミフェルピアを抱えるように掬い上げた。
勢い余ったケンタウルスは壁を打ち、盾座の星霊が形作る結界を穿った。できた穴の周囲には大きな亀裂が走り、細かな破片が散らばっている。
ケンタウルスは状況を把握できていないようだ。肉体を踏んだ感触がないのに困惑し、不審そうに足元を見つめている。
「おい、うすのろ」
アマネールが煽った。
「こっちだよ」
後から動いたアマネールに先を越されたことは、相当な屈辱だったのだろう。振り返った半獣の顔は憤怒に染まり、激情で醜く歪んでいた。
「お前の相手は僕がする。その首飾りを渡してもらうよ」
アマネールは、抱えていたミフェルピアを壁際に横たわらせた。幸い、心臓はまだ動いているようだ。僅かではあるが、胸が上下するのが見て取れる。
「渡すわけないだろう。貴様はこれを持つに値しない」
「なら奪うまでだ」
ケンタウルスが怒り狂っていたのは、アマネールにとって好都合だった。半獣はミフェルピアを気にも留めず、憎悪の矛先をアマネールのみに向けたのだ。
暗黒の弓に矢をつがえ、ケンタウルスは絶え間なく弦を引いた。連射された矢は禍々しい軌跡を描き、雨あられとアマネールに降り注ぐ。しかし、アマネールは蝶のように広間を飛び交い、そのことごとくを躱してみせた。
いつしか、少年の背中からは透き通る翼が生えていた。右耳の天結にあしらわれたオパールのように、数多の煌めきに満ちた紺青の翼である。波打つ一枚一枚の羽根は、泡沫のような繊細さと、神々しいまでの気高さを湛えていた。
「とろいよ、お前」
埒が明かないと悟ったのか、弦から手を離した半獣に、アマネールは野次を飛ばした。今や彼の全身は、星空さながらに美しい光を纏っている。
「貴様こそ、随分と臆病だな。逃げてばかりでは奪えるものも奪えんぞ」
ケンタウルスはこれ見よがしにネックレスの鎖を掴んだ。
「今に見てな」
電光石火の如く、アマネールは敵の間合いに飛び込んだ。あまりの速度に、ケンタウルスは反応できていない。
ちょろいっての。アマネールは半獣の首に掛かるネックレスに手を伸ばした。
だが、ネックレスを千切ろうとした少年に、一本の槍が牙をむいた。そうだ。ケンタウルスの武器は弓だけではなかったのだ。
......しまった! 接近の機を窺っていたケンタウルスは、ここぞとばかりに長槍を突き出した。
アマネールは咄嗟に飛び退いたが、完全に避けることは叶わなかった。衣服が切り裂かれ、脇腹にずきずきと痛みが走る。思わず手を添えると、温かい血が指先にべったり付いた。
「ふっふっふ。愚かだな、貴様も」
油断した。これだと、簡単には奴の懐に入れない......。まずいな、僕には武器ないんだ。ミフェルが閃かす剣のような、ケンタウルスが薙ぎ払う槍のような、戦況を一変させる決定打がない。
......どうする? 撤退はあり得ない。ネックレスを奪えなければ、宮殿に忍び込んだ意味がない。
けれど、ミフェルの様態も心配だ。今は息があってもいつまで持つかわからない。一刻も早く脱出して手当てしないと。たらたらしている暇はない。だが、そのためには何か、奴を制する武器が必要だ......。
「ああ、そうか」
十角形に設えられた広間を一瞥し、アマネールは心地よげに呟いた。
「その手があった」
アマネールに絶対の確信はなかった。賭けだ。それでも彼はミフェルピアを、仲間を信じる選択をした。
「これしきでくたばる玉じゃないだろ」
にやりと笑い、アマネールは走り出した。
気づけば、ケンタウルスの射った矢が壁のいたるところに刺さっている。アマネールは素早く壁際へ寄ると、階段状に連なる三本の矢に狙いを定めた。
それらを踏み台に軽々と舞い上がり、弧を描くように広間の中心に立つ半獣へ迫る。ケンタウルスは咆哮と共に槍を振りかざし、致命的な一撃を見舞おうとした。
「さっきも言ったろ」
あらかじめ読めていればどうとでもなる。アマネールは空中で体を捻り、鋭い長槍を難なくいなした。
「とろいんだよ、お前は」
しかし、槍を警戒して跳躍したアマネールと半獣の間には、まだ一定の距離があった。このまま手を伸ばしたところで、首飾りには届かないだろう。かかる窮地を覆す逆転の一手を、アマネールはミフェルピアに託した。
「今だ! ミフェル!」
ケンタウルスの頭上に達した少年の掌に、それは音もなく舞い降りた。白金剣。メイエール最強と謳われたミフェルピアの星霊、ペルセウス座の象徴である黄金の刃が、アマネールの手に宿ったのだ。
「僕の勝ちだ。インフェリオール」
アマネールは身を一回転させ、ネックレスもろとも半獣の首を断ち切った。
屈強なケンタウルスの巨躯が傾き、ばったりと崩れ落ちた。ルビーを携えたネックレスは首から外れ、紅玉の光るトップが空中に踊っている。
アマネールは颯爽と首飾りを掴み取り、内ポケットに押し込んだ。続いてミフェルピアを抱き上げると、ケンタウルスが空けた穴から十角形の広間を脱出した。




