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N市の市街地からすこしはなれた閑静な住宅街の中に、『ヴェニス』という喫茶店がある。
店内は六席のカウンターと、四人ほど卓を囲むテーブルがよっつあるくらいのこじんまりとしたものであり、流れているジャズが雰囲気を醸し出している。
その店の片隅のテーブルで能義はひとりキリマンジャロを堪能していた。
カランコロンと、店のドア上部に取り付けられたカウベルが鳴り響いた。「あぁ、お待ちしていましたよ」
店に入ってきた青年……いや、まだ少年とも言えるあどけない雰囲気のある人物だったのに気付いた能義は、その彼に声をかけた。
「あぁ、すみません能義さん」
能義が自分に声をかけたのに気付いた少年は、そちらに視線を向け、ちいさく会釈する。店に入ってきたのは和成だった。
「ご注文は?」
店に入ってきた和成に近付くように、さわやかな秋を思わせるマロンカラーの長髪を靡かせながら、メイド調のユニフォームを着た女性定員が聞いてきた。その胸元には『百道』と記されたネームブレードがつけられている。
「カフェラテで」
和成がそう注文し、能義が座っているテーブルの席に着いた。
「かしこまりました。それではごゆっくり」
ウェイトレスは、小さく頭を下げ、ササッと奥へと引っ込んでいった。
「大学受験はどうですかな?」
「あははは、ぼちぼちです。でもやっぱりサッカーをやっているときのほうが気分が楽ですね」
「こちらも、たまに夢で逃げている犯人を追いかけるってのを見るんですが、それってようするに犯人を追いかけているほうが私にゃぁ性に合っているってことでしょう。それを考えるとやはり職業病なんでしょうな」
「俺も、ある意味職業病なんでしょうかね?」
和成はカラカラと笑みを浮かべながら、能義と世間話を楽しんでいた。「それで私に話とは?」
能義が先に口火を切った。
「ましろの妹がサッカーを本気で取り組みはじめました。先ほど、サラっていう子を通して、梨桜に連絡があったみたいです。俺は[線]を通して聞いたまでですけど」
「ほぅ、そうですか? それはあなたもうれしいでしょ?」
「それはどうして?」
和成は片眉をしがめるように、能義を見すえた。
「だって、楽しみなんでしょ? その子がどんな選手なのか――いくら辞めているからといっても、あなたがましろさんに与えた影響は大きい。そしてそのおねえさんを追いかけていた千鶴さんは、かならずあなたを意識する」
能義はコーヒーに砂糖を入れて混ぜていたティースプーンの先を和成に向けた。
「たしかにましろは俺に憧れてサッカーをはじめていました。でもあいつは憧れなんかじゃない。生前俺の試合を見たその日にサッカーをはじめると言って、いつか俺を抜くと宣言したんです――そしてあの日、俺に勝った」
それこそやり遂げたといった表情で和成は言った。
「わざと油断していたのでは?」
「油断でも負けは負けです。でも俺はあいつがもし生きていたらまだまだ教えてあげたいことが山ほどあったって悔しくなったんです。足りなかったんです。俺があいつらに、梓や直之、椿、恭平、優、武、明日香、悟、陽介――そしてましろにいろんなことを教えてあげたかった」
和成は、小さくポニーテールFCの子どもたちの名前を挙げていく。
「だから、俺は子どもたちにサッカーを教えようと思って、今少しずつ勉強しているんです」
「ほぅ、つまり――コーチの資格を取って、本格的に子どもたちにサッカーを教えたいってことですか」
それはつまり、和成はプレイヤーとしてではなく、育てる側に回るということだ。
「後悔……はないんですか? だってあなたくらいのプレイヤーだったら」
「俺は中学に上がる前に左足を自分で壊しましたし、もうプレイヤーとして使い物にはならないことくらいはわかっているんです。自分の足すら満足に使えないプレイヤーを使ってくれるほど現実は甘くない」
能義は和成を見ていて思った。彼はプレイヤーとしての人生を自らの手で壊してしまった。
しかし、彼の中にはあたらしいサッカーの見方が、将来のビジョンがすでにできている。これは和成の人生だ。そんなサッカー人生もありだろう。
「わかりました。ところでそれを伝えるために私をここに?」
「それもありますけど、実はそうじゃないんです」
和成は持ってきていたバッグの中から、7インチのタブレットを取り出した。
「ちょっとコレを見てください」
タブレットを起動させると、和成はブラウザアプリを立ち上げる。
【N市少年サッカー大会U-12】
と大きく表示されており、その下に参加条件などが記されている。
U-12――十二歳までを対象としたサッカーを意味する。
「ほぅ、八人制サッカーの大会ですか? しかもトーナメント製。まぁ小学生クラスの試合時間を考えると、無理ではないですね」
小学生の試合は前後15分から20分。合わせて30分から40分とされている。これに休憩時間に一時間を費やすとすれば、先日にトップ8を決めたとして、ふたつコートを使えば、準々決勝でふたつのコートを二回。準決勝でふたつのコードを一回。そして決勝はひとつのコートで行うことが可能であり、時間も6時間40分と――一日で大会を終えることは可能だ。
「しかし、この大会がいったい」
「その下――共催のところです」
共催? と、能義は文字を流し呼んでいく。……大会共催――季久利屋書店。
その文字に能義は言葉を失った。
「これって偶然ですかね?」
「偶然でしょうね。その社長である季久利聡一は四年前から精神障害の類で山奥の病院にいるはずですから」
しかしはたして偶然といいきれるのだろうか――。
単純に共催スポンサーとして大会運営資金を出している可能性も否定できない。
なにせ、季久利聡一が立ち上げたサッカークラブである河山センチュリーズはすでに解散しているのだ。息が吹きかかっているチームも今はなにもない。
「和成さん、杞憂という可能性は?」
「それならそれでかまわないんです。試合に出るのは結局子どもたちですから――でも俺は……純粋に勝負を楽しんでほしいんです」
肩を震わせながら和成は思いのたけを吐露した。
「子どもたちが自由にフィールドを駆け巡って、相手からボールを奪ったり、抜き去ったり、パスをしあったり、自分たちが、いや周りがサッカーが楽しいって思えるプレイを、子どもたちには自由な発想の中でやってほしいんですよ」
能義は和成の肩をそっと叩いた。
「和成さん、私はあなたに感謝しています。もしあなたと出会わなければ、いや死んだ息子と再開しなければ、サッカーを憎んでいたかもしれません」
和成はゆっくりと能義を見上げた。
能義の息子である直之は、今から十二年前に起きた河山センチュリーズの送迎バスの転落事故に巻き込まれ、わずか十二歳で命を絶たれた。
能義にとっては、千鶴と同様にサッカーを憎んでもおかしくはない状態だ。
だが、それはあくまでサッカーを楽しそうに取り組んでいる息子を見ていなかった場合。
それを死んだ後に見ることができた能義は、息子が大好きだったサッカーを嫌いになろうとは思わないでいられた。
「あなたにサッカーを教えてもらっていたときの直之は本当に楽しそうでした。そして試合でゴールを決めたときのあの子を観客席で見たとき、あの子がまぶしく輝いていたんです。あぁ、この子はサッカーが大好きなんだなと」
能義の目じりにはうっすらと涙がこぼれ落ちそうになっていた。
「あなたはあの子達にもっといろんなことを教えてあげたかったとおっしゃいました。それも立派なコーチとしての心構えだと思います。でもあの子達はあなたから十分にサッカーの技術を、いいえ思い出を、一緒に刻めたと思いますよ」
能義はスッと立ち上がり。
「この一件、すこし調べさせてもらいます」
「えっ? でももう警察は――」
和成が喫驚するように能義に声をかけるが、
「なぁに、警察ってのは面白い組織でしてね、辞めた後もちょっと声をかければいろいろと調べてくれるときもあるんですよ」
と能義は笑顔で返した。「あなたも、私だからこの話をしたのでしょう」
能義は和成が注文したカフェ・ラテ分も加算した料金を支払い終え、外に出るや、コートの中に入れていたスマホを取り出して、ある場所に連絡を入れ始めた。
「あぁ、俺だ――ちょっと調べてほしいことがある――ああ、俺の長年の刑事としての勘がさっきから警鐘を鳴らしているんだよ。もしかしたら、またよくないことが起きているかもしれないってな」
能義は、刑事課に所属している部下に電話をかけていた。
「そ、それがですね能義さん――ちょっとそれどころじゃないんですよ。も、もちろん季久利屋書店のこともすこしは調べるつもりですけど」
電話先の刑事――乃木坂勇馬巡査部長は困惑した声をあげていた。
「別に仕事優先でもかまわんがな……それで、なにかあったのか?」
「――サッカーの試合なんかをしているN市の市営スタジアムの近くに深さ2メートルくらいある川が流れているのはご存知ですよね?」
「あ、ああ」
「そこで中学生くらいの少女の変死体が発見されたんですよ。一緒に見つかったバッグの中にサポーターや給水ボトル……それとバッグのホルダにつなげられたネットの中に5号級のサッカーボールが入っていました」
その言葉に、能義は言葉を失う。
それはつまりサッカーの練習に行ったか、その帰りかどうかはまだわからないが、確実なのはその少女が『サッカーをしていた』ということだ。
先ほどまで鳴り響いていた警鐘が、能義の鼓動と共鳴するように激しく鳴り響く。
「すまない乃木坂――、無理を承知でお願いがある。その女の子の詳細がわかったら報せてくれ」
能義は乃木坂の返事を待たずに震えた手で電話を切った。そして空を仰ぐ。
またつまらないことが起きようとしているのか――と。




