第327話 氷国の姫
ボルゾイの名を「メル・ボルゾイ・セントヴェンテ」に変更しました。
周囲に漂う燐光が、りんりんと鈴のような音を立てている。
凍りついた景色のなかで漂うそれは、笑いかけてくる彼女の瞳と同じ金色の光だった。
ふむ、寒さを感じないで済むのはありがたいが、肝心の通信までまったく機能しない。呪いのように厄介な代物だと考えておいたほうが良さそうだ。
ザリーシュは胸中でそう思い、すぐ隣にいる悪魔を見つめた。
「ここはいったいどこなんだ?」
「氷の王国、セントヴェンテ」
女は端的にそう答える。
ゆるゆるとした下降は終わり、女の素足がぺたりと氷に触れる。やや遅れてザリーシュも地面を踏んだ。
靴が伝えてくる感触は硬く、また視界に映るものはなにもかもが凍りついているように見える。やはり寒さはまったく感じないものの、口から漏れる息だけは真っ白に染まるのが不思議だった。
「セントヴェンテか。聞いたことがある。遥か昔、北の地に存在していた国の名だ。強国から呑み込まれようとしたときに、ぷつりと歴史から途絶えたと聞く」
幼少のころに学んだ記憶をザリーシュは紐解く。
王家に生まれた身として、嫌々ながら学んだことだ。生涯役立つことはあるまいと考えていたのに、まさかこの地で活かされるとは思わなかった。
「アインボルス山岳地帯は異常なまでに厳しい冬の地と化して、他国はおろか旅人でさえも足を踏み入れることができなくなった。だが、こうして無効化されているということは……そうか、このおかしな気候は、強国に呑み込まれまいと自ら生み出していたのか」
攻め入ろうとする兵士たちは氷像と化して、民も、国も、すべてが凍りついた。故にアインボルス山岳地帯にあるセントヴェンテは歴史から消え去った……が、それは裏を返すと国を守るために、あえてそうしたという可能性が高まる。
ひとりごとのようにそう呟くと、悪魔は正解とも不正解とも言うことなくにんまりと笑う。そして、クイと繋がったままの手を引く。
少しだけ慌てて「おい」とザリーシュが言ったのは、先ほどからずっと嫌な予感が胸を占めているからだ。
あまり言いたくないが、俺はかなり運が悪い。
勇者候補として褒めたたえられたアリライ国でも、結局は罪人として裁かれた。
最初はそうだと思っていなかったが、第二階層で穏やかな日々を過ごすうちに、すべては欲に溺れやすい己の性格によるものだと悟ってしまった。
だから美女から手を引かれて、その先に氷の彫刻でできた幻想的な神殿があってもまるで喜べないし、どちらかというと嫌な予感しかしない。
その予感を裏づけるように、どこからかザリーシュは声をかけられた。
「待て、貴様。どこから入り込んだ」
氷の彫像としか思えなかったものが、ビシリとひび割れの音を立てて動きだす。槍を手にする細身の男は、頭頂部から長い黒髪が垂れている。氷のように白い肌の男は、殺気を隠すことなくそう問いかけてきた。
身の丈は3メートルを超えている。かなりの長身であり、抜き身の刃を思わせるほどに引き締まっている。かなりのやり手だとザリーシュは見抜いた。
「……ザリーシュという。勘違いしないで欲しいが敵対するつもりはない。この女に無理やり連れてこられただけだ」
「なにを言っている。この場には貴様しかおらぬようだが、どこかに隠れているとでも言うのか?」
いや、目の前にいるじゃないか。
そう思い、唖然としながら目を向けると、悪魔はちょっとした悪戯を楽しむように笑いかけてきた。
濡れたような赤い唇に、つい目を吸い寄せられてしまう女だ。しかしなぜ俺以外の奴には見えないのだ。
――わしには見えぬぞ。悪魔は定めた世界のなかでしか決して存在できぬのだ。
ふと思い出したのはウリドラの言葉だった。
世界のすべてを知っていそうな彼女でさえも見えないらしい。目の前で笑いかけてくる女性は、ザリーシュにとって信じがたい存在として見えた。
「ふん、頭のおかしい奴だ。眠り姫に近づく者は、この槍で串刺しにしてくれる!」
そう宣言した瞬間に、彼の身体はブレる。
腰溜めにしていた膂力を、縦、そして横に同時旋回する体術はなかなか見ない。ヤバそうな相手であり、殺気で肌がピリつく……が、まだぬるい。あいにくと槍の扱いは隣にいる彼女のほうがずっと上だ。
ヅピッ!という音がして、半ばまで消えていた槍の穂先が虚空に現れる。縦、そして横への連続的な斬撃であったが、手応えは皆無だったろう。すべてザリーシュにかわされたと悟り、槍使いの男は両目をカッと開く。
「ぬう、速い……!」
そう褒められても嬉しくないし、はっきり言って迷惑だ。
己の腕を力任せに押さえておかなければ、自動迎撃が暴れているところだった。
これが奥歯をギギと噛みしめなければいいけないほどキツい。勝手に発動してくれる技能は極めて便利だが、こうして無理に押さえ込むと俺の身体に負荷がかかる。血管が浮き出るし、ドッと汗をかくほど疲弊してしまう。
以前の俺なら間違いなくこいつを殺していた。それは間違いない。
しかし、倒したところで得るものがひとつもないし、男の口ぶりからしてここが重要な場所だと思わせる。恐らくは新たな敵が続々と現れるに違いない。
もうひとつ、先ほどから感じていた嫌な予感の正体に、ようやく気づくことができた。
ここが氷の王国ということであれば、もしも、もしもだぞ。考えうる限り最悪の状況に過ぎないが、第二階層に生まれたばかりの国と対立してしまう可能性がある。
もしも俺が火種になるようであれば、間違いなくウリドラに殺される!
だから好き勝手にできないんだ!
「……すまないが槍を納めて欲しい。俺は眠り姫について知らないし、無理やりに連れてこられたんだ。敵意はない」
「? どういう意味だ。言葉の意味はまだ分からぬが、その容姿からして戻ってきたナズとジュピターが言っていた男だろう」
ん、そういえば氷の迷宮で出会った男女の魔物が、そんな名を口にしていたな。きちんと倒したはずだったが、戻ってきたということはまだ生きているのだろうか。しかし敵対を避ける意味では好都合だ。
「魔物と見間違えてやむなく交戦したが、見ての通り刃を向ける気はない」
「ふーむ、何者かはまだ分からぬが貴様の腕は見た。世迷言を口にするような男ではなさそうだ」
おや、と驚いた。
半ば魔物のような存在と思えたが、武人としての気配を感じる。もしかしたら話の通じる奴かもしれん。というか、そうであって欲しい。でないと俺は胃痛で倒れるかもしれない。
「うまく説明できるかは分からないが……っと」
「おい、どこに行く。その先には姫が眠っておられるのだぞ」
そう呼び止められるものの、悪魔が手を引いてくる。
こっちこっちと案内するような足取りであり、半ば無理やりに引きずられてしまう。血溜まりを見ることのできない男は、やはり唖然としていた。
「待て、寝所は司祭の結界によって守られておる。無理に近寄れば息絶えることになるぞ」
そう耳にした途端、ぬる゛ぅっとしたものが身体を通り抜けてゆく。油に包まれたような感触だったが、周囲に漂っていた金色の燐光がまたたき、相殺されるようにして塵と化してゆく。
「ぬう、馬鹿な。結界をこうも易々と通り抜けるとは……!」
その言葉に、ふっと悪魔は笑っていた。
どうにも邪悪な気配の乏しい女だなと思う。これまでに悪魔は幾度となく目にしてきたし、ことごとく息の根を止めてきた。
奴らに共通して言えるのは、人とは大きく異なる存在ということだろう。意思の疎通はもとより、会話さえも成り立たないはずだ。
しかし迷宮内で見かけた二人組の魔物や先ほどの男、そして血溜まりはどこか異なって見える。
「いいのか? あいつにとって大事な場所らしいし、勝手に入り込んだら叱られるぞ」
背後を振り返ってみると、先ほどの武人は結界の前で立ち尽くしている。一歩ずつ遠ざかってゆきながら話しかけると、くるんっと女は振り返り、長い黒髪を辺りに漂わせた。
「うん、いい。だってここは私の部屋だから」
どういう意味だ、という言葉がうまく喉から出てこない。案内された先には、凍りついた棺桶みたいなものがあったせいだ。
氷細工の花で飾られたそれはすべて氷でできているのか、表面は白い霜で覆われている。ザリーシュが目をこらすと、かすかに女性の姿が見えた。
「これは、血溜まりなのか?」
表面の霜を払い、そう言う。
瞳は閉じられているものの目鼻立ちはそっくりで、すぐにでも目覚めそうな気配がどこかある。
眠りにつく姫のように美しく飾り立てられており、その黒髪には金色の粒子がまたたいている。もしもあの瞳を開くことがあれば、あらゆる男性を虜にできそうな気配があった。
と、腕をグイと引かれる。
少しだけザリーシュを棺から遠ざけた彼女はなぜか恥ずかしそうにしており、唇はせわしなく開閉する。ちらりと上目づかいで金色の瞳を向けてきて、その頬には赤みが差した。
「あん、まり、見ないで……」
ああ、人に寝顔を見られたら、こういう反応をするか。
しかしずいぶん真っすぐに見つめてくる女だ。大きな瞳をゆっくりとまばたきさせても、視線はいつもこちらに注いでくる。その金色の瞳には強い光が灯っており、不思議とこちらまで目を離せなくなった。
さて、ザリーシュは気づけなかったが、彼女はこんなことを考えていたらしい。
ふ、ふふ、ふふふふふ!
戦に出たのは幸いです。まさに運命的な彼を見つけてしまいました!
強くて、紳士的で、しかも失われた王国の血を継ぐ廃王子だなんて、きゃーっ、かっこいい!
己の頬を押さえて、ぴょんとジャンプする姿に、ザリーシュはびっくりした。
若々しい女学生のような振る舞いに驚いたのだが、相手は悪魔だ。油断すれば首が掻っ切られるかもしれないと思い、ザリーシュは気を引き締めた。
「わ、私の寝顔を見るのは、あまり良くない……ま、まあ、これから毎晩のように見られるかもしれないが……」
話している最中に、ぐるーっと金色の瞳が上向く。
あれやこれやとあらぬことを想像しているのか異性の者が近くにいることを忘れているようであり、どっどっと胸は高鳴り、きめ細かな肌には汗が浮いていた。
「……血溜まり?」
「ひゃっ! よ、世継ぎの話で良かったな?」
「いや、違うし、さっきからまったく話が進んでいないぞ」
一方の眉をひそめるザリーシュはというと、いつの間にやら女性をまったく信用しなくなっていた。
かつて指輪を分け与えたダイヤモンド隊からは邪険にされて、統主プセリからはいつもゴミを見るような目で見られている。
第二階層ではあの恐ろしいウリドラに雇用契約を結ばれてしまったし、目の前にいる彼女からは血をゴクゴクと飲み干されるところだった。
女性と出会うたびに恐怖を覚えてしまうのだから、いくら美女であろうとも……いや、美女だからこそ腰が引けてしまう。
そもそも指輪で支配しないと安心できない性格である。甘い顔をしておいて、どうせお前も裏切るのだろうと斜に構えてしまう癖が彼にはあった。
だから血溜まりが近づいたぶん彼は遠ざかるし、内心でビクビクしているのだ。ああ、優しいイブが恋しい、と彼はまたも考えた。
あ、あー、と発声練習するように彼女は喉を震わせる。
出会った当初よりも発音が良くなっているが、長いあいだまったく会話していなかったのだろうか。分からないが、唇をひとつ舌で湿らすと、やはり熱のこもった瞳でザリーシュを見つめてくる。
「ここで眠っているのは、血溜まりじゃなくて、メル・ボルゾイ・セントヴェンテ。長くこの姿でいるうちに溝が深まり、どちらが本当の私なのか分からなくなった」
ひたりと棺に触れて、血溜まりはどこか遠くの情景を見つめるような目つきとなる。
「だけど、そろそろ目覚めないと。氷の王国は、遥か昔から国としての機能を果たしていない。私と一緒に民も凍りつき、死んだように眠り続けている。残っているのは番人たちだけだ。さあ、あなたの手で起こしてあげて」
そう言い、彼女はより近寄るように示してきた。
りんりんと鳴り、周囲を漂う燐光はだんだん変化してゆく。十字のような形に変わり、それらが等間隔で旋回し始める。
なんだか綺麗だなとザリーシュが思いつつ、彼女の望む通りに近寄り、恐る恐るその棺に手を触れた瞬間……。
ばんッッ!!と、真っ赤な血で濡れた手が現れる。
再び、ばんッと鳴って、もう片方の手が向こう側から触れてきた。
掻きむしり、のたうち、血を広げてゆくという恐ろしい光景に、ザリーシュは一瞬で全身の毛がぶわあっと逆立つ。
やや遅れてミイラのように恐ろしい女の顔がすぐそこに迫り、白濁した目、そして「ギャアアア!」という悲鳴を耳にした瞬間……ちょっとだけ意識が飛んだ。
は? 気絶しそうなんだが?
どうしていきなりホラーっぽいことをした?
カズヒホとマリーはどこでなにをしている。
あいつらはいつもほわほわとした空気で楽しそうなのに、どうして俺だけいつもこんな目に遭うんだ?
ああ、はいはい、みんなグルになって俺をびっくりさせて、慌てふためいているところをまた第二階層で上映されるんだ。なるほどな。今度こそ絶対に失禁なんてしないぞ!!
そうフラグまがいのことを思い、誤解するザリーシュであったが、これ以上慌てふためいているところを盗撮などされたくないのは確かだろう。
全身全霊の力でどうにか恐怖と怒りを鎮めると、傍らにいる女性に努めて冷静な顔を向けた。
「ふふ、驚きもしないその胆力、やはり私たちの王にふさわしい」
唇に指先を当てて、ニッと笑いかけてくるが、失禁寸前まで追いやられていましたとはさすがに言えない。
「あ、ああ、その、いま口にした王とはどういう意味だ?」
その問いかけに彼女はさらに笑みを深める。
悪魔らしいやや邪悪な目つきで。
「数多の戦場で血を吸い、私はようやく力を取り戻した。そして、オアシスの地においてあなたという極上の男を見つけた。これはまごうことなき運命だ」
朗々とそう語るあいだも棺のなかが変化してゆく。
血は肉となり、骨となり、びぐっびぐっと痙攣しながらも徐々に人らしい形に変わりつつある。
辺りに漂う血の匂いがあまりにも濃くて、ザリーシュはくらりと眩暈を起こした。
「人を愛さねば神にはなれぬ。それこそが世界の定め。メル・ボルゾイ・セントヴェンテは眠りから目覚めて、かつてこの地にいた国神はついに復活するのだ」
そう言い、手を振りかざした瞬間にパキキキキッと無数のひび割れが棺に生じてゆく。バキッ、バキッ、と澄んだ破砕音が立つたびに眠り姫の姿は見えなくなり、そして、一斉に氷の砕け散る音が辺りに響いた。
一瞬の静寂と、無数に飛び散るダイヤモンドダスト。
そこに現れたのは美を凝縮したような女性であり、白色と金で装飾された服を身にまとっている。
気がつけば先ほどまで話しかけていた女の姿は消え去っており、こうしてメル・ボルゾイ・セントヴェンテが目覚めたのだと彼に悟らせる。
「…………ッ!」
驚きのあまり身動きできぬザリーシュに、んふっと女は笑いかける。そして、彼と同様に金色の燐光をまとわせながら、氷上に素足で降り立った。
じいと見つめてくる瞳が大きい。濃いまつげで縁どられており、黄金のような輝きが秘められている。それに半ば見惚れながら、ザリーシュは問いかけた。
「愛さねば? つまり俺を好きだということか?」
「好っ!? ばっ、バカ! そんなことがあるか! もっ、もしかしたらだ、もしかしたら!」
わっと悲鳴混じりの表情となってしまい、先ほどまであった姫の尊厳はだいぶ失われた。
うーっと唸っているように、彼女としても非常に複雑な心境なのだ。
先ほど口にした通り、異性に恋をしたのは初めてであり、そこいらにいる初心な乙女とさほど変わりはない。
面と向かって宣言したはいいものの「あ、振られる可能性もあるのかな?」としょっぱなから怖気づいてしまった。
対するザリーシュもまた信じがたいほどにひねくれている。誰がどう見ても彼女の言葉は嘘だと分かるだろうに「そっか、だよな」と納得してしまうどうしようもない男であった。
お互いに顔も生まれも良いというのに、まるで理解し合えぬというのは、ある意味で理にかなっているのかもしれない。
あまりにも恵まれていると周囲の者たちがちやほやしてくれるし、相手を思いやったり空気を読んだりする必要がまったくないのだ。
オンッと響いた音に、ザリーシュは空を見上げる。
いつの間にやら目にもまぶしい青色の空が広がっており、白色の景色ではなくなったことに彼は気づいた。
「これは……結界とやらが解けたのか?」
「ああ、その通りだ。もう私を守る必要などない。私こそがこの国を守り、強国に導くのだ」
そう言うや、彼女はブ厚い氷をズシャッと踏み抜く。
氷上に走る亀裂は増してゆき、互いの塊に生じる圧力によってか、ズン、ゴン、と重い音を立てながら巨大な氷柱が生まれてゆく。
つい先ほどまで時が止まっているような空間であった。しかし、彼女がそうしたことにより、永いあいだ止まっていた時間は再び動きだす。
巨大な山だと思われていた表層部分が一斉に砕け散り、近くを流れていた小川には数百トンに及ぶ氷塊が落ちて行く。
大自然の生み出すその様は圧巻であり、近郊に生息している野生動物たちは一斉にその方角を眺めていた。
「私こそが国神! 私こそが氷国の姫! 聞け、民よ! お前たちの目覚めるときがいまきたぞ!」
――オ、オ、オオオオオ……ッ!!
どこからかともなく魂の慟哭のごとき音が響き、ザリーシュはあっけに取られる。
それだけじゃない。地表の向こうに続々と人影が現れて、いずれも人と思えぬ魔の様相であったのだ。
立ち尽くす彼は、ただ「帰りたい」と心から願う。
そして一方の姫はというと「んきゅーっ、横顔かっこいい! 好きっ!」などとおかしなことを考えていた。
どこの世界でも恋する乙女というのは暴走しがちだが、今回に限っては信じがたいスケールで繰り広げられることだろう。
アニメ第3話は、1月24日(金)25:53に放映です!
今回は餃子回ですよー。




