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第328話 春を招く精霊

 ふうと吐き出した息が白く染まる。それは風に流されることなく、しばらくその場に留まってから消えていった。


「うん、風も穏やかだ。さっきまでの冷気もだいぶやわらいだな」


 小屋から出るころには、幸いなことに風が止んでいた。


 朝の冷え込みがあったから相当寒いだろうと構えていたけれど、しかしいざ外に出てみたら大したものではなかった。防寒具をきちんと着ていれば大丈夫だと思えるくらいに。


「ん、少しだけ明るいのか。この寒暖差は気になるし、あの分厚い氷の向こうからどうやって太陽光が差し込んでいるのだろう」


 カツカツとつま先と踵につけた金具の感触を確かめつつ、そう僕はつぶやく。

 昨日はかなり滑ってしまい、何度か転んでしまった。だから昨日の反省を活かして、靴につけるスパイクをウリドラに作ってもらったのだ。


「一流の剣士であれば滑って転ぶなどあり得ないことじゃぞ」

「うん、まだまだ修行が足りないみたいだ。というよりもだいぶ長いこと僕は剣を振っていないな」


 背後から追いついてきたウリドラにそう答える。

 やはり「情けない雄じゃのう」と呆れた口調で言われたけれど、僕はあまり気にしていない。この世界ではどうしても勝てない敵もいるし、無理して挑むよりも安全に冒険を楽しみたいからね。


「ま、待って待って、二人とも置いていかないで!」

「ああ、ごめんねマリー。すぐに行くからじっとしていて」


 そう言い、小屋から出たばかりの少女に駆け寄ってゆく。

 へっぴり腰な彼女は上等なコートを身にまとっており、頭にはもこもこの帽子が乗っている。んー、なんて言えばいいのかな。ロシアの人が被っていそうな帽子だけど、とても似合っていて愛らしい。


 僕の手をそっと取り、彼女は笑いかけてくる。これで安心したらしく、背後に向けてこう命じた。


「いらっしゃい、彷徨い犬」


 虚空からぬうっと現れたのは彼女の毛皮のように綺麗な白色で、どどっという重そうな足音を辺りに響かせた。


「さっそく実験しましょう。この子は昨日、ザリーシュの匂いを嗅いでいるわ。命じればどこまでも追いかけるでしょうし、見つけるのも時間の問題だと思う」


 そう言い、少女は黒曜石と似たものをポケットから取り出す。


「実験って……ああ、魔石のことか。確か魔力を蓄えているんだったね」

「ええ、その通りよ。ミュイちゃん、少しだけ手伝ってもらえないかしら」

 

 そうマリーが問いかけると、小屋の奥から「はーい」という声が返ってきた。


 タタッと駆けてきたのは猫族のミュイであり、獣人らしく毛でもこもことしている。身体つきは小さいものの、普通の猫よりは少しだけ大きいかな。


 つい先ほどまでの彼は、すやすやと眠りについてしまい、まるで本物の猫のようだった。しかし、ぐっすり眠ったことと美味しい食事を摂ったことで、だいぶ元気になったらしい。


 機敏な動きで駆けつけるや、彼はペコリと頭を下げてくる。こういう礼儀正しい姿勢は、普通の猫と大きく異なるだろうね。


「おはようございマス、カズヒホ様、マリー様。昨夜はお二人のお家に招待していただいてありがとうございマシタ」

「いやいや、とんでもない。楽しんでもらえたなら良かったけど、断りもなく連れて行ってしまってごめんね」


 昨夜は彼が寝ぼけてしまい、うっかりと僕らの寝床に潜り込んでしまった。たぶん本能的に人肌の温かさを求めたんだろうね。

 とはいえ事前に断っていたわけじゃないし、説明もしていない。だから僕のほうに非があると思ったんだ。


 とんでもありマセンと言い、彼はまた頭を下げてくる。

 やはり礼儀正しいし、その瞳にはどこか高い知性が感じられる。


 うっかりと招待する形になってしまったが、好意的に受け取られて良かったなと考えていたときに、なぜか彼の目の光が失せてしまう。


「ただ、あの匂いがまだ取れていない気がして……」


 あらら、目の光がすっかり失せてちゃって。

 スンスンとミュイの嗅ぐ音を聞きながら「そういえば」と思い出すのはシャンプーだ。あのときに猫用のものではなくて、僕らと同じものを使ってしまった。つまりは彼にとって匂いが強すぎたのかもしれない。

 

「うーん、次に招待するときはちゃんと用意しておかないとなぁ」

「あ、いえ、郷に入れば郷に従うものデス。今度こそきちんと耐えてみせマス。それでマリー様、なぜ呼んだのデスか?」


 おっと、そうだった。彼に魔石を見てもらうのだった。

 問いかけられたマリーは、彼に魔石を差し出す。そして、彼のふわふわな毛を撫でながら話しかけた。


「これを精製して、魔力が発せられるようにしてくれるかしら」

「ハイ、それくらいでしたらすぐに」


 そういえば前に、精製がどうのと聞いた気がするな。とはいえ僕は魔術に詳しくないので、あまりきちんと理解していなかった。


「では、楽しいお勉強よ。私が調べたところ、魔石には大きくふたつの違いがあるの。これのように魔力が内包されている欠片のようなものと、より大きくて力が循環しているものね」


 今朝の話の続きだろう。彼女はおほんとひとつ咳払いすると、薄紫色の瞳をこちらに向けてきた。


「ミュイちゃんが精製を施すことで、いわば乾電池のような状態になるわ。魔力と呼ばれているものを引き出すことができて、私のように魔術を扱うような人をサポートしてくれる」


 ふむふむ、分かりやすい。

 猫族が毛むくじゃらの手で擦るたびに黒い塵が落ちてゆき、透明にきらめく宝石のようなものに変貌してゆく。これが精製というものなのだろう。


「できました、マリー様」

「ありがとうミュイちゃん。あとはこれを彷徨い犬にあげると、この子は私から離れても消えることなく遠くまで駆けることができるはず」


 ミュイから受け取った魔石を差し出すと、彷徨い犬は受け取……らない。嫌そうに目を横に逸らして、なぜか知らんぷりする。


 幾たびか少女が「あーんなさい」と命じることで、ようやく嫌そうに口を開けるや魔石をゴクッとひと口で呑み込んだ。眉間に皺が浮いているし、もしかして苦いのかな。


「さっきは欠片と言ったけれど、純粋なエネルギーのようなものだから、こちらのほうが実は活用しやすいわ。剣に着けることで斬撃のような力を生むことができるし、その気になればお風呂を炊くことだってできる。使い手が魔術に詳しくなくてもよ」


 なるほど、そう聞くと凄いな。

 電気やガスのように扱えるし、単純な攻撃としても使えるというその汎用性には唸らされる。そういえばオアシスの地が魔軍に包囲されたときも、地雷のように設置していたことがあったっけ。


 ちなみに欠片ではなくて、大きくて力が循環しているほうの魔石については、前に説明してもらったことがある。大空を飛ぶことのできるルンのように、用途が最初から決まっているのだ。


 少女の「行ってらっしゃい」という声を受けて、彷徨い犬は「ボフッ」と鳴いてから駆けてゆく。その動きは俊敏であり、足場の悪さを気にもせず、あっという間に視界から消えてしまった。


「……あとは成果を待つばかりね。彼のことだからそう簡単にやられはしないでしょうけど、放っておいたらイブに怒られてしまうわ」


 少女が彼と言ったのはザリーシュのことだろう。

 僕が知っている剣士のなかでも、かなり上位の実力者だ。彼女の言う通り大丈夫だと思うけど、なぜかそこそこの頻度で大きなケガを負ってしまう。もしかして運が悪いのだろうか。


「さっきの魔石だけど、もしかして僕にも扱えるの?」

「ん? ええ、もちろん。ただし、あらかじめどんな魔法か定めておかないといけないわ。試したいことでもあれば、このマリー先生が術式の構築まで手伝っても構わないのよ」


 ほんの少しだけ驚きの表情を見せたあと、少女はそう言ってにんまりと微笑む。

 魔術は彼女の領域であるのだし、手取り足取り教えられることが嬉しかったのかもしれない。


「なるほど、事前に決めておかないといけないんだね」

「ええ、一度決めた後は変更もできない。だから魔石は汎用性に欠けると言われがちだけど、あらかじめ用途を定めておけば、これまでにできなかったことができるようになるわ」


 なるほど、興味深い。

 というのも僕の技能スキルも似たことが言えるんだ。他の剣士と違って、あらかじめ決めていた行動を取るというちょっと変わった技能スキルなんだよね。最近はどうも活躍する機会が少ないけれど。


 そう口にすると、少女は顎に指を当てて「んー」と唸る。


「ふうん、あらかじめ決めていた行動、か。魔石でなにかができるような気がするわね」

「え? さすがに僕の技能スキルと連携なんてできないよね?」


 そう口にしたのだが、ぽつりと「連携」とつぶやき、また「んー」と唸り続ける。まばたきする瞳には知性を思わせる輝きで満ちつつあり、半妖精エルフ族としての神秘的な空気にしばし包まれた。


「できる、かもしれない。試してみましょう」

「え、いま? だってザリーシュが……」

「もちろんいまよ。行方不明になってしまった彼のことを思い、無事だと信じて、彷徨い犬も懸命に駆けてくれているわ。だからきっと大丈夫よ」


 そわそわと落ち着きのないマリーの様子を見るに、早いとこ実験したくてたまらないんだろうなぁ。ごめんね、ザリーシュ。君のことはずっと忘れないからね。




 かつこつと靴音を響かせる床は、百メートルほどの深さがあるのだろうか。目をこらすとかつての遺跡群がわずかに見える。


 いまは誰の姿もなく、厚い氷に閉ざされているけれど、ずっと昔には人々の往来があったはずだ。


 ふうと吐き出す息は白く染まるけれど、それよりも気になるのは、僕の手にした剣の周りで漂っている魔石だ。

 ミュイの手によって精製された魔石は指先ほどの欠片がふたつあり、わずかな燐光をまとい、漂いつつも剣から離れることはない。とても綺麗だなと思い、僕は見惚れた。


「さて、準備はいいかしら」


 その声に振り返るとコート姿のマリーが立っており、すぐ隣にはウリドラとミュイがしゃがんでいた。

 寒さが大の苦手だったはずのエルフ族は、そんなことをすっかり忘れてしまったかのように楽しそうな表情である。


 そして頷き返す僕はというと、少しだけ胸がどきどきしていた。


 魔法を使うなんて生まれて初めてのことなんだ。子供のころからずっと憧れていたし、魔術の入門書もすみずみまで読み込んだ。しかし結局は僕に才能がないことだけが分かってしまい、ひどく落ち込んでしまった。


「漂っているふたつの魔石は、それぞれ特性が異なるの。ええと、試しに転移してもらえるかしら。残像を残しながらだときっと分かりやすいわ」


 了解と口にしつつ、まずは数歩ぶんほど飛ぶ。


 僕の技能スキルである【多重定義の過負荷(オーバーロード)】は、瞬間転移を含めた攻撃行動をあらかじめセットすることができる。

 また、【夢幻の如し(ファントム)】は僕自身の幻影を残すけど、触るだけで霞のように消えてしまうものだ。


 すぐ隣に僕自身がいるというのはおかしな感じがするけれど、問題は先ほどの魔石だ。少女が口にした「特性」とは、どのようなものだろうか。


「あ、魔石が幻影のほうに残ってる」

「ふふん、すごいでしょう。幻影が消えるまでのあいだは追従するの。それがひとつ目の特性よ」


 うーん、やっぱり魔術を扱う人ってすごいんだな。

 溢れるような知性、常識に捕らわれない発想、そして信じがたいほどの熱意が感じられて、ちょっとした変態のような気さえする。僕が魔法を扱えなかったのは、その差があったせいかもしれないな。


「もうひとつの特性は……」


 そう少女が言いかけたときに、ずんッという音が響く。

 マリーの悲鳴に気を取られたけれど、僕は見逃さなかったよ。それまで退屈そうにしていたウリドラが、すいっと指先を動かしたことを。


 ず、ずず、ズズズンッと連続的に響くのは頭上からの衝撃音であり、なにかが潜んでいるのか怪鳥のような叫び声が奥から聞こえてくる。


 最初、氷の塊が落ちてきたのかと思ったが、それは違った。

 ずむんッという音と共に着氷したそれは軟体であり、ゆっくりと時間をかけて手足と胴体、それから丸い頭に変わってゆく。


 僕が気配をまったく感じなかったなんて、隠ぺい術に優れている魔物なのだろうか。いや、そんなことよりも……。


「ふむ、予期せぬ敵との遭遇(エンカウント)じゃな」

「ウリドラ、もしかしてわざとあれを呼び寄せた?」

「阿呆、わしが嫌がらせなどするわけがない。じゃが、技とは実戦で学ぶものじゃ。剣士であるならば尚のこと、突然の戦いでも活かせぬのであれば、それは決して役立たぬと知るがよい」


 うーん、どうしてわざわざ物事を荒立てるのかなぁ。退屈で仕方ないから強い魔物を呼んで、僕を笑いものにしたいという魂胆だろうに。


 とはいえのんびりとはしていられない。

 半透明で青白いカエルという見た目だろうか。がぽっと開いたのはどうやら口らしく、こちらを見るなり手足をバタつかせて駆けてくる。


 あのタイプはスライムの亜種かな。骨も外皮もないくせに刃は通りづらく、致命傷を与えるまでに時間がかかるため多くの者たちが戦うことを嫌がる。僕だって何度か溶かされているからね。


「マリー、ちょうどいい実験材料と考えておこう」

「そうね。さっき言った通り、魔石のひとつは転移してもその場に残った幻を追う。もうひとつの特性は……幻影の剣を振ってみたらすぐに分かるわ」


 ドドドッと迫りくるそれは見上げるほど大きくて、お相撲さんよりもずっと体積があるだろう。3本指の両手で掴もうとしてくるあたり、なんだか土俵ぎわに立たされた気分だ。


 慌てず騒がず、僕は剣を振るう。

 ただしこの身体ではなくて、幻影のほうを。


――ズキャッ!


 横合いから斬りかかった幻影が、なんと斬撃の音を立てた。

 スライムの亜種にとっては、わずかに進路を逸らされたくらいのダメージしか与えられなかったらしく、ずざざと横滑りしながら僕の隣を通り過ぎてゆく。


「なるほど。斬撃という特性があるのか」

「ええ、その通りよ。幻影が剣を振ると、斬撃エネルギーを生むようにしておいたわ。炎や氷みたいなものを生み出すこともできるけど、それだと並の魔術師と大して変わらないのよね。だったらあなたの個性を伸ばしたほうがずっと面白くなると思うの」


 ああ、と僕は天を仰ぎながら呻く。

 マリーって天才なんじゃないの? 正直なところ、僕の剣に伸びしろがあまりないだろうと思っていたんだ。それなのに、次から次へと新しいイメージが湧き出てくる。


「そうか、たとえばこういうことも……」


 ふっと少女の前から姿を消す。

 秒もかけずにスライム亜種の側面に転移するや、幾つかの幻影を引き連れて斬りかかる。


――ズガガガガッ!


 ただのひと振りに過ぎないというのに、その動きをトレースするかのように幻影たちの連撃が魔物に当たる。

 んーっ、これは最高に気持ちがいいぞ。連続ヒットというかコンボというか、頭部が半ばまでひしゃげた後に、ビタンとそいつを地面に叩きつけるのは奇妙なまでの爽快感があった。


「きゃーっ、気持ちいいっ! 薫子さんと対戦ゲームしたときに、あの技はきっと再現できると思ったのよね」


 マリーの言葉と拍手に、ずるっとずっこけかけた。

 えぇ、ゲームが元ネタだったの? そう唖然としてしまうけれど、異世界の知識を活かすというのも他の魔術師には決して真似できないことかと思い直す。アニメといいゲームといい、少女の創造性をどんどん育んでいるなぁ。


 ひゅんと音を立てて飛んできたのは魔石だった。こうして幻影がすべて消えると元の位置まで戻ってくるらしい。


「これで汎用性に欠けると言われているの? 可能性の塊じゃない?」

「言ったでしょう。これまでにできなかったことができるようになるって」


 ようやく魔石の価値を伝えることができたおかげか、少女はにんまりと笑いかけてくる。

 寒いせいで普段よりも肌が白いけれど、頬だけはちょっぴり赤い。鮮やかな薄紫色の瞳が目を引くし、エルフ族は氷国でも映えるのだなと思った。


 とはいえ魔物の頑丈さは本物だ。

 氷に半ばまでめり込んでいたそいつは「おほっ」と笑い、死角から手を伸ばしつつ表層部分にボウッと光を灯らせる。紋様のように浮き出たものを、エルフ族の少女は見逃さなかった。


「障壁! 気をつけて、あいつも魔術を使えるわ!」


 少女の声を聞き、僕は「障壁って苦手なんだよな」と思う。

 あまりにも硬く、そして僕らのような剣士にとっては物理的に破壊するしかない。ただ頑丈なだけなら構わないのだが、次から次へと障壁を展開されたらもう手詰まりという代物なのだ。


「だけど、今の僕らならどうかなぁ」


 体表に紫電をジジと走らせる様子を見るに、あの魔物は多大な魔力が内包されているのだろう。余力たっぷりであり、これまでは逃げの一手しか選べなかったが、思いきって正面から斬りかかることにした。


――がぎぎっ……ズガガッ!


 二発目まで弾かれて、三発目でヒビが入り、最後の二発をそのまま頭頂部に吸い込ませたぞ。ビタンと再び地面に叩きつけさせるのと、巨大な手から逃れるべく転移するのはまったくの同時だった。


「うーん、かなりいいね。ただ、回数制限がどうしても気になるな。これは何回くらい使えるものなの?」

「そうね、十回くらい……と言いたいところだけど、ふふん、私の力をそう侮ってもらっては困るわ。ウリドラのおかげで魔力に困ることはないし、チャージすることだって簡単なことなのよ」


 そう彼女が口にした途端、ズズと魔石にエネルギーが再び満ちるのを感じた。

 うーん、凄い。思わず「でもお高いのでしょう?」と口にしたくなる。いやいや、もちろんそんなことは言わないけれど、彼女のちょっとしたドヤ顔を見るとなぜか頭のなかで深夜通販番組のノリが始まってしまうんだ。


 ノックダウンされたボクサーが立ち上がったときのように、魔物はぶるんぶるんと頭を左右に振る。目はないみたいだけれど僕らをじっと見つめる気配があり、しばしの間を置き、それからダッと脱兎のごとく逃げ出した。


「あ、逃げた」

「ふむ、ずいぶんと聡い魔物じゃな。わしらも離れるとしよう。ここは危ない」


 え? と僕がつぶやいたときにはもうウリドラに首根っこをムンズと掴まれており、真っ黒い空間のなかにどぶんっと沈められる。


 魔導竜だけが自在に入ることのできる闇世界は真っ暗で、右も左も見えやしない。吐き出した息はごぼりと音を立てるが、それさえも僕らの視界には入らなかった。


「ふ、ふ、実に独創的で面白い術であったな。わしも初めて見るものじゃったぞ」


 しかしなぜか黒髪美女の言葉だけは、はっきりとこの耳に届く。思えば一度たりともこの闇を恐ろしいと思ったことはなかった。


 クスクスとくすぐったそうに笑う少女の声が響き、そして抱きついてくる温もりに、つい僕の口元まで緩んでしまうのだった。



        §



 ハッハッハッと、真っ白い息を残しながら彷徨い犬は駆けてゆく。


 春の芽吹きを誘うというこの精霊だが、行けども行けども氷に閉ざされた景色であり、この土地が春という季節を迎えることはないだろうと誰もが思うに違いない。


 真っすぐに続いた犬の足跡は、しかし右へ左へと彷徨いだす。

 遥か先に見えるのは氷の神殿であり、ついに立ち止まった彷徨い犬はじっとその方角を見つめる。


 人の目には決して見えぬものが精霊には見えているのだろうか。

 フッフッと白い息を吐き続けて、やがてフイと逆方向に目をやる。するとどこからともなく「おっ」という驚きの声が聞こえてきた。


「見つかるはずはなかったのに、お前は少しばかり変わった精霊だね。思えばあの少年とエルフ族もずいぶんと変わっていたな」


 そう言い、ゆっくりと近づいた者は彷徨い犬の頭をひとつ撫でる。見知った相手なのか精霊は戸惑うことなく、その目を閉じて気持ち良さそうにしていた。


 三角帽子が魔女のトレードマークとなったのは、いつからだろうか。

 人々が恐れる闇色にあえて扮しているのは、あらゆる宗派に従わず、そして決して私に近づかないようにというメッセージが込められているという説もある。


 しかし彼女はほうきに乗らないし、従えているのは黒猫ではなく白猫だ。シュシュと呼ばれた女性であり、彷徨い犬の隣に並び立つとヘーゼル色の瞳で神殿を眺めた。


「春を招くという精霊と共に、氷の王国はついに目覚めるのか。どこか詩的だし、私はそう嫌いじゃないな」


 ぼふっというくぐもった吠え声に、魔女はにんまりと笑う。

 そうして一人と二匹が見守るなか、厚く閉ざされていたはずの氷は一斉に砕け始める。白猫の「ヴェイロン先生に怒られても知りませんからね」というトゲのある声と共に。


アニメ版の第4話は、1月31日(金)25:53~放映です!


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今週末は冷え込むそうですので、暖かくしてお過ごしくださいませ。

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