後編
カオル、だった。
昼間の穏やかな印象は消え、姿は月明かりに照らされ、艶めかしく感じた。
「どうかしたかい?」
香代はびくっと体を震わせ、青ざめていた頬が少し赤みを戻した。
震える口で訴える。
「カオルさん!と、トモさんが蜘蛛、そう、黒蜘蛛だったんです! 夏実が、黒蜘蛛に、」
助けなきゃ。
声が出ない。耳元でくすくすと笑う声が聞こえる。
「へぇ、もう食べられちゃったかな?」
カオルの細い指が香代の髪を梳きながら笑う。
甘い香りが一段と強くなる。
どうして、笑うの。
「た、すけ」
途端にカオルが恐くなった。
カオルの腕から逃れようと必死にもがくが、カオルの細腕は香代を離さない。
「助けなんてこない。君は俺に食べられるんだから」
耳元で甘く囁かれる。
「君が悪いんだよ、せっかく助けてあげようとしたのに」
鼻孔につんと甘い香りが突き刺さる。
こんなに甘いのに。
カオルが香代の首筋に凭れながら言う。
「大丈夫、俺はトモみたいにバラバラにして食べないから」
首筋に突き刺すような痛みが走る。
何かが体から抜ける。目がぼやけてくる。
そうだ、カオルが言ってた。
白い菖蒲は、生気を吸うと――。
はっと頭が覚醒して、力任せにカオルを突き飛ばす。
首筋に手を添える、血がにじみ出ていた。
そうだ、カオルが味方のはずがない。カオルはトモの兄なんだから。
カオルは、人間じゃないんだから。
香代は震える声で言う。
「こないで!」
カオルは笑った。
廊下の奥、さっきまでいた場所から地獄のような悲鳴が上がった。
夏実の声だ。
「食べられちゃったね」
カオルがさして気にしてないように言う。
香代が見ていたカオルはいつも笑っていた。
こんなに無表情なカオルを香代は見たことがなかった。会ってから数時間しか経っていないが、カオルがこんなに残酷な顔をするとは思いもしなかったのだ。
香代を殺そうとしたときだって、こんなに残酷な顔はしていなかった。
カサカサという音が後ろから聞こえてきた。
それと一緒にズルズルと引きずる音がする。
ピチャと何かが背後で床に垂れる。
生臭い、カオルの甘い香りと同じくらい強い臭い。
後ろを振り向く。
夏実の顔があった。生気が感じられなくて、瞳孔が開いている。
「な、つみ…」
ゴリっという音がした、黒蜘蛛に加えられていた胴体が噛み千切られる。音を立て、血しぶきを撒き散らしながら夏実だったモノが無惨に床に落ちる。
返り血を全身に浴びる。
じゅるじゅると音をたてながら、黒蜘蛛は夏実の下半身を飲み込む。
「う、ぇ」
吐きそうになる。喉に苦い味が広がった。咄嗟に両手を口に当てる。後退る。血だまりを踏んだ、気にしてられなかった。
背中がカオルの胸に当たった。
そうだ、後ろにはカオルがいたのだと思い出す。
カオルが香代の肩を抱いた。
初めて思った、カオルの手はこんなに冷たかった?
「トモ、そんなの見せたらかわいそうじゃないか」
ねぇ?とカオルが香代を見る。
体が強張る。
上半身のみの夏実が瞳孔の開いた目でこちらを見ていた。
夏実が睨んでいた。
「穢らしいね」
カオルが怪訝そうに言う。
もう一度、夏実が潰れる音がした。
「やっぱり女は旨い」
口から血を滴らせながら、黒蜘蛛が言う。
香代にとって、それはもうトモじゃなかった、黒蜘蛛でしかなかった。
蜘蛛では表情がわからないが、たぶん笑っているのだろう。と思った。だって、こんなにも嬉しそうに言うんだから。
いくつもある目は赤く光り、香代を見る。
気持ち悪くなって、そして恐怖で腰が抜けそうになった。
よろめきながら香代はカオルを突き飛ばし駆け出す。
「兄さん、逃げちゃったよ」
後ろで、トモの笑い声が聞こえた。
目の前に縁側が見えた。庭にでられる、庭といっても塀で囲われているわけではない。
逃げられると思った。
裸足のまま、縁側を飛び降り外に駆け出す。
浴衣ははだけ、太腿が露わになっている。髪は乱れ、顔に当たった。それでも香代は走りつづけた。
気づけば、まわりは白い菖蒲だらけだった。
「や…」
逃げられない、そう思った。
菖蒲が逃がさないと言った気がした。
両手で顔を覆う。
「いやぁぁああ!」
月明かりが照らす菖蒲の中、香代の声だけが響いた―――。
****
次に気がついたとき、香代は暖かい布団に寝かされていた。
まだ覚醒しきらない頭をかかえながら起き上がる。
カオルの家に似た間取りにぎょっとし、叫ぶ。
廊下から人の足音がして襖が開けはなたれた。
「どうかしたか?!」
老婆が節操を変え香代の肩をつかんで揺らした。
老婆の暖かい手の感触に香代は次第に落ち着きを取り戻した。
「ここは…?」
声が掠れた。
「うちん家だよ。あんたは菖蒲畑に倒れてたんだ、その、」
血まみれで、老婆の声がか細くなり言う。
その言葉に香代ははっと目を見開き、声を荒げる。
「なつみ、夏実は?!」
「あんたひとりだよ、いたのは」
老婆が苦しそうに言う。
「どうしてあんなとこにいたんだい?あそこはいい噂がないから村のものは近づかないんだよ。それに血まみれで。あんたも怪我をしているようだし」
「わた、私は…」
消え入りそうな声で、老婆にこれまでのことを話す。
途中から涙が止まらなくなり嗚咽混じりで話した。
「あんたが、あたしに取材させてほしいって言った子だったとはね」
老婆が香代の背中を撫でながら言う。
とても落ち着く行為だった。
老婆は香代たちが最初にインタビューするために訪れようとした新田ハル本人だった。
「あんたたちが来なくて探したんだよ、宿には連絡もなく戻っていなかった」
だから一人でも見つかって良かったとハルは言った。
カオルは連絡したと言ったのに。
いや、するわけがない。
カオルやトモは生きている人間ではないのだから。
「坂下さんのことは残念だったね、まさか今になってこんなことが起きるとは思っていなかった」
ハルは暗い顔で語った。
黒蜘蛛は廃虚となった家に住み着く化け物だった。
美しい男の姿で家に近づいた女の前に現れ、何らかの理由をつけて自分の姿に魅せられた女を家に招き入れ、女を食す。
ハルは私たちに、伝承として語るはずだった話を語った。
それは、虫食いで読めなかった箇所。
ならば、カオルは?
「その、この村には黒蜘蛛以外で伝承はありませんか?たとえば、菖蒲が出てくる…」
そう言うと、ハルは泣きそうな顔をした。
「よく、知ってるね。あるよ、もう何十年前に本当にあった話だよ」
胸が掴まれた感覚がした。
ぎゅっと胸元を掴む。
「昔ね、あたしがまだ小さいころ。戦争も始まっていないころの話だよ…」
ハルが話した菖蒲の話は、カオルから聞いた話によく似ていた。
やっぱり、カオルは自分のことを話していたのだ。
「名前は、カオルじゃないですか?」
口が勝手に聞いていた。
ハルは目を少しばかり見開き、歯切れが悪そうに言う。
「さあね、昔のことだから…あまりこの話はこの村ではしないんだよ」
思い出すから。
その昔、ある男が愛した美しい白い菖蒲の花に魅せられた若い女が窶れ死んでいった。
その男の恋人と同じくらいの年の女達が死んでいった。
それは本当に、起こった不気味で不思議なことなのだから。
「家なら残っているよ、少し下ったあたりに」
「そうですか」
たぶん、トモはカオルが人間だったときに住んでいた家に住み着いたのだろう。
でも、家には物の怪となったカオルがまだいた。
香代や夏実のほかにも人知れず食された女達がいるかもしれない。
香代はそっと、手を首筋に添えた。
****
坂下夏実と田中香代は、新田ハルの自宅に行く途中で強姦に襲われ坂下夏実は殺害された。
田中香代は奇跡的に助かり、新田ハルにより保護された。
夏実の死体は見つからなかった。
カオルが住んでいた家にも捜索が入ったが、なにも痕跡はなかった。
あの家は、同じ場所で異なる次元に建っていたのかもしれないと香代は思う。
それで事件は解決した。
地元に戻った香代は大学院を辞め、自営業をする親戚の店で働いていた。
香代が体験した出来事を知るのは新田ハルしかいない。
警察にも、親にも、世話になった教授にも言っていない。
今でも香代は花の匂いを嗅ぐと、カオルを思い出す。
それは恐怖の感情でもあるのだが、それ以上に胸が締め付けられる感覚に襲われるのだ。
桜が咲く、大橋を歩いていた。
川に白っぽい花びらが落ちて流れる。綺麗だと思った。
川岸に白い花が咲いている。
「あんなところに咲いていたかしら」
平常な毎日に戻ってから毎日歩いている道だから、少しの変化でも分かってしまう自分がいる。
口元が緩んだ。
遠くから見ているというのに、その白い花の香りが漂ってくるようだ。
「これ、どこかで―――」
香りが香代を包む。
香代の背中のほうから強く、香りがした。
「みつけた」
細い指が、香代の光を遮った。
そうだ、この香りはカオルの。
指の隙間から見える川岸の花を見る。
あの花は、白い、菖蒲。
カオルの、花だ。
あの時はあんなにも逃げたのに、もう香代は逃げることはしなかった。
香代は、微笑む。
香りに抱かれながら嬉しそうに微笑んだ。
「 」
ある日のある地方の新聞の片隅に、ある女が失踪したと載せられていた。
それもいずれ忘れられるだろう。
田中香代をみた人間はもういない。
意味不明なままで
考えるのと書くと違うんだなぁと思いますね。
これで完結です。
読んでくださりありがとうございました。
誤字脱字がありましたら教えて下さい。




