第四章⑦ 結星祭(下)
「ねえ。ウェンディってたしか......」
少しずつ人影が遠ざかり、足音がほぼ聞こえなくなったところで、リディアは声を殺して言った。
「かにが好きな子よね?」
「違う」
思ったよりも大きな声が出た。ノアがぱちんとアマネールの口を押さえている。固唾を吞んで暗がりの様子を窺ったが、連中が戻ってくる気配はなかった。
「いや、違くはないけど......違うよ。ウェンディは白金剣団の司令塔だ。奴らは鷲座の星霊を奪い次第、彼女に継承させるつもりなんだ」
反省の意を込めて、アマネールが小声で述べると同時に、リディアは少年の袖を掴んだ。リディアが見つめる先には、星空を背に羽ばたく美しい白鳥がいた。
「グレイとユリに何かあったんだ」
ノアが目を見開いた。
「行こう」
アマネールは即座に立ち上がった。三人は一直線に駆け出した。
アマネールたちが現場に急行すると、グレイとユリは呆然と立ち尽くしていた。体に目立った外傷はない。禍黎霊の襲撃ではないと理解したアマネールは、ほっと息をついた。
「どうしたんだい?」
体を二つ折りにして、アマネールはあえぎあえぎ訊いた。
「見て」
震えるユリの指先が示したのは、アマネールの足元だった。煤を散らしたような黒い痕跡が、大地に生々しく刻まれている。焦げ跡にも似た禍黎霊の足跡、冥跡であった。
冥跡を見て、アマネールは愕然とした。四足歩行と思われる漆黒の足跡が、三筋に並んでいたのだ。まるで、巨大な鉤爪のように。
「この冥跡......インフェリオールだ」
アマネールは何とか言葉を絞り出した。
ーー全ては、あの方が描いた筋書きの通りです。
点と点が結ばれるように、いつかの謀議が思い返された。アマネールの思考に恐るべき真実が浮かんでくる。
「......奴らが言うあの方の正体は、インフェリオールだったんだ。現代に禍黎霊を顕現させ、鷲座の星霊を狙う連中の統率者は......八年前に僕の父さんを殺したのは、インフェリオールだったんだ」
......まずい。想定外だ。このところ、父さんの記憶に囚われるあまり、禍黎霊使いの素性まで考えが及んでいなかった。
熱に浮かされたように、アマネールは喋り続けた。亡霊めいた男への憎悪が、胸の奥でどす黒い渦を巻いている。
「僕はセルルスから聞いたんだ。三百年前、天命戦の首謀者であるヴァイア・インフェリオールは、右腕のヴィーネルザと行動を共にしていたと。ケンタウルス座と猟犬座の禍黎霊が刻む冥跡は、三本の鉤爪として恐れられていたとね。
この冥跡がまさにそうだ......さっきの二人組は、インフェリオールとヴィーネルザだったに違いない」
「なわけあるかよ。ありえない」
ノアの声が珍しく上ずっている。動揺しているのは彼だけでない。アマネールを除く全員が、インフェリオールの出現を信じられないようだった。
「天命戦は三百年前に終結した。アリス一派が勝利し、インフェリオールは潰えたんだ。今さら現れるわけがない。奴がいるなら、何のための結星祭だよ。見ろ、エリダヌス川の向こうはパーティだぜ?」
「そのアリスの星霊を今日まで継承しているのは、ハル・アミタユスの末裔だ。インフェリオールの末裔がいたっておかしくはない」
「いや、殺されたはずだ。だから終戦してるんだ」
「そうは限らないよ」
アマネールの頭に、二週間前に見た星導師セルルス家に伝わる記憶が蘇った。
ーーあのインフェリオールを、どうやって?
ーー今となっては、奴は過去の人物に過ぎない。それも悲惨な過去だ。君が知る必要はないよ。
「セルルスは戦争の結末を知らなかった。何かわけがあるんだ。今思えば、アリスもそれを隠そうとしてた気がする」
だが、アマネールがこれほど力説しても、皆は納得しかねているようだ。
「うだうだしてもしょうがない。はっきりさせよう。結星祭に奴らがいるはずだ」
そう言ってアマネールは、先の二人組の会話をグレイとユリに話して聞かせた。
「君、ひょっとして接触するつもりかい? ないとは思うけど、もし万が一、本当にインフェリオールだったら......危険すぎる」
話を聞き終えると、グレイが真っ先に口を開いた。声は詰まり、顔からは血の気が引いている。
「だから手を出すなって言うのか? 僕の父さんが殺されたんだ! 動かないでどうする!」
アマネールは苛立っていた。グレイの言い分が正しいのはわかるが、父の仇敵がのさばっていると思うと、居ても立ってもいられなかった。
「君たちに止められようと、僕は行くよ。今度こそ奴らを尾行し、すべてを白日の下にさらしてやる」
意志を固めたアマネールの瞳を、ユリが深く見つめていた。彼女は毅然として言った。
「私、折衷案を思いついた。とにかく急ごう」
エリダヌス川に架かる吊り橋を引き返しながら、ユリは説明を始めた。
「白鳥を飛ばした時、こっちに走ってくるリディアたちが見えたの。それで思いついたんだけど、私が空から見下ろせば奴らを見つけられる。全身黒ずくめなんて珍しいからね。それに、今夜は白鳥が一羽飛んでいようが、誰も不審に思わないだろうし」
ユリは上空を指さした。鯨座や海豚座の星霊に混じって、数羽の鳥の星霊が満天の星を背に輝いている。
「でも、見つけるだけじゃ意味ないわよ?」 とリディア。
「僕の羊を使おう」
どうやらユリの思惑を察したらしいグレイが、説明を引き継いだ。
「台座を背中に括り付ければ、結星祭を堂々と動き回れる」
「そういうこと」 とユリ。
「で、俺たちはどうする?」 とノア。
「さっきと同様に分かれよう。君ら三人と、僕ら二人だ。ユリが奴らを見つけ、その指示通りに僕の羊で追跡する。君たちは羊を追いかけてくれ。間に羊を挟めば、まず尾行はバレやしない。インフェリオールと接触するなんて、やっぱり駄目だ」
グレイはきっぱりと言った。
「それじゃ、何のための尾行だよ」
ユリは不満を垂れるアマネールに歩み寄った。
「まずは敵の出方を見よう。幸い、奴らは私たちに気づいてない。油断してるんだよ。上手くいけば、連中の根城を突き止められるかもしれない。私たちが動くのはその後でいい。敵の頭首がインフェリオールかどうかの判断もね」
ほどなくして、五人はバジュノン宮殿まで戻ってきた。ユリは直ちに白鳥を放ち、空から黒ずくめの男の行方を探っている。ノアはそれと並行して、庭園をうろついていた山羊座の星霊から台座を奪い、グレイが召喚した羊の背に括り付けた。
「いた......! 黒のローブに身を包んだ男」
ユリが勢い込んで報告した。
「早いよ。もうやるのかよ。勘弁してよ」
グレイは現実を拒むような呻き声をあげている。
「行こう」
アマネールは急かした。
「じゃあグレイ、ユリ、頼んだよ」
一定の距離を保ちつつ、アマネールたちは牡羊座の星霊の後を追った。息を潜め、周囲に溶け込むように歩く。庭園の各所で軽快に踊る星霊も、夜気に漂う芳醇な香りも、今となっては心惹かれなかった。
突然、羊が小走りになった。人々の隙間を縫ってするすると進んでいく。アマネールたちも歩調を速めたけれど、いかんせん人が多く、少しずつ離されてしまった。
羊を見失うまいと、アマネールが人混みをかき分けた時、巨大な何かにぶつかった。衝撃でたたらを踏んだ少年は、勢いよく尻もちをついた。
見上げると、セフィド・ムルパティが立っていた。大きな蜂蜜酒の樽を抱え、顔を真っ赤に火照らせている。
「あら、目を覚ましたようね」
リディアは恨めしげに言った。リディアとノアも衝突に巻き込まれたせいで、羊の追跡が途切れてしまったのだ。
「これはこれは、君たちい。怖い形相で何をしとるのです?」
ムルパティはとろけるような声で応じた。すっかり酔いが回っているらしく、虚ろな目の焦点は定まっていない。
「ったく、それでよく女王の側近が務まるね」
そう口に出して、アマネールは気が付いた。セルルスは天命戦の結末を知らなかった。では、ムルパティならどうだろうか? アミタユス家と関係が深いムルパティ家であれば、戦争の終幕を知っているかもしれない。
幸い、ムルパティはひどく泥酔している。普段より口も軽いだろうし、踏み込んだ質問をしても忘れてくれるだろう。僕らの目的を悟られずに、情報を引き出せるかもしれない......。
「ねえ、ムルパティさん。三百年前、天命戦はどう終戦したの?」
「知らないのなら教えて差し上げまひょう。かの有名なアリス・シアステラとハル・アミタユスが戦争にけりをつけ、世界に光をもたらしたのです」
「どうやって?」
アマネールは急き込むように続けた。
「どうされたのですか。急に」
ムルパティの顔に困惑の色が浮かんだ。
「つまりさ、敵をどう倒したの? 禍黎霊使いの息の根は断ったの?」
「いえいえ。殺したのではなく、巧みに封印したとお聞きしていまふ。どのような手を使ったのかは、ムルパティ家には教えてくれませんでしたけろ」
アマネールは歯を食いしばった。
「なら、現代にインフェリオールが息づいていようが、不思議じゃないってことだ」
インフェリオールの名を出したのはまずかったようだ。ムルパティはやや正気を取り戻し、今しがたの過ちを自覚したようである。
「はっ......! しまった。この話は口外厳禁でした。私としたことが、またしても早とちりを。君たぢ、ただいまの発言は忘れてくれたまえ。それでは、よいぱーちいを」
アマネールは逃げ去ろうとしたムルパティの行く手を遮った。
「まさかその封印、解かれたりしてないよね? ちょうど、八年くらい前に」
「いえいえ......ましゃか。そしたら何のための祭典ですか。私はもう行きまふからね」
口では否定したものの、ムルパティは明らかにアマネールたちから目をそらした。この露骨な反応に、アマネールはもちろん、ノアとリディアも認めざるを得なかった。
本土で起きている一連の事件の黒幕が、三百年前の天命戦の発起人、ヴァイア・インフェリオールの血を引く者だという、戦慄すべき事実を。




