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 学校の昇降口、子どもたちの下駄箱があるこの場所で、サラはそれこそ仁王立ちとも思えるほど、胸を張ったように立っていた。

「――サラさん?」

 それに気付いた千鶴はけげんそうにサラを見たが、昨日ケンカに近いわかれかたをしてしまっているのを気にしており、ばつの悪い顔でサラの横を素通りをしようとした。

「……ッ!」

 サラはネットに入れていたサッカーボールを取り出して、上に投げると、右足のトーでつかみあげ、右太ももでバウンドしたそのボールを、右のインサイドで千鶴の方へと大きく蹴り上げた。

「ッ、いったいなにを?」

 ボールを見上げながら、千鶴はサラを睨んだ。「わたしはサッカーが嫌いだって」

「ワタシ、あなたのおねえさんみたいにサッカーが上手いかなんてわかりません。だって見たことないですし、勝負もしたことがないです。でも……ワタシが勝負したいのはチヅルです」

「だからわたしは」

「ワタシ、チヅルが取れやすいようにボールを蹴りました。そのボールを落としたり、スルーするってことはチヅルも、チヅルが勝てないって思っているおねえさんもへたくそだってことです」

 サラは、昨夜勝負した和成のことを思い出していた。

 あのシザーズと思わせるフェイントに、そしてなによりプレイヤーの恥だともいえる股にボールを転がされるトンネルを仕掛けられたとき、サラは子どもながらに油断ではなく慢心を打ち砕かれたと感じ取った。世の中には強い人がいる。それがサラは楽しい。

 そして相手を認めているからこそ、バカにされるのがなによりも嫌いだった。

「サラさん……」

 千鶴はサラが放ったボールに込められた言葉にどんな意味があるのかと考える。

 千鶴はずっと、姉である畑千尋を追いかけていた。

 追いかけていく間に、自分もサッカーが好きになっていた。

 テレビで映し出されるサッカーの試合を姉妹で見て、どこのチームが勝つか、一対一のとき、抜き去るか、パスを送って、ボールをゴールに近づけるか、はたまたシュートを打つのか等々を予想したりして楽しんでいた。

 どこのチームが好きだというわけじゃない。世界大会も、プロの試合も、高校のインターハイでも、なんでも――。

 二人とも、サッカーというスポーツが好きなのだ。

 この選手のトリックを真似してみたい。なんども練習したり、動画を何度も見て確認したりと二人で競い合うように遊んでいた。

 千鶴は姉からボールを奪うことはあっても、奪い取ることはできなかった。

 だけど、それでも楽しかった。大好きな姉と一緒にサッカーをしていることがなにより楽しかったのだ。

 千尋が璃庵由学園の初等部サッカークラブでスタメンが決まったとき、千鶴は自分のことのようにうれしかった。自分が憧れている姉が、あの長方形のフィールドの中で勝負するのだ。

 姉が負けるわけがない。姉は絶対みんなのために、1点をもぎ取る――。

 そう思っていた。いや、今でも生きていれば、高校生となり、プロサッカーチームの下部組織に所属して、いつか大きな試合で活躍すると思っていた。

 もちろん、そんな子どものような輝かしい未来予想図は……予想図でしかない。

 それもなにもかもすべて、あの事件が千鶴の淡い夢物語を殺したのだ。

 追いかけても、追いかけても……けっして追いつくことができない目標。

 そのうち、千鶴はサッカーがどうして好きだったのかがわからなくなっていた。

 ただ――嫌いになりきれなかった。

 好きだからこそ――嫌いになんてなりたくなかった。


「ッ!」

 千鶴はサラの放ったボールを右足のインサイドで自分のほうへと蹴り上げる。

「さぁ、勝負ですぅッ!」

 昇降口の前には2メートル弱の階段が設けられている。が、サラはそんなことはおかまいなしだと跳躍し、地面に着地すると千鶴の方へと駆け出す。

「チヅル、ワタシあの勝負は油断して負けました。でも今度は負けませんッ!」

 サラは千鶴が右足で止めているボールを奪い取るようにチャージをかける。

 千鶴はボールを奪われないよう、右足のヒールでボールをうしろへと蹴るが、「左ががら空きです」

 左――つまり自分のうしろへと回り込もうとしているのに気付いた千鶴は、とっさに右足のトーでボールを止めた。「わぁととととと」

 体勢を崩しかけたサラは、両手をコンクリートの上につく。

 このとき、偶然ではあったが、千鶴の両足が開いた。「ここっ!」

 サラは、からだをかがめ、スライディングするようにその股の間に足を伸ばした。

「……ッ!」

 千鶴はとっさにボールを右足のトーで蹴り上げる。

 その瞬間、二人の足がからみあい――――「きゃぁっ!」

 千鶴は背中から倒れそうになった。その反動で頭も打ち付けられそうになる。

 芝生が敷かれたビッチや、やわらかい砂の上なら、よほど固くなければ頭から落ちても軽い脳挫傷で済む。

 しかしコンクリートの上にたたきつけられるとなれば、話は別だ。

 打ち所によっては――命の危険さえある。

「チヅルッ!」

 サラはうつぶせになりながらも、左腕を千鶴の頭の下へと回すように伸ばした。

 その腕の上に、千鶴の頭がつよく打ち付けられた。

「大丈夫ですか?」

「…………ッ」

 千鶴は流れていく雲を見つめていた。今の一瞬で、千鶴はサラに負けたと思ったのだ。

 どんなスポーツであれ、怪我をする恐れのあるプレイは極力しない。

 サッカーにおいては、伸ばした足がボールに届かないで相手を転倒させることはトリッピングという反則になる。もちろんボールに足が届いて、その偶然で足を絡めたとしても危険プレイとみなされてファウルは取られるだろう。

 そもそも足の間からボールを狙って蹴るなどというリスキーなことは普通しない。

 しないからこそ、サラのボールに対する貪欲さに、負ける気なんてさらさらないという心の強さに、千鶴は気持ちで負けたのだ。

 千鶴もまた、姉よりも強い人なんていないという慢心の中でプレイしていた。

 それをサラは叩き壊したのだ。

「ねぇ、サラさん」

「サラです」

 修正をうながすサラに、千鶴は彼女を横目で見た。

「曇って、つかめると思う?」

「雲は水蒸気の塊ですから、つかめませんよ」

 それよりも足が絡まってそれどころじゃないと、サラは苦笑を浮かべる。

「わたしね……四つ上のおねえちゃんがいたの。すごくサッカーが上手くて、いつも遊んでもらっていたけど、いつか勝ちたいって思うようになった」

 千鶴はそれこそ独白した。

「でもおねえちゃんが死んで、お母さんとお父さんの仲が悪くなって――。そのときはおねえちゃんはどうして死んだんだろうって。それがサッカーで遅くなって襲われて殺されたって知ったとき、わたし――サッカーが憎くて、嫌いになろうって思った」

 サラはそれをジッと黙って聞いていた。

「でもね、スポーツニュースが始まると、野球より、フィギュアスケートより、相撲とかテニスなんかより――サッカーの試合結果のほうが気になって、まだ言わないのかな、今日は言わないかなっていつもはらはらしていた。新聞のテレビ欄のうしろにある4コママンガなんかより、サッカーの試合結果が気になっていた。本屋さんに行っても、一番に向かっていたのはサッカー雑誌の本棚だった――」

 千鶴の視界がゆっくりとぼやきだす。それが涙だとわかっていても、千鶴はそれを拭おうとはしなかった。

「それは……チヅルはサッカーが大好きだからです。ワタシもチヅルと同じです。テレビでサッカーのことを言っていたら、宿題なんてやめてテレビの前でダディと一緒に見てます。本屋さんもママを置いてきぼりにするくらい、サッカーコーナーのほうに走ってました」

 サラは絡めていた足をほどき、からだを起こした。

 そのとき、サラは千鶴に手を伸ばした。それを千鶴はつかみ、上半身を起こす。

「ワタシはチヅルしか知りません。チヅルが上手いといっているおねえさんがどんなにすごくても、ワタシはチヅルと比べることはしません。だって上手いってことはその人から技を盗む楽しみがあるからです」

「盗む……?」

「はい。サッカーは自由です。相手のプレーを盗み取って自分のものにする楽しみがあります。――でも、それは相手を尊敬(リスペクト)しているからです。そして真摯に受け止めれば、かならず答えてくれます。だってチヅルはおねえさんに勝ちたいって思って、今も練習をしているんですよね?」

「わ、わたしは――」

「チヅル、この前の授業でワタシを抜きました。その時にワタシはチヅルのプレイが面白いと思いました。そして勝ちたいって思いました。ワタシにサッカーを教えてくれたドイツ人がこういってました。『ワタシたち子どものサッカーは“遊び”であって、それは“楽しく”なくてはいけない』って」

 サラは、それこそ太陽のように明るい笑みで言った。

「楽しくなくてはいけない」

「チヅルはおねえさんとサッカーをしていて楽しくなかったですか?」

「そんなことないっ! だっておねえちゃんいつもすごいフェイントをかけてきたり、遠くにいるわたしが取れるようにボールを蹴ってくれたりしてくれていた。わたしがおねえちゃんからボールをとっても、すごく楽しそうに笑って、すぐにボールを奪い返してきた。わたしも必死になってお姉ちゃんからボールを取られないようにしていた。それがすごく楽しかった」

「ワタシ、ひとりでやるサッカーは面白くないって思ってます。ブラジル人はみんな……ってわけじゃないと思いますけどサッカーが大好きです。でもみんな自分が一番だって思ってます。自分が一番サッカーを楽しんでいるって思ってます」

 サラは千鶴を引っ張るように立ち上がらせる。「千鶴はサッカー楽しくないですか? おねえさんを追い越したいって思わないんですか?」

「追い越すって――、だっておねえちゃんはもう……」

「Oh、どうしてそんなに難しく考えるですか? いいですか、おねえさんはおねえさんで、チヅルはチヅルです。ワタシはチヅルとおねえさんを比べるなんてことはしません。だってワタシがすごいって思っているチヅルがすごいってことは、そのおねえさんもすごいってことです」

 それは結局のところ比べているんじゃないだろうかと、千鶴は小さく笑みをこぼした。


 ――わたしがサッカーをはじめようと思ったのはね、この前見たサッカーの試合で、すごく楽しそうにプレイしている人がいたからなの。その人はどんな状況でも笑ってた。みんな必死なのに、その人だけ、その試合を楽しんでいる……ううん、サッカーを楽しんでいるって。だからわたしはその人みたいな、サッカーを見ている人たちを惹きつけるようなプレイがしてみたい。

 どうしてサッカーをはじめたのか、そんな疑問を姉に問いかけた時、千鶴はそのことをうれしそうに話す姉の影を思い出していた。

「あ、はははは……」

「おぉ、笑いましたね? ってことでもう一回勝負です」

 サラは、ビシッと人差し指を千鶴に向けた。

 千鶴も負けるつもりはなかった。

 もう姉には届かないかもしれない。だけど目の前にちゃんとした目標ができた。

 結局のところ、子どもという生き物は、こと大好きなものにかんしては大人があきれるくらいに負けず嫌いなのである。

「いいけど……でもそろそろ教室に行かないと先生に怒られるよ」

 チヅルは昇降口の上にかけられた大時計を見上げた。8時15分に針が回っていた。

「あぁッ?」

「遅刻なんかしたら、マタロウ先生の小言を聞くことになるよ」

「オーノーッ! マタロウの小言うるさいです。チヅル急ぎましょう。急いで教室に行きましょうッ!」

 サラは千鶴の手を引っ張ろうとしたが、転がっているボールを見つけるや、

「チヅル……ッ!」

 そのボールを千鶴に向かって右足のトーで蹴り上げた。

 千鶴はそのボールを左足のインサイドで蹴り上げ、両手でつかみ取った。

「今度の日曜日、サッカークラブのトライアウトがあります。二人でそれに出て合格しましょうッ!」

「で、でも……」

 困惑する千鶴に、サラは畳み掛けるように「うだうだ考えるより行動したほうがいいです。考えていると子どもが生まれます」

 と言った。

「――もしかして、『案ずるより産むが易し』って言いたいの?」

「そうですッ!」

 サラはそれこそ大きく笑みを浮かべていた。それが千鶴にはまぶしく見えた。

 心からサッカーを楽しんでいるサラと、今の今までサッカーが本当に大好きなのかと自問自答していた自分。「そっか……やってみようかな」

 そんな複雑な気持ちに答えを出せるなら――と、千鶴はテストに関して前向きに検討しようと思った。

「おぉっ! チヅルなら一発で合格できます。そしてワタシは当然合格します」

 自信満面に胸を張るサラに、千鶴はどうしてこんなに自信があるんだろうかと思った。

 ちがう、サラは自分に自信があるから言えるのだ。

「でもわたしおねえちゃんよりへたく……むぎゅ?」

 千鶴の言葉をさえぎるように、サラは千鶴の両頬を引っ張った。「ふぁにするの?」

「またそうやっておねえさんと比べようとするのはチヅルの悪い癖です。チヅルはチヅルにしかできないプレイをするだけです。だってチヅルはすごいですから」

 千鶴は頬をさすりながら、サラのなにげない言葉がうれしいと思っていた。


 千鶴が一歩、足を踏み出す――その瞬間だった。

「…………ッ」

 だれかが自分から離れたような気がしたのだ。ずっと背中に乗っていた重たい何かが落ちたように千鶴のからだは軽くなっていた。

 うしろを振り返ったが誰もいない。

「どうしました? チヅル」

 首をかしげるようにサラが千鶴に声をかける。

「ううん、なんでもない」

 千鶴はサラの方へと向きなおし、校舎の中へと姿を消した。



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