プロローグ
神様というのは、結構残酷な存在なのかもしれない。
赤と白に分かれてのミニゲーム。赤のゼッケンをつけていた私は、向かい合っていた白の8番からボールを奪い取ろうと、せめぎあっていたときのことだ。
相手がボールを右足のアウトサイドで右へと流すと、今度は同じ足のインサイドで左へと流した。いわゆるエラシコというフェイントの動作だ。
その時、一瞬だけ相手の右足にボールひとつ分の隙間ができたと同時に、ミニゲームで同じチームになっているチームメイトが、そのボールが転がる軌道に入れることがわかった瞬間――「っ!」
私はボールを対峙している相手の足の隙間と重なったタイミングで右足を伸ばし、ボールを爪先で蹴り当てる。
――それがいけなかったのだろう。
利き足である右足のふくらはぎに激痛が走り、私は、それこそ背後からタックルされたかのようにピッチに倒れこんだ。
ボールは予想通り、相手が伸ばした右足の隙間を貫け、味方にボールがわたった。
「……――っ!」
誰かの、悲鳴にも似た声が遠くから聞こえてくる。ボールは?
正直、こむらがえりの痛みがきつくて、それどころじゃないけど――。
「ちょ、ちょっと! 大丈夫?」
私と対峙していたBチームの8番が心配そうに声をかけてきた。ごめん、正直応えられない。
「うわぁ、あんたちょっと無理しすぎでしょ?」
「コーチッ! すみません。ちょっとゲームを止めてください」
ひとり、またひとりと、ピッチに入っていたプレイヤーが私のところに集まりだした。
本来、サッカーといいうものは、選手が怪我しようがしまいが、ゲームそのものの時間は着々と進んでいく。
だからこそ思った。――ボールは? っていうか誰か相手チームのゴールにシュートくらいしたの?
「市澤ッ! 大丈夫か?」
仰向けになって倒れながら、うっすらと声がしたほうに視線を向ける。
ちょっと強面だが、見ようによっては優男に見えなくもない、ピンクの無地に白のラインが入ったスタッフジャージを着ている、身長一八〇くらいの大男。
私が所属している女子のプロサッカーチーム『スクレイバーFC』のAチームのヘッドコーチ矢沢紀明が、私の足元で膝を突くと、私の右足のふくらはぎに軽く触れた。
「ぁぁぁぁっぁぁぁぁぁっ!」
声にもならない悲鳴。
「足は伸ばせるか?」
それができれば苦労しない。だいたいふくらはぎのケアほどサッカー選手はみんなしているはずだ。
当然ふくらはぎの怪我――こむらがえりの対処法も知っているし、さっきから痛み以前に足の感覚がなくなりそうになってきていた。「ストレクチャーッ!」
コーチが、テクニカルエリアのほうに向かって叫んだ。ペンチの片隅に置かれている担架を控えの選手が二人かかりで私のほうへと運んできた。
「梨桜……大丈夫?」
チームメイトが私に声をかける。「ごめんみんな」
「こっちは大丈夫。あ、それから梨桜が盗ったボールだけど」
その言葉を待たずとも、私はどうなったのかが遠くから音でわかった。
バシュッ!
という、ボールがゴールネットを突き刺した気持ちのいい音が聞こえていたからだ。
当然、自分のチームが点を奪われたわけじゃない。
「よし……」
その淡々とした声は、まさに仕事人といったところか。
幼馴染が当たり前のようにゴールを決めていたのが見え、「ナイス――裕香」
彼女に向かって親指を立てた。
「……無理しすぎ」
こっちは無理して笑顔を浮かべているというのに、向こうは少々不満げな声で返してきた。
いや、まぁ言いたいことはわかる。
でもねぇ、抜ける先にあんたが見えたら、ボールを渡したくなるでしょ?
今日の裕香、シュート率が断然によかったんだもの。
試合結果は――私と裕香が入っていたAチームの勝ちだった。
というよりは、私が送ったボールを裕香がクリアして、そのまま二人抜き去った後、左サイドから上がっていたチームメイトに、左足で隠すように右足のインサイドでノールックパス。
それが相手の意表をついたからなのか(パスを受けたチームメイトもドンピシャでパスをクリアしたからびっくりしたらしいけど)、シュートするタイミングができた。
パスを受けたチームメイトがシュートを放ったが、GKがそれをクリア。ボールは上空に高く舞い上がる。
それを本来なら相手DFがクリアして、ハーフウェイラインへのセンタリングといった具合なのだけど――、
「なんでそこでDFのうしろで当たり前のように頭で決めてるのよ」
「オフサイドじゃないからいいじゃない」
医務室のベッドで上半身を起こしながら、10インチのタブレットに映されている、先ほどのミニゲームの結果を見ながら、私は呆れていた。
それをしでかした当の本人はまったく悪びれた様子もなく、横で丸イスに座っている。
まぁ彼女の言うとおり、結果としてオフサイドにならないからなぁ。
オフサイドというのは、結局のところ、受け取った選手がオフサイドラインにいたかどうかで決まる。
最初、裕香がボールをパスしたとき、味方はまだオフサイドラインに入っていなかった。そこからシュートを放っても、裕香自身もオフサイドラインに入っていなければ、GKがパンチングでクリアして浮かび上がったボールを、裕香がDFの間をぬってヘディングしてもオフサイドにならない。
「相手があたししか見てないのが悪い」
まぁ、そうなんだけどね。
普通ドリブルで抜く気満々な空気を出されたら、誰もあんたがパスするなんて思わないって。その証拠にパスを受けた子もびっくりしてたじゃない。
「視線くらい送ってあげたら?」
「それをしたら相手もわかるじゃない」
裕香はふぅと肩をすくめる。「それで――」
裕香が視線を私の、天井から吊るされたゆりかごに乗せられた右足に向けた。
「あはははは」
乾いた笑い声が医務室に響き渡った。
自分のことなのに、まるで他人事のように、私は哂った。
そうじゃないと、ちょっと気持ちの整理がつかなかったからだ。
「――肉離れ」
「…………」
サッカーをしている以上、足を酷使するのは致し方ない。ストレッチをしっかりやっていても、やっぱり怪我というものはしてしまうようだ。
「全治――六週間だって……前に怪我してたところも悪化しているから完治してもしばらく様子見だってさ」
「…………」
おーい、裕香? そこで黙られるとちょっと辛いんですけど?
「トレセン――無理っぽい」
「…………一ヵ月後だったものね」
私と裕香がひとつの目標としていたサッカー女子日本代表U-17。
その狭き門に、私と裕香は目標にしてがんばってきた。
プロのサッカー選手だったら、一度は日本代表になりたいと思う。
もちろんチームの優勝も大事だけど。
その日本代表を選ぶトレセンの最初の関門である地区大会を一ヵ月後に迎え、チームメイトたちはみな死に物狂いで練習していた。
だいたいは日本代表を決めるスカウトが試合を見に来るのだけど、場合によっては選考会なんかもある。
何度も試合に出ていた私と裕香でも、試合の結果はままならない。
最近だと五試合出て、アシストが三回あればいいほう。
DFの私はまだしも、FWの裕香もシュート率や得点率も乏しい。
だから日本代表の監督に――もしくはスカウトのおめがねにかなうなんて奇跡が起きるとは思っていない。みんな結局は試合での結果しかみないからだ。
しかも控えにいるだけで交代されることが少なくなってきた私よりも、途中からでもしっかり結果を出している裕香の方はまだ選ばれる可能性があった。
まぁ、結局のところ、私も裕香も声をかけられるなんて事はなかった。
だからこそ、日本代表のトレセンで結果を出すしかなかった。――――
「なにか飲み物持ってこようか?」
「いいよ。それにこれからミーティングでしょ?」
「――無理してない?」
「……なんで?」
私はけげんな顔を浮かべながら、幼馴染に視線を向けた。
「いや、ちょっとね……今の梨桜を見てたらさ、あのときのお兄ちゃんに見えたから」
幼馴染の何気ない一言に、私は我慢していた感情が噴出した。
「あぁあああああああああああぁっ!」
枕を壁に投げつけると同時に、とめどなく涙があふれてきた。
「…………」
裕香は私をジッと見つめるだけで、何も声をかけなかった。
声なんてかけられるはずがない。
裕香も薄々、いま私がどんな気持ちなのかわかっていたからだろう。
だけど、そんな裕香が思っている以上に、どれだけ、どれだけがんばってきたと思ってるの?
それが一瞬にして無駄になったことの辛さは、多分体験したことのある人にしかわからない。
だって、今――私はチームのお荷物だ。
最近だと試合に出られるかどうかすらわからなくなってきている。
チームは中学時代の結果で私を実力があるとふんでスカウトしてくれた。
だけど、その実力が、プロの世界では追いついてくれない。
高校生で編成されている下部組織のチームですら、このざまだ。
それが悔しくて、あせって無理をすればするほど、スタメンどころか、ベンチの椅子さえ遠ざかっていく。
実力がなかったら、チームは私を使ってくれない。
出れなきゃ試合の結果なんて作れるはずがない。
そんな状況で肉離れを起こして全治六週間? ますます自分がチームのお荷物だって言っているのと同じじゃない。
だから、今だからわかる。
私にサッカーの楽しさを教えてくれた人が、その人にサッカーが面白いものだって教えてくれた彼女が、どうしてあれだけ大好きだったサッカーが嫌いになってしまったのか。
今の、この状況下にある私だから、わかる……。
――神様……、もしそこにいるならぶん殴っていい?
どうして、私からサッカーを奪おうとするの?




