055 七歳 剣と馬の練習
ある日、アイザックは騎士の詰め所を訪れた。
「やぁ、バーナード」
「ひぃっ! ア、アイザック様、何か御用で……」
バーナードは、あの一件以来アイザックを恐れるようになっていた。
逆らう気配がないのは良い事だが、それでは世間体が悪い。
だが、注意しても余計に恐れるだけなので、もう何も言わないようにしていた。
「今週の分の薬を持ってきただけだよ。はい」
アイザックはエルフの霊薬を差し出す。
それを、バーナードは恐る恐る受け取った。
アイザックが恐ろしいというだけではない。
エルフの霊薬の貴重さ故に慎重になってしまうのだ。
エルフの霊薬は流通量が少ないので一般には出回っていない。
ウェルロッド家が高値で買い取って、王家や他の上位貴族への贈り物とされている。
そんな貴重な物を、騎士のために毎週用意してくれているのは非常にありがたい。
薬を受け取るのに問題があるとすれば、バーナードがアイザックを非常に恐れている。
それだけだ。
「いつもはノーマンに任せておられるのに……」
言外に「来ないでくれ」という意味を含んでいるが、アイザックはわかってくれない。
いや、わかってて気にしていないのかもしれない。
それだと、かなり悪質だ。
しかし、バーナードには非難するだけの度胸がない。
剣で戦える相手なら負けるつもりはないが、人前でアイザックに剣を向けるわけにはいかない。
アイザックの前では、ただ嵐が過ぎ去るのを待つしかない無力な人間と化してしまう。
「今日は騎士を一人借りたいんだ」
――騎士を借りる。
その言葉でバーナードの脳裏に浮かんだのは、ネイサンの相手をする者と同様にストレス解消の道具に使われるという事だった。
特にアイザックへの恐怖が高まっている今、それ以外の事は考えられなかった。
「剣を教えられて、騎乗の指導ができる人なら誰でもいいんだ。そろそろ練習しておかないとね」
「左様でございますか……」
バーナードは「そろそろ」の意味を深くは聞かない。
今から練習を始める事の意味は、大体察する事ができる。
おそらく、ネイサンを自分の手で仕留めるつもりなのだろう。
――兄の首を切り落とす時に備えて、剣を扱う腕を磨く。
それだけで、アイザックの異常さを再認識させられた。
少なくとも、七歳の子供が考える事ではない。
(やはり、ウェルロッド侯爵家の血はおそろしい……)
バーナードはジュードの子供の頃など知らないが、きっとアイザックのような感じだったのだろうと思った。
そして、良くも悪くもアイザックに目を付けられた。
「道具」としての価値がある事を証明しなければ、自分がどうなるかもわからない。
「アーヴィン、お前にはアイザック様の指導を命じる」
「ハッ!」
アーヴィンと呼ばれた騎士は、かつてアイザックに薬を貰った男だ。
彼はアイザックに良い印象を持っているが、バーナードの態度が気になる。
良い返事を返したが、どこか不安を感じてしまっていた。
「ありがとう、バーナード。アーヴィン、行こうか」
アイザックはアーヴィンを連れて庭へと向かう。
その道中、バーナードの態度が気になったアーヴィンがアイザックに問いかける。
「あの……。隊長の態度がおかしいんですけど、何かあったんですか?」
アーヴィンの質問にアイザックは少し考える。
(さすがに馬鹿正直に話せないよなー……)
アイザックは気になっていた事を言って誤魔化す事に決めた。
「警護について一言言っただけですよ。今回はエルフの方々を連れてきているから、警護の騎士が多いでしょう? だから、警備がたるんできているんじゃないかってね。大勢いるから、誰かが侵入者に気付くだろうでは、僕達が困るんですよ」
「あっ……。それは、その……。申し訳ございませんでした」
アーヴィンは謝った。
自分自身は真面目にやっていたつもりだったが、そういう思いがあった事も事実だ。
――警護も多いし、王都のウェルロッド侯爵家の敷地内に侵入する者などいないだろう。
そう考えるのはおかしなことではない。
だが「なぜ警護が多いのか」と考えれば「守る物が多いからだ」という答えが導き出される。
人員が多いからといって、警護に気を抜く余裕があるはずがなかった。
その事を注意されれば、責任者であるバーナードが委縮するのも仕方が無い。
「これから気を付けてくれたらいいよ」
(本当に気を抜いていたとは……)
本気でその事を責めているわけではないので、アイザックはアーヴィンを必要以上に責めなかった。
だが、重要な事なのでランドルフ経由でバーナードに伝えておこうとは思っていた。
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まずは剣の練習を始める事にした。
アーヴィンはアイザックに木刀を渡し、覚悟を決めたかのような表情をして剣を構える。
「いつでもどうぞ」
「いや、いつでもどうぞって……。剣の構えとか素振りとかやらないの?」
「えぇっ! 基礎からやりたいんですか!」
「普通やるでしょ」
なぜ自分ではなく、アーヴィンが驚いているのか。
アイザックには不思議でしかなかった。
「ネイサン様はやりませんでしたよ」
アーヴィンの答えを聞いて、ようやく合点がいった。
ネイサンは「剣の練習」と称して、本当にストレス解消にしか騎士を使っていなかったようだ。
「僕は兄上とは違うよ。基礎から教えてほしいな」
子供に一方的に叩きのめされると痛みもあるが、何よりも気分が良くない。
アイザックが本当の意味で剣を教わろうとしていると知り、アーヴィンは安堵した。
「では、素振りから始めましょう。普段使わない筋肉を動かすので、最初はゆっくりと」
子供の体で無茶はできない。
しかも、アイザックは侯爵家の跡取り息子だ。
怪我をさせないように注意しながら指導を始める。
(疲れたぁ……)
アイザックは木刀を手放し、震える手を見つめる。
今世では本よりも重い物を持った事がなかった。
子供用とはいえ、木刀は重い。
そんなものを振り回したせいで、普段使わなかった筋肉が悲鳴を上げている。
(気付かないうちに、貴族の暮らしに慣れきっていたんだなぁ……)
今は周囲の大人が何もかもをやってくれる。
平民として生まれていれば、子供でも家の手伝いなどをするので、こんな事にはなっていなかっただろう。
実際にやってみて、今の自分の実情に気付く。
(辛いけど、いざという時に備えて、自分でも戦えるようになっておかないと。敵を倒す事ができなくても、自分の身を守るための時間稼ぎくらいできた方がいいもんな)
アイザックは別に最強になりたいと思って剣を習い始めたわけではない。
才能があって、努力している者には敵わないとわかっている。
だから、暗殺者などに襲われたら、騎士の誰かに助けてもらおうと考えていた。
すぐに助けてもらえるとは限らないので、勝てずとも時間を稼げる程度を目指している。
だが、その程度でも目標までの道程は長い。
地道に努力していくしかない。
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馬の練習は翌日にした。
手が震えて、手綱も持てない状態では危ないからだ。
(さすが子供の体、筋肉痛も治るのが早い)
一晩経てば、腕も元通り。
若さというものを実感する。
「まずは馬に乗るという事から慣れましょう」
アーヴィンはアイザックを馬の背中に乗せる。
馬は柵に繋がれたままだ。
アイザックを乗せたまま、走り出したりしないように気を付けているようだ。
「馬の上って高いんだね……」
アイザックは下を見て、そう呟いた。
子供スケールで見ているから、より一層高く感じる。
「馬から落ちると大怪我をします。ですから、馬から落ちる際には頭を守ってください。死にさえしなければ、クロード様が助けてくれます」
「治療は任せておけ」
今回はクロードがアイザックの救急要員として付いている。
馬から落ちると、大人でも骨折したりする。
初めて馬に乗るアイザックのために、呼び出されていた。
「怪我をする前提で話さないでほしいかな……」
「いえ、どこかで怪我をするという前提で行動しなければなりません。大丈夫だろうではダメなのです。気を付けてください」
アーヴィンはしっかりと注意する。
騎士としての訓練中に、油断して大怪我した者を見てきている。
だからこそ、怪我にはしっかりと注意を払ってほしかったのだ。
「わかった、気を付けるよ」
アイザックも無駄に怪我はしたくない。
アーヴィンの注意を大人しく聞き入れた。
そのまま乗り続け、アイザックがバランスを崩さない事を確認してから柵から外す。
「次は私が手綱を引いて、ゆっくり歩きます」
「うん。……おっと」
馬の背中は揺れる。
アイザックは落とされないように太ももに力を入れた。
(これ、乗ってるだけでもかなり疲れるんじゃ……)
騎士達は楽そうに乗っているが、実際に乗ってみると振り落とされないようにするだけで精一杯だ。
子供だからというのもあるかもしれない。
だが、バイクよりも高さがあって不安定という事もあり、なかなかの恐怖感がある。
「アーヴィン、馬に乗れない貴族っているの?」
――別に馬に乗らなくても、馬車に乗ればいい。
そう思い、乗らなくてもいい理由はないか聞いてみる。
しかし、返ってきた答えは望んだものではなかった。
「まず、いませんね。病気や怪我で乗れない者がいるくらいでしょう」
「そうなんだ。じゃあ、頑張らないとね」
さすがに「馬に乗れない奴」と後ろ指を指されていては国を奪う事などできないだろう。
人に失望される理由を残しておくわけにはいかない。
怖いが、逃げ出さずに馬に乗り続ける事を選んだ。
「大丈夫だ。この子は大人しい。突然暴れたり、振り落としたりしないさ」
馬に並走して歩くクロードが馬の感想を言う。
「わかるの?」
「大体の雰囲気でな」
(エルフの感覚とかそんな感じのやつなのかな?)
魔法が使えて、馬の気持ちもわかる。
エルフがズルく思えてくる。
しかし、そんな思考も揺れですぐに中断される。
(ダメだ、ダメだ。今は集中しないと、本当に大怪我しかねない)
初めて馬に乗ったのだから、他の事を考えている余裕などない。
魔法で治るといっても、落ちて怪我をすれば痛い。
痛い思いをしたくなければ、今は馬に乗る事に集中しなくてはならない。
アイザックは神経を集中し、落ちないようにバランスを意識し始めた。
「いててててて……」
乗馬の練習が終わると、アイザックはがに股歩きで屋敷に帰っていった。
振り落とされないように太ももに力を入れていたせいで、股間付近から太ももにかけて痛みが広がっている。
クロードに治してほしかったが「魔法で治すと、痛みに慣れにくくなる」と言って治してくれなかった。
そのクロード本人は、アイザックと入れ替わりで乗馬の練習をしている。
「森にはユニコーンがいたが、あいつらは男を背中に乗せてくれないんだ」と、苦笑交じりに語っていた。
何かの役に立つかもしれないので、練習をさせる事にした。
アーヴィンにクロードを任せ、アイザックは先に屋敷へ戻っている。
早く休みたいと思うほど、初めての乗馬はアイザックから体力を奪い取っていた。
「アイザック様、着替えられますか?」
メイドがアイザックに声をかける。
「いや、このままでいいよ。パトリックのところに行くから」
乗馬はしていたが、泥で汚れたりはしていない。
それならば、このままパトリックを枕にして寝ても問題はないはず。
それに、パトリックは毛が多い。
抜け毛で汚れるのに、新しい服に着替えるのがもったいないという思いがあった。
パトリックの待つ部屋に行くと、世話係がパトリックの相手をしていたところだった。
だが、アイザックの姿を見るとこちらに寄ってくる。
やはり、兄弟同然に育った相手に懐くのだろう。
しかし、アイザックの前で立ち止まると、股間付近の匂いを嗅ぐ。
「どうしたんだ?」
当然答える事などない。
パトリックはアイザックから離れ、自分に用意されたクッションのところに行くと丸まって寝ころんだ。
その状態でアイザックを見る目は、どこか悲しそうだ。
「アイザック様、今着ているのは乗馬服ですよね? 馬の匂いが付いているので、悲しんでいるんじゃないですか?」
「あぁ、そうか。着替えておけば良かったな」
世話係の言葉に納得する。
自分以外の動物の匂いがして、アイザックを取られたように感じて悲しいのだろう。
アイザックはパトリックのもとへ向かい、お腹を枕にして寝転がる。
そして、頭を撫でてやった。
「友達はお前だけだよ」
言ってから、アイザックは少し切ない思いをする。
だが、横になってみると、眠気の方が強くなっていく。
「また今度ゆっくり遊ぼうな」
そう言って、アイザックは目を閉じる。
その姿は年相応の可愛い子供の姿だ。
世話係だけではない。
この屋敷のほとんどの者が同じ感想を抱くだろう。
まさか、こんなに可愛いアイザックがネイサンを陥れようと画策しているとは、計画に関わっている者達以外は思いもしなかった。







