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「千鶴どの、千鶴どのぉっ!」

 璃庵由学園初等部の、六年生のクラスがある西棟三階の廊下を歩いていた千鶴のうしろから、それこそ江戸時代の読売が瓦版を群集に配るみたいに急き込んだ声が聞こえてきた。

「――日和さん?」

 千鶴がうしろを振り向くと、そこには、全速力で走ってきたのだろう、息を弾ませながら日向がやってきた。「廊下は走らないでください」

「そんなことより、クラブに入れるようになったって本当ですか?」

「まだ入れるかどうかは、テストを受けないと」

 それより、ちょっとは落ち着いてほしい。

「それにしても、それを伝えたのって、サラさん――」

「そのサラさんから連絡を受けたんです。それにサラさんはもとから参加するつもりだったみたいですし、すごい喜んでいましたよ」

 それを自分のことのように興奮してる日向を見て、

「そんなにすごいことなんですかね?」

 と、千鶴は肩をすくめた。

「なにを言っているんですか? 某が一目見ただけでも、お二人はすごいです」

 はっきりという日向に、千鶴はこしょばゆい感覚になる。

「それに、昨日の昼休み、お二人が練習しているところを拝見しましたが、あのボレーパスの連携を一度もミスすることなくクリアする人はそうそうといません」

 ボレーに関しては、サラのパスが取れやすかったというだけなのだが、それは逆に千鶴のパスも取れやすいということだ。

「お二人が入るということは、某もいよいよ覚悟を決めないといけませんね」

 日向が、それこそグッと顔を引き締める。「覚悟?」

「某の家は、旅芸人みたいなもので、学校に行くことも本当はままなりません」

 そういえば、日和の家は家族経営の劇団だったな。と、千鶴は思い出した。

「ですが、某が参加している劇のスケジュールを調整すれば、クラブに入れるかもしれません」

 それを聞いて、千鶴は、日向がそこまでしてサッカークラブに入りたいというのに、ただ父親に許可をもらうことにも覚悟をしていた自分が恥ずかしくなっていた。

 日和は、父親だけではなく、家族どころか、その劇団に関わっている人たちにも、クラブに入りたいと伝えなければいけないのだ。千鶴よりもハードルが高い。

「それに昨日、父上にそれとなく話してみたんですが」

「どうだったんですか?」

「お前がやりたいというなら反対はしない。だがみんなにちゃんと許可をもらえと」

 それを聞いて、千鶴は、ホッと胸を撫で下ろした。

 なんだ。取り越し苦労か――。

「ただ、許してくれたのは、まだ父上だけなのですけどね」

 日和は、千鶴の安堵をかなぐり捨てるような言葉を吐いた。

「もともと、父上は某にすごく優しいんです。疲れているのに朝夕の3キロジョギングに付き合ってくれたり、某がリフティングをしている時のカウントをしてくれたり……」

 日和は、照れくさそうに話す。

「ただ、母上はすごく厳しい人で、話を聞いていたときに大反対を食らったんです」

 日和の顔が、照れくさいという苦笑から、どんよりとした陰を落とす。

「今度の日曜日にトライアウトがあるんですよね?」

「そう聞いてますけど」

「テストに参加するための締め切りはいつなんでしょうか?」

 そう聞かれたが、千鶴はそのことに関して、詳細もなにも知らない。

「サラさんだったら知っているかもしれませんけど」

「某は、その締め切り前までに入部テストを受けられるよう、母上やみんなを説得する所存です」

 そんな日向に、千鶴は気軽に頑張ってとは云えなかった。

 なぜか、その言葉が、今の日向を傷つけてしまうのではないかと思ったからだ。

「二人とも、そんなところでなにを話しているんですか?」

 ラテン調の明るい音楽のような声が聞こえ、千鶴と日和がそちらへと視線を向ける。

「おはようございます。――サラどの」

「おはよう、サラさん」

「はい、おはようです」

 千鶴と日和がそう挨拶すると、ランドセル……ではなく、ブラウン調の学生カバンを手に持ったサラが笑顔で応えた。「なにを話してましたか?」

 興味津々に、サラは千鶴と日向を見渡す。

 その目は、面白そうな話かもしれないと、目をらんらんと輝かせている。

「千鶴どのがクラブのトライアウトに参加できるようになったのを話していたんですよ」

「おぉ、今度の日曜日が楽しみになってきました。三人ともテストに合格できます」

 サラの、何気ない一言に、「まだ三人とは決まっていませんよ」

 と、日向が小さな声で愚痴を吐き出した。

「おぅっ? どうしてですか? ワタシは日和も一緒にトライアウトに参加すると思ってましたが?」

 首をかしげるようにサラは日向を見据えた。

「実は、まだ父上からしか許しを受けていないんです」

「どうして?」

 日和の言葉が理解できないといった声で、サラは返した。

「どうしてって? 某の話を聞いてましたか? 某の家は家族が劇団をやっていて、某一人のわがままでみんなに迷惑をかけるかもしれないんです」

「どうしてやりたいことを許してもらう必要があるんですか? たしかにヒヨリの家の人に迷惑をかけるかもしれないのはわかります。でも悪いことをしようとしているわけじゃないですよね?」

「それだったら――」

 どうしてそんな、あっけらかんと話ができるんですか?

 日向はにらむようにサラを見上げた。

「ヒヨリが本当はやりたいって思っているのに、家族にそれを許してくれないって思っていることがわかりません」

「サラさんは、家族から許してもらえないって、そういうことを考えたことってないんですか?」

「許してもらえないかもしれないって思うことはあります」

「それなら、某の家がそう簡単に時間が作れないってことも――」

「でも、どうしてサッカーをしたいって伝えることが悪いことなんですか? ワタシはサッカーが大好きですからどんな場所だろうとできることがうれしいです」

 と、サラは日向の言葉が理解できないといった、キョトンとした顔で見据えていた。

 焦燥感で顔をゆがめている日向とは正反対の顔色。

「サラさん、日向さんの家の事情もあるんですから――」

 千鶴が二人を宥めようとした時だった。

「それに、日向はサッカーがうまいです。そんな人が本気でサッカーを始めたら、面白くなるかもしれません」

「そう言ってくれるのはうれしいですけど、某なんて二人に比べたら」

 肩を落とす日向にあきれたのか、

「日本人って変なところで謙虚ですよね。だからイエスマンなんて罵られるんですよ」

 サラが頬を膨らますように言った。

「でもサッカーはそんなこと許されません。自分から動こうとしないと点どころか、チームメイトからも見放されます」

「自分から……」

「日向はサッカーがしたいんですよね? だったらそれをダディやマミィに話せばいいだけですよ。本当にサッカーがしたいんだって言う気持ちを伝えるのに、なんでそんなに苦しそうな声で言うんですか?」

 千鶴は、あえて口をはさもうとはしなかった。

 昨夜、父親にサッカークラブに入りたいという旨を伝えようとしたすこし前に、姉を否定されたことに激昂し、あんな喧嘩腰で話をしてしまったが、それがかえって千鶴の本心を伝えることができたからだろう、父親から許しを得ることができた。

 言いたいことを伝えなければ、相手に伝わることはない。

「日本語にこんなのがあります。[聞くは一瞬の恥。聞かぬは一生の後悔]」

 それを言うなら、一生の恥なのでは? と、千鶴は思った。

 だけど、今の日向に対してはそれで合っているかもしれない。

 日向は心からサッカーがやりたいということを、千鶴もサラも理解していた。

 それと同時に、周りから反対されるのではという不安から、やりたいという気持ちが伝えられないのだということも。

 だからこそ、あえて、

「ワタシはそんな負け犬根性のある人がサッカーボールを蹴ることも、触れることもきらいです」

 と、サラは日向を鼻で笑った。

 欧米人がよくやる、肩をすぼめて人を小ばかにする動作だ。

「サラどの――」

 日向は、口に出かけた言葉を飲み込んだ。

 どうしてそんなことを言うのだろうか。

 友達なら、一緒に頑張ろうとか、応援してくれるものじゃないのか?

「だから日向がクラブのトライアウトに参加できるように、そのマミィや劇団の人たちをワタシたちと一緒に説得すればいいんです」

 サラがそういうや、「えっ?」

 日向は鳩に豆鉄砲を食らったように、その流れ弾を食らった千鶴も目を点とさせていた。

「ふたりともなんでそんな顔をしてるんですか? 友達が困っているなら、それを助けてあげないといけません。ベイビーブルーは人のためにはなりません」

「どういう……意味ですか?」

 日向がけげんな顔で首をかしげる。

「ベイビーブルー……、青い赤ちゃん?」

 千鶴が首をかしげながら言う。「それだと意味が余計にわかりませんよ」

「赤ちゃんって、小さいってことだから、小さい青……もしかして「情け」とかそういうことですか?」

「あぁ、そうですそうです。昔ダディに教えてもらった時も漢字でしたけど、立心偏(りっしんべん)と青がはなれすぎていてましたから、変な覚え方をしてました」

 サラは、あはははは……と、苦笑を浮かべる。

「だけどそれだと、某にしてくれることと矛盾しているような気が?」

「それは違いますよ。本当の意味は他人に親切をしておけば、巡り巡って自分のいい報いが来るという意味です」

 あぁ、だからサラさんはそうしようと思ったのか。と、千鶴は合点がいった。

 自分とサラが日向の家族を説得して、日向がトライアウトに参加することを許してもらえれば、それは日向のためにもなるし、自分たちのためにもなる。

 もちろん、サラからしてみれば、ひとりでもサッカーができる友達――いや、チームメイトがいることがうれしいからという、ただそれだけの、単純な理由かもしれないが――。

「許してくれますかね?」

「日向さんが本当にサッカーがやりたいって思っているなら、伝えるべきですよ」

「そうです。それに日向はへたくそじゃないです。あんなにうまいボールコントロールを、誰からも教えてもらっていないなら、本当にはじめたらすごくなります」

 サラは興奮気味に言う。

 千鶴も、昨日、三人でパスワークの練習をしていた時に思ったことだ。

 日向は、体力づくりのためにジョギングを毎日欠かさず行い、バランス感覚をやしなうためにリフティングをしていたという。

 ボールをただ蹴り上げればいいというわけではなく、次の落下地点にどう落とせばいいのか、その角度や力加減を見定めながら続けなければいけない。

 それを続けていたからこそ、相手がパスを受けやすいボールが蹴られる。

 ただし、それ以外は、初心者も初心者でしかないのが、千鶴とサラからみた日向の実力だ。

 だけど……、もしそんな人が、本当にサッカーをはじめたら――。

 千鶴は、静かに興奮する。「わたしも、日向さんがサッカーできるように、ご家族や皆さんを説得します」

「そうです。三人でトライアウトを受けますよ」

 千鶴とサラの言葉に、日向は心を震わせた。

 次第に目頭が熱くなってくる。「お二人とも、某のために――」

 日向は、サラと千鶴をギュッと抱きしめた。

「ありがとうございます」




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