3-20 52Hzの呼び声
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世界は歌に満ちている。
はじめにそう述べた学者のことを、リセは生涯恨むだろう。
十三歳の夏である。
生涯で何度目かの確信を胸に秘め、リセは坂道を駆けのぼっていた。
風光明媚で知られるシナト市は、岸壁にへばりつくようにして存在する街だ。高台へと続く道は険しく、登り降りには地元民でも難儀する。旅行者の小娘、それも都会っ子ともなれば遭難くらいは当たり前――そういう知識もないではないが、従ってやるのも癪だった。
「田舎のこういうとこ、本当に嫌い!」
なぜならリセは〈余白持ち〉の〈歌うたい〉であるからだ。世界に満ちる〈歌〉を受け入れる余地を持ち、それを口にして奇跡を起こす血筋の末裔。そういうことになっている。
けれども〈歌うたい〉の祖は人型の兵器でもある。よってリセには急坂を駆けのぼることなど朝飯前なのだ。リセが坂道を走っているのも同じ理由であったけれど。
「たかだかサングラスがなんだっていうの、本っ当に!」
兵器であった〈歌うたい〉もヒトに数えられて久しい。けれどもヒトと〈歌うたい〉にはいまだ埋め難い差異もある。
そのひとつが目だ。シナト市の海とは似ても似つかぬネオンブルーの瞳。
リセは色眼鏡でそれを隠しているのに、親戚の子どもらは「貸してくれ」ときた。返すつもりもないくせに。
そんなわけでリセは逃走の真っ最中、坂道レースのレコードも絶賛更新中だった。
痩せぎす、眼鏡、低身長、ぼさぼさの黒髪――インドア派の見てくれもなんのその、だ。
やがてリセは白い壁の包囲を抜け出す。かくして辿り着いたのは岩場の一角、申し訳ていどの展望台だった。リセが幾度となく利用してきた避難所でもある。
見慣れたはずのその場所で、リセは碧眼を見開く羽目になる。
人だ。人がいる。こんな場所に。
黄昏時の光に黒く照る髪をみとめて、リセは思わず足を止めた。
展望台とは名ばかりで、ここの実態は手すりつきの絶壁だ。見えるのは花崗岩の岩肌と波濤が精々で、見ても面白いことはない。
なら、とリセは思う。なら、あの人の用事はなんだろう。
「あのう……」
己の問いに答えを出すのに先んじ、リセはそう声を出していた。絶対碌なことにはならない確信があったからだ。具体的には世を儚んでの自殺とか、恋破れての自殺とか、仕事がうまくいかなくての自殺とか、とにもかくにもそんなところ。
応じて人影が振り返る。
同時にリセは「あ」と声をあげていた。振り返った男の目もまた、人には有り得ぬ色をしていたからだ。そしてその色彩はリセの、つまりは〈歌うたい〉の血統を示すネオンブルーでもない。
それは紛れもない海の色だった。夏空の下の、うつくしい海面の色。
その持ち主である男もまた「あ」と声をあげてみせた。
まばたきをして、リセを見る。目線が絡む。
「君は」
歌うような男の声を聞き、やってしまった、とリセは思った。
同時にくだんの学者のスピーチが脳裏を過る。スクールの授業で、記念日の特別放送で、電子ネットワークの片隅で、誦じられるほど聞いた電子音声。
世界は歌に満ちている。
世界の始まりにはまず無音の闇があった。そこに生じたのが膨張による熱量の疎密。これによって今日の宇宙が作られ、同時にはじめの波――〈歌〉が世界へ鳴り渡った。原初の〈歌〉はやがて元素の繋がりを生み、星を生み、果ては生命と精神を創出するにいたった。
ゆえに、世界とは原初の〈歌〉の残響に過ぎない。彼はそう宣言した。
以来、人々は〈歌〉を介して世界の秘密を紐解く試みを続けている。かつて実在したという魔法によく似た試みだ。
リセのような〈歌うたい〉はその試みの副産物――の遠い子孫なのである。
兵器として使われる前の〈歌うたい〉の本領は、いくつかの〈歌〉によって非物質の精神体と交信することにあったそうだ。リセのようにヒトとして扱われる世代は第三世代であり、ヒトとの交雑だって進んでいる。
それだけの隔絶を経てなお〈歌うたい〉にはヒトにない能力が備わっていた。たとえば特定の〈歌〉を視認できるだとか。
リセはすり足で後ずさった。
対する男は気安い様子で前に進む。その軽やかな歩みには足音がなかった。案の定といえば案の定、予想どおりといえば予想どおりの現象である。
「俺が見えているんだね」
リセはぐっと息を呑んだ。おあいにくさまと言いたい気持ちを堪え、かわりに深々と首肯をひとつ。
ついでに右手の拳を左手で包み込み、その手を顔の高さへあげることも忘れない。一揖。
「不粋極まりない声がけを失礼いたしました、高貴な方」
人が〈歌〉を見出すより前、自分たちの目に見えないものを神や精霊と呼んで敬った。別の呼称を用いることもあったというが、それでも必ずあったのは敬意と畏れだ。
それを忘れてはいけないよ、とリセの周りのひとは言った。リセがそれをもって振る舞う限り、相手もけっしてリセを蔑ろにはしないから。
彼らの教えは幾度もリセを救ってきた。だからきっと、今回も。そう祈って息を殺す。見つめた地面を踏みしめる素足は真白く、そこに傷ひとつないのが不思議なくらいだった。
「おもしろい物言いをする子だね。俺みたいなものを見るのははじめてかい」
雪みたいな色だな、とリセは思う。男の声もそれに似てよく澄み、けれども不思議と冷たさはない。
リセはそろりと顔をあげた。
「あいにくと。……わたしの周りには火精がいるので」
「そうか。俺は君みたいな子を見るのははじめてだ」
男は悠然と微笑んでいる。その鷹揚さに甘えることに決め、リセはしげしげと彼の姿を観察した。
その姿は人に近いが、世界からは隔絶されている。ヒトが知覚する世界とは別の次元にあるからだ。まとう衣装は民族的で幻想的。揺れる裳裾の衣装に覚えはないが、いつごろのヒトを真似たのだろう。殊に細い首を彩る金銀の拵えは見事なもので――
「あっ」
しゃらしゃらと鎖の鳴る音に、リセは小さく声をあげた。
「ご無礼、ご無礼でしたよね。すみません……」
「かまわないよ。興味があった?」
はい、とリセはうべなう。嘘をついても仕方がないからだ。
そして、それ以上に。
「わたしは契約のできる〈歌うたい〉ではありませんのに」
どれだけ敬意を払い、畏れをもって接しても、けっして多くを語らせてはいけないよ。リセの周りのひと――家つきの火精たちはそう声を揃えた。
リセのような〈余白持ち〉は〈歌うたい〉のなかでも特別なのだ。その精神をかたちづくる〈歌〉は最低限を残して削ぎ落とされ、かわりにほかの〈歌〉を書き込める。つまりはヒトならざるものをヒトの世に下ろすことができるというわけだ。兵器として運用するにあたって後付けされた能力である。
万が一にもそれを使われることがないように、とリセの周りの者たちは危惧した。
よほどのことがない限り、野良で人型を取るような〈歌〉にはろくなものがいないからだ。ちょっとの身動きが災害につながったり、あるいは人に悪意があったりする。そうでない〈歌〉はえてして〈歌うたい〉の家系とともにあるものだ。リセのそばにいる火霊もそうだった。
無用の契約を避けるために必要なのが、迅速かつ正確な「お断り」だ。ただそれだけで事故は防げる。〈歌うたい〉を持たない〈歌〉にできることは限られるのだ。だからリセにはほとんど実害はない。ないのだが。
「……あの?」
男は目を丸めていた。怒るでもなければ失望するでもない。豆鉄砲で撃たれた鳩みたいな顔をしている。
おかげでリセはもう一度「あの」と声を出す必要があった。
「契約はできません、とお伝えしたのですが」
「ああ、うん」
どうにも反応が鈍い。が、ここで話を切るとあとあと厄介ごとを引き起こすこともある。たとえば〈歌うたい〉であることを隠しているリセに対し、延々話しかけてくるだとか。契約後を誓って眠れなくするだとか。生まれたときから〈余白持ち〉のリセには嫌と言うほど覚えがあった。
ゆえにリセはおとがいをあげ、背筋を伸ばし、はっきりとした声で問いかける。
「契約以外の範疇で、かわりにわたしがあなたにできることはありますか」
ないのであればそれでよし、あるならできるだけ努力はしよう。それがリセから隣人たちへの最大限の譲歩であり、表敬でもある。
応じて男は瞬きをした。なら、と小さな声がする。あいかわらず歌うようなその声を、リセはきっと耳ではない場所で知覚した。
そしてリセはまた何度目とも知れない後悔を重ねる。にっこり笑みを取り繕って、男は澄んだ声でこう言ったからだ。
「人探し、かな」
失敗したな、とリセは思った。これは最初から無視をするべき手合いだった気がする。
なんにせよ、世界に〈歌〉などあるからこんなことになるのだ。
リセはやっぱりあの科学者を好きになれそうにない。
彼はこの世にはじめて現れた〈歌うたい〉、おそらく唯一の〈天然物〉で、リセたちの遠いご先祖様でもあるそうだけれども――いっそなにもかも黙っておいてくれればよかったのだ。
あるいはそう、お喋りすぎる形質だけでも子孫に残さないで欲しかった。
苦虫を噛み潰したみたいな後悔を、海鳴りの音がさらってゆく。
〈歌うたい〉のリセ、十三歳の夏である。





