686 二十四歳 神の涙
セスの演説は商人達を使って、すぐにアーク王国内に広められた。
当然、それはアーチボルドの耳にも入る。
「神が泣いているだと? ふざけるな! どう考えてもあやつが言わせているだけではないか! こちらもやり返せ! 教皇庁はリード王国だけのものではないと知らしめよ!」
すぐさま彼も自国の教皇庁に働きかけ「神は悲しんでいない」という声明を出させた。
だが貴族の勢力争いなどはよくある事とはいえ「国王様もやり過ぎだよな」という印象を平民に持たせる事ができていた。
――反逆者を処刑する。
それだけならば、まだよかった。
彼の所業も一緒に噂として流れていたので、民心は離れていくばかりである。
しかし、それでも絶望的な状況ではなかった。
「でも、あっちが先に教皇を名乗ったとはいえ、我が国にも教皇聖下がおられるじゃないか」
「神様の怒りを鎮めてくださるだろう」
――アーク王国にも教皇庁があったからだ。
民衆は「自国の教皇庁は正統なものだから本物」と信じていた。
だからさほど重大な問題とは捉えず、気楽に受け止めていた。
今のところリード王国から流れてきた噂は怪情報でしかなく、混乱が生まれるような事態にはなっていなかった。
だがアイザックは、商人達に噂を流させるだけではない。
国境付近の街では、アーク王国への禁輸措置が取られていた。
「すまないが国からのお達しで食料を売る事ができないんだ。ただ年明けには解禁されると思う」
「えー、それは困るなぁ。でももう少しで収穫の時期だし、困る事は困るけど備蓄でなんとかなる……か。年明けに解禁されるっていうのは本当なのか?」
「ああ、それは確からしい」
アイザックは一時的に食料品の禁輸措置を取った。
しかし、それは一時的なものである事は伝えている。
「口先だけじゃなくて、行動でアーク王国に抗議の意を示すって感じかな。まぁ形だけでもなにかやっておかないと面子も立たないか。けど困ったなぁ。いきなりだと計算が狂うよ」
――やられた分はやり返さなくてはならない。
なにもやり返さなければ「リード王国は反撃をしてこない国だ」と侮られる。
だから口先の抗議だけではなく、効果が薄くとも短期間の禁輸措置を取って内外に姿勢を見せる。
アーク王国の商人達は、その意図を読み取っていた。
ただ、意図を読めても商売が邪魔されて困ってしまう事に変わりはない。
「じゃあ、軍を国境に動かしているのも我が国への脅しのためか?」
「かもしれない。こっちとしては本当に戦争が起きなければそれでいいと思っている。商品を保管する倉庫の使用料を補填してくれないと困るけどな。とりあえず売るはずだった商品は保管しておくから、もしまだ買うつもりだったら買いに来てくれ」
「わかった、そうさせてもらおう。……ところで本当に戦争になったりはしないよな?」
アーク王国の商人が不安そうに尋ねる。
リード王国の商人は、肩をすくめてみせた。
「今回もエルフやドワーフが従軍しているそうだが、ファラガット共和国を攻めた時に比べれば少ないそうだ。本気で戦争を始める気なら、もっと大勢援軍を呼んでいるはずだ。だから大丈夫なんじゃないかな。……ここだけの話だが、この近辺の商人から食料品を買い漁る動きもない。戦争を始められるだけの物資は集めてないようだぞ」
「もう、それは本当か? だったら示威行動だけみたいだな」
「ああ、そうみたいだ。それでもまとめ買いはしてくれているからそこそこ稼げてはいる。残念だったな、そっちが売る側なら稼ぎ時だったのに」
「仕方ないさ。でもリード王国はいいよな。戦争でもちゃんと適正価格で物資を買い取ってくれるんだから。こっちは非常時だと接収されるんだ」
「こっちも一緒だよ。ただアイザック陛下が即位されてからは、商人の都合も考えてちゃんと金を払ってくれるようになっただけだ」
「そっちはなにかにつけてアイザック陛下の名前が出てくるな。正直なところ羨ましいよ」
「アーク王国がリード王国のアーク地方になれば、お前もアイザック陛下の臣民になれるぞ」
「縁起の悪い事を言うのはやめてくれ」
戦争はまず起きないとわかっているので、リード王国の商人は軽口を叩く。
それはアーク王国の商人も同様である。
だが、リード王国の行動には他にも意図が隠されている。
そこまでは彼らも気付けなかった。
そして、それに気付いた時には手遅れである。
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七月中旬。
アーク王国北部のセントクレア地方で近年類を見ない大雨が一週間降り続いていた。
「これが神の涙なんて事はないよな」
「まさかなぁ……。でもやばいのは確かだぞ。堤防が今にも壊れそうだ」
堤防の補強工事に駆り出されている人々は焦りを覚えていた。
雨は上流にも降り注ぎ、水かさが堤防を越えようとしている。
「もう手作業じゃ無理だぞ。魔法使いを呼ばないと」
「司教様を呼んでくる!」
「急げよ!」
若者が一人、街まで走っていく。
残った者は彼の背中を不安そうに見つめていたが、すぐに補強作業へ戻った。
だがしばらくすると――
「崩れるぞー!」
誰かが叫ぶと同時に堤防の一角が崩壊した。
崩壊した堤防付近の人々が水に流され、土砂に押し潰されていく。
「ああ、街が……」
「これが天罰なのか……。だとしても酷すぎる……」
「ここまでしなくても……」
水の勢いは凄まじいものだった
長い年月をかけて作られた街があっさりと押し流されていく。
建物が次々に流されていく光景を目の当たりにして、人の力がどれだけ無力なのかを思い知らされる。
それは人々の心をへし折るのに十分だった。
「ここは大丈夫だと思っていたのに……」
セントクレア地方は肥沃な大地が広がっている。
水源も豊かなため、治水工事はしっかりとされていた。
だというのに堤防の決壊という結果に終わった。
――天罰覿面。
神に見放されたと知った時の人々の絶望は極めて大きなものだった。
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――神の涙がアーク王国の街を押し流した。
その知らせは国中を駆け巡った。
当然、アーチボルドも配下の報告で知る事になる。
「被災者は確認されているだけでも十万人以上ですが、おそらくまだ半分も把握しきれていません。洪水による死者はまったくわかっておりませんが、それでも数千人の被害は出ているようです。我が国の歴史的にも類を見ない大災害です」
「わかっておるわ、そんな事!」
余計な一言を付けられたせいで、不機嫌だったアーチボルドの言葉が荒くなってしまう。
(なんて事だ……。これではセスが本物の教皇だと思われてしまうではないか。そんな事があってはならない。ならんのだ!)
アーチボルドは歯ぎしりをして悔しがる。
「軍を動かして救助活動をするのはいかがでしょうか?」
だが悔しがっている場合ではない。
文官が早めの対処を進言する。
「それはすぐには無理だ。リード王国軍が国境に兵を配備したので、こちらも東部に兵を動かしている。これから再移動させるとなると、軍で消費する食料などの物資を積み込むだけでも時間がかかる」
「では先に軍だけを動かしてはどうでしょう? 食料は現地調達すればいいのでは?」
先ほどとは違う文官が発言する。
だが彼の発言は鼻で笑われた。
「麦の収穫前だったそうだし、そもそも倉庫ごと流されて備蓄していた食料も失われている。現地調達などできるはずがなかろう」
――範囲の広い洪水被害であって、局所的な災害ではない。
土砂に埋まっていなくとも、泥水に浸かって腐った食料は食べられない。
他の地域から被災者のために食料を運ばねばならない状況だった。
「セントクレア地方を助けるために他の地域から食料を輸送しては、他の地域も冬越えが厳しくなるかもしれません。リード王国の商人は輸出停止になった食料を備蓄してくれているそうです。アイザック陛下に禁輸措置を早めに解除していただくようにお願いしてみてはいかがでしょうか?」
「そんな事ができるか! だったらアルビオン帝国に支援を要請しろ! あれだけ偉そうにしていたのだ。支援はしてくれるだろうとも! リード王国に支援を要請するのは、本当にどうしようもなくなるまでなしだ!」
アーチボルドの態度を見て、リード王国への支援要請を口に出せなくなってしまった。
「教皇庁にも支援しろと使者を出せ。洪水を止められなかったのだ。人手と金くらいは出してもらわんとな。まったく、使えん奴らだ!」
彼の怒りは教皇庁にも向けられていた。
せっかく正統な教皇庁として認められるようにしてやったのに、神の怒りも鎮められない無能である。
せめて身を粉にして働くくらいはしてもらわねばならなかった。
(神に見放された国……。これから我が国はどうなってしまうのだろうか……)
ただ洪水が起きただけなら自然災害だと思えていただろう。
だがセスの演説があったあとでは、この洪水が神の怒りにしか思えなくなっていた。
今後の事を考えると、貴族達の気分は重くなる一方だった。






