678 二十四歳 踏みとどまる勇気
トイレから戻ると、アイザックはアーチボルド達がいるところへ向かった。
先ほどまでアイザックを無視していたアーチボルドだったが、今回は彼の方から話かけてきた。
「お気に召したかな?」
表情が暗いアイザックに対して、彼の表情はニヤついていた。
「アーチボルド陛下、会談中の私の態度は礼を失するものでした。申し訳ございません」
アイザックが謝ると、周囲にいた者だけではなく、アーチボルドまでも驚いた。
(まさか、あれを見ただけでしおらしくなるのか? あのアイザックが?)
驚かせようとしてはいたが、ここまで態度が変わるとまでは考えもしなかった。
予想以上の効果に、アーチボルドはいい意味で計算が狂ったと思った。
彼の計算が狂ったのは正しいが、それは彼が考えたのとは違う方向にであった。
「私は同盟をもう一度締結して関係を修復できないか模索しておりました。だからウィルメンテ公の縁を頼って根回しを始めたのです。彼らも我が国との同盟を再締結したほうがいいと思い、協力してくれていました。平和を求めて動いていた彼らをトイレの中に縛って放り込んで、糞尿で溺死させるなどあんまりではありませんか。もう一度同盟を結び直そうとして頼んだのは私なのですから、何卒他の者には処罰を与えないでやってください」
アイザックは素直に謝りながら、アーチボルドがなにをしたのかを周囲に教えた。
彼がなにをしたのか知っていそうなアーク王国の者はともかく、他国の王達に教えるためである。
そしてこれは自分の身を守るためでもあった。
逆上したアーチボルドがなにをするかわからない。
だから形だけでも謝っておく事で、滞在中や帰路に襲われる可能性を下げようとしていた。
――危険に向かってアクセルを踏み続ける事が勇気ではない。
――時にはブレーキを踏んで止まるのも勇気である。
アイザックは、それがわかっていた。
ここで謝罪する事で自分が安全に帰る事ができる可能性を少しでも高め、アーチボルドがどれだけ悪辣な行為をしたかを周囲に知らしめる。
一石二鳥の策だった。
「意にそぐわぬ行いをした者とはいえ、そこまでするとは……。教皇庁を再建した王の所業とは思えぬな」
ヴィンセントも乗ってきた。
彼はドン引きしたという表情で、アーチボルドを酷い奴だという目で見る。
(やはり乗ってきたか)
これでアーチボルドの面子はボロボロだ。
世間に噂が広まればアーク王家の求心力は地に落ちる。
――そして、アイザックが二度と同盟を結ぼうとしないと明言した。
これにより、今後アーク王国が頼れるのはアルビオン帝国のみである。
だから、もうヴィンセントがなにを言おうが、彼に対して強く出る事はできない。
この機会にしっかりと上下関係を刻み込もうとしているのだろう。
ヴィンセントの目論見通りに進んでもかまわなかった。
――今のところは。
「いや、あれは裏切り者を制裁しただけであって問題のない行為だ」
アーチボルドは否定する。
だがそれはアイザックが許さなかった。
「リード王国との同盟を結び直そうとするのが裏切り行為ですか……。ほんの二年ほど前までは良好な関係を続けていたというのに残念です」
「それは――」
「それは酷いな! だが安心しろ。これからは私が守ってやるからな。リード王国に見捨てられたからといって諦める事はない」
アーチボルドの言葉をヴィンセントが遮った。
それは礼を失する行為だったが、ヴィンセントの気が変わって「同盟関係を考え直す」と言われては困る。
アーチボルドは彼の行為を咎められなかった。
そしてここで咎める事ができなかった時点で、アーチボルド自身も二度とアルビオン帝国の上に立つ事はできなくなったと悟った。
「私がここにいては雰囲気を悪くするだけでしょう。これで失礼します」
「私も気分の悪いものを見たので今日は帰らせてもらおう」
「右に同じく。気分が悪くなりましたのでな」
ヴァージル三世とイライアスも帰ろうとする。
周辺国から王が集まる会談だったが、アイザックがアーク王国の教皇庁を正統なものとあっさり認めた時点で集まった意味がなくなった。
他に話す事と言えば世間話くらいしかない。
しかもアイザックに付いていったせいとはいえ、嫌な思いをさせられたのだ。
外交事案は外務大臣に任せればいいので、この場に残る意味はない。
彼らはアーチボルドに見切りをつけていた。
アイザック達が退出する。
パーティー会場は何とも言えない重苦しい雰囲気になった。
そこでアイザックをトイレに案内した執事が動いた。
「トイレのゴミはどういたしましょうか?」
「捨てればよかろう! そのくらいは自分で判断しろ!」
「直ちに処理いたします」
アーチボルドはイライラとしていたため「とどめを刺してから捨てろ」などの細かい指示は出さなかった。
――死体の処理どころではないので現場の判断に任せる。
彼がそうなるよう、アイザックが仕向けたからだ。
「アイザックが頭を下げた」という事実などどうでもよくなるほど、今のやり取りは不快なものだった。
その原因であるヴィンセントには下手に言い返せない。
アイザックに一泡吹かせたとはいえ、アーチボルドにとって後味の悪い集まりとなってしまった。
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アイザックはホテルに戻らず、大使館へと向かった。
パーティーに出席していたエルフやドワーフ達も連れ帰ってきている。
彼らにもちゃんと事情を話しておく必要があったからだ。
「――というわけで、皆さんも観光などを考えていたでしょうが今回は切り上げて帰国します。この国に長く滞在すればするほど危険です。それは私だけではなく、エルフやドワーフにとっても同じ事。帰国するまでの間は一人にならず、複数人で行動するように皆さんに伝えておいてください。この国ではあなた方を軽視する教義が広まっていますから」
「最近は私どもに対する風当りが強いと思っておりましたが、まさかそこまでやるとは……」
アーク王国の態度を感じ取っていた大使も、この事態にはさすがに困惑していた。
「なぜそのような事ができるのか……」
「先ほどまでは笑顔で話していたのに、裏ではそんな事をしておったとは……」
エルフやドワーフも同様に困惑していた。
教会の教義はともかく、これまで普通に接してくれていた。
そんな彼らが裏では非道な行いをしていたという。
アーク王国の人間の二面性には恐れすら覚える。
「まず大使はリード王国系の商人に家族や重要な物は本国に送るように通達を出してください。もちろん、大使館で働く者達にも。これには大使の家族も含まれます」
「よろしいのですか? 私の家族まで帰国させればアーク王国がどう思うか……」
ファラガット共和国に赴任させたギルモア伯爵もそうだ。
彼は家族を連れずに赴任したため「戦争が始まって大使が殺されるような事態を想定している」と思わせた。
大使に家族が同行しているかどうかだけでも、両国の関係を測るバロメーターとなる。
家族を引き上げさせるという行為が、どのような結果になるかは明白だった。
「かまいません。彼らはすでに一線を越えました。実際に開戦せずとも、こちらにも覚悟があるという態度を見せねばなりませんから。こちらからは仕掛けるつもりはないですが、万が一はあると覚悟しておいてください」
「かしこまりました」
大使は「大変な事になってしまった」と思っていたが、同時に安堵もしていた。
両国の関係が悪化したのは自分一人の責任ではなく、アーチボルドの感情によるものだとわかったからだ。
――孫が国王で祖父が外務大臣。
一家揃って上役であるため、二人揃って「この無能め!」と叱責されずに済んだ。
これは彼にとって喜ばしい事だった。
「それともし大使館にハーミス伯らが来るようであれば、望む場所へ移動させてあげてほしいんです。両国のために働いてくれたので、リード王国ではなくともかまわないので」
「もちろんですとも。私もハーミス伯と今後の事について何度も話し合っていました。あのお方は人柄も良く、アーク王国のために同盟を結び直すべきだと動いておられました忠臣です。汚物に塗れて死んでいい方ではありませんから」
「頼みます」
ハーミス伯爵はウィルメンテ公爵だけではなく、大使とも協議していたようだ。
教義が同じだからというだけでアルビオン帝国と手を結ぶのを危惧していたのだろう。
アーク王国のために必死に働いていたにも関わらず、あのような処遇をされた事には同情を禁じ得ない。
大使も助けてやりたいという気持ちはあるらしい。
「やれやれ、どうしてこんな事になったのか……」
肩を落として他人事のようにつぶやくアイザックだったが、これもすべて彼がパメラを手に入れるために動いた事が原因である。
アイザックがなにもしなければ、ジェイソンが国王になってアーク王国との同盟も続いていたかもしれない。
もっともニコルのために世界征服を目論むジェイソンによって戦争は起こっていたはずなので、どちらがいいという事ははっきりとはわからなかった。







