12
「サッカークラブのトライアウトですか?」
璃庵由学園初等部六年三組の教室で、日向のおどろいた声が響きわたる。日向を交えたサッカーの練習を終え、現在五時限目前の掃除の時間であった。
サラが次の日曜日にサッカークラブのトライアウトが行われるのを伝えたのである。「お二人はそれに出られるんですか?」
身を乗り出すように日向が千鶴にたずねた。
「わたしは出る気がなかったんだけど」
千鶴はちらりと自分の机に座っているサラを一瞥する。
「サラさんがどうしてもって、わたしを誘うから」
「なにを言ってますか? 千鶴のプレイなら合格間違いなしです」
サラは人差し指をビシッと千鶴に向けた。「というかそろそろ机をうしろに運びたいんですけど」
千鶴が片眉をしかめながら言う。教壇と教師用の大きな机以外の、生徒用の机のほとんどがうしろへと運び込まれており、残っているのは一番前のサラの机だけとなっていた。
「たしかに、千鶴どのの実力でしたら合格はするでしょうが……はて?」
日向は首をかしげる。「どうかしたんですか?」
「いや、そもそもサッカークラブと言うのは実力を見て云々と言うよりは、募集に応募したり、参加したいっていう子どもがいればテストとかしないはずですが」
日向の言葉どおり、本来はクラブの活動費を支払うことで参加することができる。つまり入団テスト自体そもそもしない。
「たぶん、ほかのクラブと違うからかもしれません。なんでもスクレイバーFCと地元の企業が共同して作ったサッカークラブらしいですから」
自分の机をうしろへと運びだしたサラがそう言うや、
「スクレイバーFCって、あの二〇一一年女子ワールドカップで優勝したなでしこジャパンのトップ下でMVPにも輝いた瀧澤希望選手が所属していたという女子プロサッカーチームでありますか?」
日向がギラギラと目を輝かせる。
「……誰ですか? それ」
千鶴がキョトンと首をかしげた。日向の口調からしてかなりの有名選手だということはすぐにわかったが、誰のことだろうかとその選手の顔がすぐには思い浮かばなかった。
そもそも姉である千尋と一緒にテレビでサッカーを観戦することは今も続けているが、サッカーのプレイを見ているだけで、勝敗などまず興味なし。贔屓チームどころか好きな選手がいるわけでもないので、選手一人一人の名前など覚えていなかった。
当然女子サッカーの試合が中継されていた時も姉と一緒に、いや今もテレビで見ているのだが、選手が繰り出すテクニックを盗もうとして観ているため、選手個人に対してはあまり知らないともいえる。
「千鶴どの? それは女子プロサッカーを目指している人が言うものではないと思いますが?」
落胆とした声で、日向は千鶴を眇めるように見やった。
そんな日向に、千鶴は目を瞬かせながら、
「目指すもなにも、わたしがサッカーをしているのは、将来プロになりたいから練習しているわけではないですから」
ホウキを手に、千鶴は床をはわいていく。
「そうなんですか? てっきり目指しているとばかり」
「――でも、クラブに入ったら違う学区の子たちがいっぱい来るんですよね?」
千鶴の言葉に、「そうです。学校のクラブでも違う学校の人と試合をしたり交流することはありますけど、クラブはチームの時点で違う学区の人がいます。自分の知らない子とかがチームメイトになることもあります」
パンと手をたたきながら、日向は言った。
「わたしがサッカーをはじめたのって、お姉ちゃんの影響だったんだけど、今は自分がお姉ちゃん以外の人に勝てるかどうか試してみたい」
千鶴はジッと自分の手の平を見すえた。
いろんな人と勝負がしてみたい。いや、したい。
今日の朝、昇降口の前でサラと勝負をしたとき、サラのプレイはファウルタックルという反則行為になるのだが、それがわかっていてもボールに対する執着心と負ける気持ちはないというサラの貪欲なプレイに、千鶴は負けたと自覚している。
だからこそ、次は負けたくないという気持ちも芽生えていた。
自分の中にこんな風に思うほど闘争心があったのかと千鶴は信じられないでいた。
姉である千尋が亡くなってから、ずっと虚無の中でサッカーをしていたとも言える千鶴は、ちょっとしたきっかけで自分がやってみたいサッカーが見えたと思ったのだ。
だからこそ、トライアウトに参加したいと思った。
「それにヒヨリも参加してみたらどうですか?」
サラの言葉に、
「某が……ですが? いやいや無理ですよ。うちは家族で運営している劇団でして、某も役者や裏方として参加しないと公演もままなりませんし」
日向は両手の平を見せて、激しく振った。「それに某はサッカーは詳しくても、実際プレイするとなればずぶの素人ですよ」
それを聞いて、千鶴は小首をかしげた。三角形に陣取ってボレーパスの練習をしていた時、日向は一度もパスの受け渡しをミスしていない。
体力づくりのために毎日朝夕3キロのランニングとリフティングをしているため、ボールのコントロール自体は上手いのだが、それ以外はダメだと日向本人が言っている。
「ヒヨリだったらいいところまで行くと思うんですがねぇ」
サラがしょぼんとした顔で、フローリングを雑巾で拭き始めた。
「家の事情だからしかたないですよ」
千鶴はそう言いながら、すこし視線を床に落とした。
――家の事情だから……。
千鶴もまた、家の事情でトライアウトに参加できるかどうかわからなかった。
参加したい。したいからこそ、両親に話すべきだとは思っている。
しかし、姉が殺されたのは、璃庵由学園初等部のサッカークラブに入っていて、その練習で帰りが遅くなってしまったさいに公園の中で殺されたことだ。
つまり、妹である自分までサッカークラブに入ることは、また姉と同様に襲い殺されてしまうのではないか――両親がそう思わないとは言い切れず、むしろ反対される可能性のほうが高いと思った。
「どうかしましたか? 千鶴どの?」
顔を覗き込むように日向が問いかけた。「あ、なんでもないですよ。ほら、机を前に移動させましょう」
千鶴はそれこそ逃げるように、うしろに並べられた机を元の場所へと戻し始めた。
☆
璃庵由学園初等部の学区内に、一際目立つ昔ながらの瓦屋根の大きな屋敷がある。その屋敷の表札には『畑』と記されており、その下には華道家元と付け加えられている。
「やっぱり、一番の難題はここだよな」
その家を見上げるように、和成はむずかゆそうな表情を浮かべていた。
「ましろのお母さんだったら理解してくれるだろうけど、問題は父親だよなぁ」
ましろ――畑千尋がサッカーを始めたきっかけは、和成のプレイを見て、サッカーが面白いと思ったからだ。
そしてその幼い命を絶ったのは、ほかでもない和成が所属していた璃庵由学園中等部のサッカー部部長である道里。
つまり、千尋の両親からすれば和成は憎むべき相手の仲間ということになる。
「ましろの卒業式のときに学校の外で様子を見ていたけど、やっぱり直接あったほうがいいよな」
和成がインターホンを押そうとしたときだった。
「あの……、どちらさまでしょうか?」
清んだ水のような声が聞き覚えのある声色だと思った和成は、思わずうしろへと振り返った。
日よけ用にさしているのだろう和傘と買い物袋を抱えた着物姿の女性が、首をかしげるように和成を見ていた。
髪は漆を塗ったかのように艶のあるボックスボブ。三十代後半だというのに、下手をすると十代でも十分通用するほどの幼い顔立ちだが、すらりと伸びたシルエットに、和成は思わず喉を鳴らした。
喉を鳴らした理由はそれだけではない。
似ているのだ――娘であるましろと。
もし畑千尋が殺されず、ちゃんと大人になっていたとすれば、このようなおしとやかな女性になっていたかもしれない。
「……もしかしてあなた――鎌田和成さん……?」
千尋の母親が首をかしげるように聞いた。
「な、なんで俺の名前を?」
和成はギョッとした顔つきで千尋の母親を見据えた。
「知っていますよ。千尋があなたの名前をいつも言っていましたし、わたくしもあなたが所属しているサッカーチームが優勝した試合を娘と一緒に見ていましたから」
千尋の母親は、目を細め和成を見つめた。
「……俺が悪いのかもしれません」
「えっ?」
和成の言葉に、千尋の母親は思わず目を見開く。
「俺があの時スタメンに出ていなければ、ましろ――千尋さんがあの試合を見て俺なんかを目標にサッカーをやっていなかったら。サッカーのクラブに入ってなかったら――あいつは殺されなかったかもしれないんだ」
「鎌田さん……それは絶対違いますよ」
千尋の母親の言葉が刺々しく強まった。
「たしかに千尋がなくなったのは、学校のクラブに入ってその帰りが遅くなった末に襲われて殺された」
ゆっくりと手をこまねくように、千尋の母親は言葉をつむいでいく。
「でも、あの子がサッカーを始めたきっかけは、あなたといつか勝負したいと思ったからなんです。あの子は本当に飽きっぽい性格で、家元は継がないとお父さんに言ってしまうくらいですから」
千尋の母親は、ひとつ呼吸を整えると、
「そんなあの子が、サッカーだけは真剣に取り組んでいたんです。テレビでサッカーの試合があれば、初めから終わりまでトイレにも行かずに見たり、あの選手がやったプレイを、夜も遅いのに庭でためしてみたり、そうそう妹を巻き込んで一緒に練習していたんですよ」
言葉を続けながら、次第に声が細々となっていく。
「学校のクラブに参加して、チームのスタメンに選ばれたときは、本当にうれしそうでした。あの子はやりたいことをわたしたちが教えるよりも先に、あの子自身が見つけた。いえ、見つけられたんです」
「で、でも俺は……、いや俺はお母さんに謝らないといけないことがあるんです」
「鎌田さんが謝ることではありません。むしろ感謝をしているんです」
千尋の母親がちいさく頭を下げようとしたときだった。
「千尋を殺したのは、中学のとき、俺が所属していたサッカー部の部長だったんです」
和成の、悲鳴のような告白に、千尋の母親はちいさく呼吸を合わせるように、
「……知っていました」
と、和成がここにきた理由を悟ったように口をひらいた。
「えっ?」
和成は、千尋の母親の言葉に信じられず、思わず彼女の顔を見据えた。
「千尋の卒業式が行われた後、能義という刑事がわたしと夫にすべてを伝えてくれました。その犯人はすでに亡くなっていて、罰を与えることはできないと言うことも、それが法律で定められているとすれば、それに従わなければいけません。ですがわたしも夫も、犯人を赦すことはないでしょう。ですが――それで鎌田さんをどうして恨む理由になるでしょうか?」
和成は、その場にひざまずいた。緊張が一瞬で解け、足に力が入らなくなったからだ。
「俺は、死んだ後の千尋と会ったことがあるんです」
「……っ」
「あいつは、ましろっていう名前で俺がコーチを任された小学生のサッカーチームに参加して、チームを引っ張るストライカー……いや、俺ですら楽しませてくれた自由な、リベロのようなプレイヤーでした」
「…………っ、ましろですか。あの子らしい名前ですね」
千尋の母親が膝を曲げて、和成と同じ視線を向けた。「あの子は鈴蘭のようなまっしろでちいさな花が好きだったんです。一輪だけでも連なって花をさかせる鈴蘭が好きでした」
「……っ」
「あの子はサッカーをしていることを所属していたクラブの男の子たちからバカにされたことがあります。たぶん男の子たちはあの子に嫉妬していたんでしょうね。でもこうは考えられるんです……あの子は自分の力でサッカーがうまくなった。お金で特別なコーチを雇ったり、強いクラブに入れたからじゃない。あの子はあの子なりに練習して、そしてスタメンになった」
千尋の母親は、和成の肩に手を置き、
「知っていますか? 相手を嫉妬すると言うことは、その人のすごいところを認めている心の裏返しなんですよ」
やさしく暖かいまなざしで和成をなだめた。
「だから、あなたはちゃんと千尋の目標としていてあげてください」
和成は言葉を詰まらせた。「すみません。俺はもうサッカー選手としてはもうプレイできるような足じゃないんです」
「――えっ?」
唖然とする千尋の母親を無視するかのように、
「ましろが俺のプレイに憧れて、いつか俺と勝負して勝ってみせるって約束を交わしたその日、俺は所属していたサッカークラブから選手としてはずされたんです」
「そんな、あなたのようなプレイヤーがどうして? わたくしは今もそうですがサッカーのルールに疎いところがあります。でもあの時、サッカーのサの字も知らなかったわたくしですら、あなたのプレイに目を奪われたくらいなのですよ?」
「チームの、いやクラブの考えに叛いたからでしょうね。まぁ俺はそれに対してはまったく気にはしていないんです。でもそのクラブの影響力は俺が思っている以上に強かった」
和成は、他のサッカークラブに所属しようと思っていた。
しかし他のクラブに入ろうとしても、河山センチュリーズが虚偽の報告をして和成をクラブに入れさせないようにしていた。
中学に上がった後も、その影響は続いており、ようやく通っている中等部のサッカー部に入ることはできたが、スタメンどころかベンチ入り……いや、練習にすら参加させてもらえなかった。
部員からも煙たがられており、孤立した二年間を過ごしていた。
そのストレスを紛らわせるように、和成は利き足である左足が壊れるまで酷使した。
そして二度と満足にプレイができない足になってしまった。
「でも、俺は――だからこそましろに会うことが、彼女と勝負ができたんだとも思っています」
「あの子があなたに勝ったのか、それとも負けたのかは聞きません。ただあの子はサッカーを楽しんでいましたか?」
千尋の母親からそう聞かれた和成は、零れ落ちそうになっていた涙を腕で拭った。
「ましろ――畑千尋さんはサッカーが大好きな女の子でした。そしてすごく負けず嫌いで、俺を楽しませてくれた素敵なファンタジスタでしたよ」
千尋の母親は、「そうですか。あの子はサッカーが本当に楽しくって大好きだったんですね」
スッと姿勢をただし、和成に手を差し伸べた。太陽が和傘に差し込む。
「……っ」
和成は千尋の母親の顔が、ましろの顔に見えた。
「ところで、鎌田さんは家になんの御用だったんでしょうか? もしかして先ほどの?」
「あ、いや……それもあったんですけど。俺がここにきたのは千鶴さんのことなんです」
「千鶴の?」
目を見開くように、千尋の母親は聞き返す。
「今度の日曜日、あるサッカークラブのトライアウトがあります。俺はそのテストに千鶴さんを受けさせたいと思っています」
千尋の母親はその言葉に、「千鶴は、千鶴本人はやりたいと、そのテストを受けたいと言っているんですか?」
と、声色を強めてたずねた。
「まだ、まだ本人から直接は聞いていません」
「だ、だったら、あの子がどうしてテストを受けると? いや、どうしてテストを受けさせたいと思ったんですか?」
「ましろ――千尋さんと一緒だったからです」
「千尋と――ッ?」
「俺は千鶴さんが公園で練習しているのを何度も見ています。誰に教えてもらったわけじゃない。いやラダーっていう縄梯子を使ったステップの練習や、公園の鉄棒をゴールに見立ててシュートの練習をしたり、壁にぶつけてボールのコントロールを鍛えたりしていました」
「あの子、学校から帰るとすぐに出て行っていたけど、そういうことだったのね」
千尋の母親は「ふぅ……っ」と、ため息混じりに、
「千尋があの子をサッカー好きになんてするから」
愚痴をこぼすように笑みを浮かべた。
「母親と言うのは、いいえ、親と言うのは子どもの将来を考えないといけません。本当なら娘をサッカークラブに通わせる。いいえ、塾にすら通わせたくないと思っています」
千尋が襲い殺された経緯を知っている和成は、母親が反対する理由もわかっていた。
「……やっぱりそうですよね。それじゃぁ彼女がテストを受けることはあきらめて――」
和成が申し訳ないといった顔で頭を下げ、その場を立ち去ろうとしたときだった。
「ですが娘が、子どもがやってみたいと思ったことがあるのなら、それを全力で応援してあげたいと思うのも、また親というものなんでしょうね」
千尋の母親は、和成をうしろから抱きしめるように身を寄せた。
「ちょ、ちょっと?」
突然のことで、和成はあたふたとする。「娘を、千鶴をお願いできますか?」
「あの、とりあえずはなれてくれません?」
「あら? おばさんから抱きしめられるのは嫌かしら?」
人をからかうような声に、和成は苦笑いを浮かべる。
「うふふ、やはりまだまだ若いですね。コレくらいで心臓をバクバクさせるなんて」
と、千尋の母親は手で隠すように笑みを浮かべた。
それをみて、和成はましろがやはり、目の前で立っている女性の娘なのだと、改めて思った。
「やっぱり子どもってのは親に似るんですね。あいつも相手が予想できない突飛なことをよくしていましたよ」
「あの子はいたずら好きでしたからね。ほんと誰に似たんだか」
千尋の母親は頬杖をつくように首をかしげた。
――どこをどうみても、あなたに似たんだと思うんですけどね。
和成は苦笑を浮かべながら肩をすくめる。
「わかりました。俺が責任を持って千鶴さんにサッカーを教えます」
「わたしも、あの子の気持ちを尊重しようと思います。夫にも絶対了解を取って、あの子がそのサッカークラブのテストに参加できるよう話をつけますわ」
千尋の母親は、ゆっくりと和成の手を両手で包んだ。




