第四章⑩ VS禍黎霊(その三)
「案外大した事ないな」
涼しい顔でノアは言う。
「そうね。早いとこ潜んでるもう一匹を倒して、アマネールの加勢に行くべきだわ」
リディアが平然と相槌を打った。
グレイもほっと息をついていた。よかった。僕らでうまく連携を取れれば、禍黎霊にも十分通用する。あとはユリが隠れている一匹を見つけ出し、油断せずに対処すれば大丈夫......だ............え?
あたりを見回していたグレイが、今ほどの犬の冥跡を目にした時、全身に粟立つような違和感を覚えた。たちまち冷気が体を包み、足が小刻みにわななく。強張った口元から、グレイは何とか声を絞り出した。
「違う......こいつは猟犬座じゃない。結星祭で見たヴィーネルザの冥跡は、これより一回りは大きかった」
......一体どういうことだ? 別の敵がいたのか? いや、この際それはどうでもいい。とにかく、この犬はヴィーネルザの星霊じゃないんだ。ってことは......。
「さらにデカいのがいるのか?」
さしものノアですら、予想外の事態に動揺したようだ。
「それも、二匹だ」
グレイのか細い声を、ユリの絶叫が打ち消した。
「リディア! 後ろ! 逃げて!!」
リディアの後方でうごめくのは、小さな黒い渦であった。それは見る間に三メートルはあろう大型の猟犬に変化し、彼女に襲い掛かった。
次の瞬間、血しぶきが上がり、苦しげな呻き声が響いた。
「......女の子は夜道じゃ背後に注意って、習わなかったかい?」
ノアが押さえている右ひじからは、激しく血が流れている。身を挺してリディアを守ったのだ。軽口を叩いてはいるものの、ノアには苦悶の表情が刻まれていた。
「......あんた、ガキのくせに生意気なんじゃない?」
大量に出血するノアを見れば、負傷の深刻さは明らかである。幸いなのは、ひとまず命に別状がなさそうなことくらいだった。
急襲を見舞った猟犬は、一度距離を取り、四人の出方を窺っている。グレイが咄嗟にユリへ目を移すと、彼女は首を横に振った。
......どこだ? あと一匹いる。敵の奇襲は始まったばかりだ。それに今、猟犬はリディアの首筋を狙いやがった。彼女を殺すつもりだった。早く見つけないと、何もかも手遅れになる。
グレイの懸念は杞憂に終わった。もう一匹の猟犬は、ほどなくして現れたのだ。その背中には、漆黒のローブに身を包んだ人間を乗せている。
「攻撃の起点になる小娘を始末するつもりだったが、まあよい。小僧の右手が潰れれば、てめえらの決定打はないに等しいからな」
年を経た男を思わせる、渋い声には聞き覚えがあった。かつて謀議を企てていた連中の一人だ。猟犬座の禍黎霊使い、ヴィーネルザに違いない。
「どうやって計画を嗅ぎつけたのか知らんが、よくもコケにしてくれたな。てめえら、ただでは帰さんぞ。何があっても皆殺しだ」
ヴィーネルザは唸った。蒼白な顔面に気味の悪い笑みを浮かべている。
「やだな、おじさん。粘着質な男は嫌われるぜ?」
おちょくるように、ノアは左手でブロンドの髪をかき上げた。流血した右腕はだらりと垂れ下がっている。
「いつまで減らず口を叩いてられるか見ものだな。弓が引けないお前に何ができると言うのだ?」
グレイの背中に一筋の冷たい汗が流れた。たしかに右手があの有様では、ノアは得意の弓を使えないだろう。まずいな......敵を即死させられるノアの弓こそが、対召喚式の戦闘における僕らの切り札だというのに。
そんなグレイの危惧を察したのか、ノアはぶっきらぼうに言った。
「おい、グレイ。俺を使え。死んでも射抜いてやる」
「くだらん戯言はそこまでだ」
ヴィーネルザの言葉を合図に、猟犬座の一匹が突っ込んできた。もう一匹はヴィーネルザを乗せたまま佇んでいる。
考えている暇はなかった。猟犬を退けるべく、グレイは慌てて羊を走らせた。しかし、先の犬のようにはいかなかった。猟犬はいとも簡単に羊をかわすと、ノアに的を絞り、一直線に向かってきたのだ。
迫る敵に顔を歪めながらも、ノアはしっかりと弓を構える。だが、黄色い帯を引いて放たれた矢は、猟犬の頭部をわずかに逸れた。狙いが甘く、捉えそこなったのだ。
ヴィーネルザが嘲笑った。しかし、猟犬の牙がノアを噛み砕かんとした時、犬の巨躯は動きを止めた。リディアがその尻尾をがっしりと掴み、地に足を踏ん張っている。
「このあたしに一瞥もくれないなんて、見る目のないケダモノね。失礼しちゃうわ」
リディアが猟犬を捕らえている間に、ノアは脚部に星霊を宿し、渾身の蹴りを入れた。猟犬は空中に舞い上がり、ヴィーネルザの傍まで吹き飛んだ。
だが、蹴りで致命傷は与えられなかったようだ。猟犬はすぐに体勢を立て直し、低い唸り声を上げている。
「次も同じように行くといいなぁ?」
そう言って、ヴィーネルザはついに猟犬から降りた。とうとう二匹の猟犬が、グレイたちの前に立ちはだかる。ヴィーネルザは心底愉快そうにせせら笑った。
「悪いが、延々とお遊びに付き合っている暇はない。後がつかえてるんだ。それに、言っただろう? てめえらは皆殺しだと」
今や、グレイの焦りは頂点に達していた。利き手が潰されたのだから無理もない。弓を引くだけでも相当な無理をしてるだろうに、矢を正確に命中させるなんて、やっぱり無理だ。ノアの弓はもう......。
なら、どうする? 考えろ、考えろ。今度は二匹同時に攻めてくる。それを食い止めるには......どうすれば?
悪魔に心臓を鷲掴みにされた気分だった。足の震えが止まらない。死が、近づいているのだ。このままでは殺される。何か手立てはないか? ......何か?
「グレイ、二度は言わせるなよ」
ノアはぽつりと、されど力強く言った。
驚きなのはその眼差しだった。穏やかな水色をした瞳が、内側から爛々と燃え盛っている。猟犬を見定めたノアは、敗北など微塵も考えていない。むしろ狩人のような、獲物を前にうずうずしているような目だ。
決して軽い傷じゃないのに、なんて目つきをしてるんだ。グレイは内心舌を巻いた。ノアの奴、本当に射抜くつもりだ。ったく、僕がびびってる場合じゃないな。
「ノア、あたしたちで一人一匹よ。それ以外に抑える方法がない」
「ああ。そのつもりだぜ」
腰を落として構えた二人に、グレイは告げた。
「いや、今まで通り、君たちで連携して片方を討て。盾役はユリに任せるよ。それが何より確実だ」
「おかしくなったのは目か? 頭か? 猟犬は二匹いるんだぜ」
ノアは実に失礼なことを口にした。
「もう一匹は僕が止める。絶対にだ」
にこりと笑って、グレイは敢然と言い放った。もう足は震えていなかった。驚いたのか、リディアは目をまん丸に開いている。
「......いいじゃない。男は度胸だ。頑張んなよ、グレイ。ユリに傷の一つでも付けたら、あとで殺すからね」
励ましよりも脅しに近いセリフを境に、盤面は一斉に動き出した。
地を蹴る音を響かせて、猟犬座の禍黎霊が二方向から突っ込んでくる。それらを迎撃する形で、ノアとリディアも飛び出した。
ユリは左の猟犬に狙いを定め、上空から白鳥を滑空させる。猟犬は先ほどグレイの羊を躱したように、白鳥の突撃をひらりといなした。だが、その際わずかにぶれた軸をリディアは逃さなかった。
「さっきはよくも......あんたは絶対に許さない」
猟犬に噛みつかれる瀬戸際で、リディアはその体の下へ滑り込み、全身のバネを使って高く蹴り上げた。十分に間合いを詰めたノアが、猟犬が宙で静止する一瞬を見計らって弓を構えている。
「くたばれ」
にやりと笑ったノアは、そのまま口で弓を引いた。まっすぐに放たれた矢は、寸分の狂いなく猟犬の喉元を射抜いた。犬の体が砂のように崩れ始めている。
時を同じくして、右から迫る猟犬は、着実にグレイとユリに近づいていた。グレイは猟犬を正面から見据え、牡羊座の星霊を突進させた。
少しの時間さえ稼げればいい。さっきみたく躱されたら、ユリとまとめて殺される。僕の使命は、猟犬の軌道を完璧に読み切ることだ。羊をぶつけて止めてやる。二度も抜かせてたまるかよ。
猟犬と羊が激突する寸前、グレイは禍々しい怪物から片時も目をそらさなかった。
......ここだ! 羊が左に舵を切る。見事グレイの読み通り、猟犬が羊を避けようと身をよじった先に、牡羊座の星霊は躍り出た。しかしーー。
羊よりも巨大な猟犬は、その顎を縦に開き、羊の頭部を容赦なく噛み砕いた。羊は粉々になって消滅した。ルグラであるグレイの星霊と、繋がりし者であるヴィーネルザの禍黎霊とでは、力量に差がありすぎたのだ。
それがどうした。グレイは猟犬の白く光る眼球を睨みつけた。とうに覚悟はできてる。何が何でも止めてやる。
「ばかっ!」
リディアの悲鳴は、グレイの耳には入らなかった。
今や目と鼻の先にいる猟犬の進路に、今度はグレイ本人が身を投げた。ぐわりと広がった犬の咥内には、無数のどす黒い牙が並んでいる。グレイは思わず目をつむった。
周囲に鈍い音が響く。けれど、グレイは何の衝撃も受けなかった。びくびくしながら目を開くと、一人の女が猟犬を蹴り飛ばしている。どこから現れたのだろう。彼女の足元には澄んだ灰色のもやが漂い、背中からは優雅な翼が生えていた。
烏のようだ、とグレイは思った。女には見覚えがあった。結星祭の会場にいた気がする。
蹴られた猟犬は消滅こそしていないが、かなりの痛手を負ったようだ。地にうずくまり、起き上がれないでいる。苦虫を噛み潰したような面のヴィーネルザに、女は淡々と言い放った。
「まだ続ける? やる気があるなら相手するわよ」
ヴィーネルザは憎々しげに四方を見渡した。数の上では五対一である。多勢に無勢を悟ったか、ヴィーネルザは舌打ちをして身を翻し、その場から引き上げようとした。そうは問屋が卸さないとばかりに、リディアが後を追おうとした矢先、女は彼女の肩に手を置いた。
「大丈夫。あの先には星斗会が張ってるから」
そして、女はくるりとこちらに向き直った。灰色の宝石をあしらったチョーカーが首元で光っている。
「遅ればせながら、私はクレアよ。君たち、正義の味方に救われた気分はどう?」
数分前までの緊迫した雰囲気をかき消すような、弾んだ声でクレアは言った。
「にしては、来るのが遅くない?」
グレイが真っ先に愚痴を漏らした。
「知らないの? ヒーローは遅れて来るのがお約束なのよ?」
「勘弁してくれ。今思えば、僕死にかけたんだぞ。ああ怖かった」
溢れ出したグレイの不平に、リディアは「それ言わなきゃ、ちょっとは格好よかったのに」と茶化した。
「あら、もう死んでるじゃない?」
クレアは屈託ない。
「おいおい、それがヒーローのセリフかよ」
ノアは呆れたように言った。
「仕方ないじゃない。そう命令されたんだから。さ、帰るわよ。君はすぐに手当てした方がよさそうだしね」
クレアはノアの垂れた右腕を見て取った。そして、有無を言わせずノアを抱え込んだのち、華麗な翼をはばたかせて空へ舞い上がった。




