第四章⑨ VS禍黎霊(その二)
五日後、夕暮れ時。
来たるべき天煌杯の決勝戦まで、半時を残すのみである。観客の盛り上がりを考慮して、準決勝以降は夕方の六時から行われるのが慣例だった。
一月の夕刻となれば空気は冷え込むものだが、会場は観客の熱気で満たされていた。皆が皆、前人未到の三連覇を心待ちにしているのだ。試合の開始まで猶予があるにもかかわらず、客席に空きは見当たらなかった。
そんな活気盛んな競技場に、一台の牛車が向かっていた。透き通った牡牛座の星霊が牽く四輪のキャビンが、目抜き通りを外れた路地をゆっくり進んでいる。
やがて、牛車が垂直に開けた空間の脇道に差し掛かった時、物陰から何かが飛び出した。
揺らめく暗黒の毛皮を纏い、勾玉のような白い眼を光らせた犬が、牛車の御者台めがけて跳びかかったのだ。
あっという間に御者を引きずり出し、牛と車体を繋ぐ紐を噛みちぎると、犬は勢いよくキャビンを突き落とした。そのまま空間の下方へと、十メートル以上墜落していく。やがてキャビンは底部に激突し、その衝撃で半壊した。車体の骨組みがへし折れ、車輪は外れている。
「痛っいわね。もう」
見るも無惨になったキャビンから、燃えるような赤毛の頭がひょっこり現れた。続いて、滑らかなブロンドの少年が顔を出す。
「本当に移動中を狙ってくるとはな。にしても手荒いぜ。クッションがなきゃお陀仏だ」
「結星祭の夜、ヴィーネルザの冥跡はこのルートに集中していたからね。選手寮から競技場への道中で仕掛けてくるのは容易に想像ついたよ」
グレイは澄まして言った。
最後にユリが出てきたところで、彼女らの前に一匹の犬が躍り出た。
引き締まった胴体からしなやかな四肢が生えている。ぐるると唸るその禍黎霊は、猟犬座の星霊の一体だろう。インフェリオールの右腕として仕える、ヴィーネルザの星霊だ。
「さっさと片付けよう。二匹目が現れる前に」
震える足を叩き、グレイは気炎を上げた。立て続けに細かな指示をする。
「ユリは一帯の索敵に集中して。いつ二匹目が来るかわからないからね。ノア、リディア。僕らで犬をしとめるよ。基本は天煌杯の要領でいこう。僕が盾役として敵を引きつける。すかさずリディアが先制攻撃、ノアの弓でとどめだ」
「「了解」」
異口同音の了承を合図に、水色に澄んだ羊が黒々とした犬に向けて猛進した。
羊を左右から追いかけるように、リディアとノアも走り出す。一度に三方向から突撃された犬は、戸惑ったように動きを止めたが、すぐにこちらに疾駆してきた。
まんまとグレイの策に嵌った犬は、愚直にも先頭の羊に食いついた。そうなればリディアの餌食だ。彼女が繰り出した飛び蹴りは、犬の脇腹をもろにとらえた。犬は地面に叩きつけられ、その場にうずくまっている。
ノアは黄色に透き通った弓を構え、間髪入れずに矢を放った。動かない的を射抜くのは朝飯前である。喉元を矢で貫かれた犬は、やがて砂の如く崩れ去った。
◇◇◇◇◇◇
「ごめん、試合を投げさせちゃって」
「いいのいいの。三連覇なんて興味ないし。どうしてもって頼めば、みんな納得してくれたしね。それに、あの子たちなら私抜きでも戦えるよ」
バジュノン宮殿の三階。ガラス張りのフロア越しに満席の天煌杯会場を眺めながら、アマネールとミフェルピアは言葉を交わす。
「じゃ、行こうか」
アマネールは呟いた。宮殿に秘められた最上階への入り口は、すでに彼らの前に現れていた。どういう理屈か、茶色に澄んだ円形の台座が、重力を無視して足元に浮かんでいる。見上げると、台座に対応する穴が天井にぽっかり開いていた。
二人が足を乗せると、台座はゆっくりと上昇を始めた。台座は天井の穴を通り抜け、じきに最上階の床として収まった。アマネールたちは隠された空間へと運ばれたのだ。
バジュノン宮殿に隠されていた真の最上階は、異空間のようだった。宮殿を象徴する華麗な装飾の面影はなく、粗削りの石壁に囲まれ、窓すらも存在しない。外界から完全に遮断された密室のようだ。
きれいな円形を描く広間には、一定の間隔で柱が並び、それぞれに松明が据えられている。ほの暗い灯りではあるものの、広間全体を視認するには十分だった。
規則的に配置された柱は、広間の三分の二ほどを占める正十角形を形作っている。その図形が放つ幾何学的な美しさは、来訪者を深淵へ誘う餌のようだ。アマネールたちを乗せた台座は、そんな広間の中央にすっぽりと収まっていた。
アマネールとミフェルピアが中央の台座から踏み出した時、事は起こった。地響きのような轟音が鳴り渡り、柱の隙間を埋めるように、床から壁がせり上がったのだ。やがて壁は天井まで形成され、二人を十角形の空間に閉じ込めた。
見ると、その壁は茶色く輝いていて、半透明に澄んでいた。先ほどの台座と同じだ。その正体は言わずもがな、死後の世を象徴する神秘、星霊である。
「盾座の繋がりし者が施した結界だよ。忍び込んだ不届き者が外へ出るのを防ぐ、巨大な盾だ。おそらく、二人以上の進入が確認され次第、強制的に閉じ込める仕組みなんだと思う。入ったら最後、出る手段はないっぽいね」
ミフェルピアは刺すような目をして続けた。
「脱出の方法は、奴を倒してから考えよう」
アマネールが透き通る壁に見入っているうちに、それはどこからともなく現れていた。
禍々しい漆黒のもやを纏った化け物だ。上半身は屈強な男、下半身は馬の形をしている。かつて天命戦の首謀者が宿した、ケンタウルス座の禍黎霊であった。
「待たせたね、インフェリオール」
「愚かだな。鍵の方から出向いてくるとは」
ケンタウルスはしゃがれ声で答えた。黒々とした長髪とあごひげに囲まれた顔面に、白く光る目が異様に浮かんでいる。
半身半獣の首には、アマネールが求めるものがかけられていた。深紅に輝く宝石をあしらったネックレス、紅の鷲が遺した天結だ。
不思議とアマネールに恐れはなかった。セルルスの記憶で味わったむかつくような嫌悪感もない。恨みか、殺意か。とにかく眼前の怪物が憎かった。己の根底に渦巻くどす黒い何かが、沸々と膨れ上がるようだった。
「私が必ず隙を作る。その隙をついて、君がネックレスを奪って」
アマネールを正気に戻すように淡々と告げると、ミフェルピアはその身に星霊を宿した。
アマネールは息を呑んだ。メイエール随一の実力を持つ、結束式・ペルセウス座の星霊使い。その力量は、ヴェールコルヌやビオアークを凌ぐとも囁かれる少女の真価を、アマネールは初めて垣間見たのだ。
ミフェルピアが左手に握る黄金の剣には見覚えがある。しかし今の彼女は、以前とは決定的に違っていた。
輝かしい剣身に加えて、全身をプラチナ色の鎧が包んでいる。水晶水による防護があった天煌杯では、この姿になる必要がなかったのだろう。
それは、霊体化と呼ばれる結束式の星霊使いの境地であった。金色の武装を纏ったミフェルピアは、まさに英雄ペルセウスを思わせる威厳を放っている。
「光物で洒落込みたいお年頃か?」
嘲笑したケンタウルスの右手には、音もなく長槍が出現していた。揺らめく暗黒のもやを纏った槍を、ケンタウルスは軽々と回している。ミフェルピアの変化にはまるで動じていないようだ。
「老いぼれの目には眩しいようだな。安心しろ、すぐに葬ってやる」
ミフェルピアは剣を中段に構え、前傾姿勢で腰を落とした。
「師匠の敵のつもりか? 泣かせてくれる」
この一言が口火を切り、ミフェルピアは沈み込んだ体勢から一気に飛び出した。両者の剣戟が幕を開けたのだ。
鎧を纏うミフェルピアは金属音を響かせながら、十角形の広間を縦横無尽に駆け回っている。ケンタウルスからアマネールを引き離すように立ち回っているようだ。
対するケンタウルスも、ぴったりとミフェルピアについていた。四足歩行で機動力には劣るはずなのに、だ。こちらもコツコツと蹄を打ち付ける硬質な音を鳴らしている。
時折、輝く光の帯を引いた剣と、禍々しいもやを湛えた長槍がぶつかり合った。そのたびに甲高い衝撃音が轟き、周囲に火花が散っている。まさに互角の勝負だ。ペルセウスの恩寵を受けた剣も、ケンタウルスの怨念を懐く槍も、敵を討ち取るには至らないようである。一進一退の攻防が繰り広げられる白兵戦は、こうして膠着状態に陥った。
先に動いたのはミフェルピアだった。大きく跳び下がり、ケンタウルスとの距離を稼いだのだ。
「もう首飾りはあきらめたか?」
「世迷言は、この一撃を受けてからにしてもらおうか」
凛然と言葉を切ると、ミフェルピアは剣を脇に構えた。
数瞬後、その刀身から光の奔流が噴き出した。天より授かった珠玉の力と、メイエールで重ねた幾星霜の鍛錬に裏打ちされた、比類なき武勇を秘めた光であった。
アマネールは、今こそミフェルピアが隙を作ろうとしているのだと悟った。少年は体勢を低くし、紅玉が輝くネックレスを一心に見つめた。
「食らえ! インフェリオール」




